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2018年盛夏。板橋区民、戦時中を振り返る。Vol.-3 〜成増飛行場を作った男、大河内大佐を追う。〜

S17

 週末、台風が直撃しそうですね。猛暑を吹き飛ばしてくれるのか‥

”板橋ハ晴天ナリ。”はH.P.の簡易版である、ブログというウェブサイト機能を使ってお伝えしている。PCからもモバイル機器からも簡単にUPできるので便利なのだ。しかし、写真+文章という構成から絵日記として利用されるのがほとんどで、過去記事がすぐに埋もれてしまい検索がしにくいという欠点がある。

”絵日記”であればマメな人なら毎日記事をUPできるけれど、当ブログはちょっと方針が違い、どちらかというとH.P.に近いような内容であり、記事によっては調査をしてから書くので、時間がかかったり更新が止まったりすることもある。記事にしようかと思っても、調べの途中でほったらかしになっている案件はいくつもあったりする。

ほったらかしにしておいても進展はないし、今こんなことを調べてます、という途中経過を書くことで何かしら反応があったり、最近とみに物忘れが進んできた自分の備忘録にもなるかと思い、今回はそんな案件の一つをネタにして書いてみる。

たびたび記事として取り上げているけれど、現在の練馬区光が丘地域一帯に存在していた成増飛行場(正式には成増陸軍飛行場)については、いまだに全容がハッキリとはわかっていない。
機会があれば人前で成増飛行場について話したりすることがあり、その時、本にしてまとめて欲しい、とお声をかけてくださる方もいるけれど、なかなか難しいことだ。

昔、成増飛行場の戦友会会長であった刈谷氏を中心に、飛行47戦隊史(=すなわち成増飛行場の本)の制作が進んでいたけれど、刈谷氏の死去と成増会解散により計画は頓挫してしまった。その時の原稿は一部現存しているけれど、基礎資料はほとんどない状況だ。

成増飛行場の兄弟飛行場である調布飛行場については、昭和の頃から有志の方々による調査がなされており、何より調布飛行場は、当初、東京府の計画により建設が進められた(大東亜戦争開戦時点に陸軍へ移管)ので、東京都公文書館に礎となる公文書が残されていたり、終戦後は米軍により重要施設として進駐されたりして、写真を含め良い資料が多く残されている。

それにひきかえ成増の場合は、戦時中の急造飛行場でもあり、従事していた人間が多い割に現在に残る記録が圧倒的に少なく、調査も困難で、なかなか実態は解明されない。資料調査に関して鋭い嗅覚と明晰な頭脳を持った方が成増飛行場に興味を持ち、調べてくれないかなあ‥と願うが、なかなか現れてはくれない。せめてマスコミが嗅ぎつけて資金と人間を投入してくれないか、なんて他力本願なことを妄想する次第である。

まあ、妄想していても先へは進まないので、凡才でもできる努力をするしかない。

成増飛行場は、大東亜戦争緒戦の1942年4月、真珠湾の仕返しを企画したアメリカ軍が、空母に無理やり搭載した陸軍爆撃機B-24により、帝都を奇襲したことが発端で計画された。

帝都防衛の使命により、皇居上空まで離陸から3分で到達できる場所、ということでいくつかの候補地より当時の板橋区高松地区が建設場所として選ばれた。

さて、飛行場の建設地を選んだのは誰なんだろう?

成増飛行場を調べる上で、最初の疑問がこのことである。平成のはじめ頃、田柄区民館が調査しまとめられた冊子によると、空襲から1年後の1943年春ころ、当該地区の地主500名余りが板橋区役所に集められ、陸軍航空本部の大河内大佐より、協力を求められたとの記載がある。

当時、立ち退きを要求された加藤さんという方に話を伺ったことがあり、「東條英機が兎月園に来て飛行場予定地を視察した結果、ここに飛行場ができることに決まった。」とおっしゃっていた。「東條英機のバカやろう!」と、地主たちは口々に罵っていたという。

そりゃそうだよな、先祖伝来の土地をいきなり取り上げられるんだもんな、とその時は思った。うん、地元にそんな逸話が残っていたことはわかった。当事者の方々はそう噂をしていたんだろう。

しかしである。ありそうな話だけれど、それが事実かどうかはわからない。これは調べてみなくてはいけない案件である。

で、調べてみると「東条内閣総理大臣機密記録」という本の存在を知った。これは、総理秘書官を務めた鹿岡円平が、昭和16年12月19日から19年9月21日までの東條総理の日々の行動(日時と総理のその間の所在・会議など)を克明に記録したもので、1990年8月に出版された。

内容を見るまではそんなに詳細には載ってないだろう、と穿っていたけど、これがなかなか丁寧に記録されていて驚いた。現在の新聞に載る首相動静と同じような感じで、視察など外部に出かける場合も几帳面に書かれている。

で、昭和17年4月のドーリトル空襲時から成増飛行場の工事が始まる昭和18年8月までを確認してみると‥高松地域はおろか東京市北西部へ出かけた記録は確認できなかった。

緒戦の日本軍爆進も終わり、連合国の反攻勢が始まった難しい時期に、総理と陸軍大臣を兼任している東條閣下が、完成式典ならともかく、視察なんぞにわざわざ足を運ぶことはないのだろう。

では、誰が視察に来たのか、となるともう概出である、陸軍航空本部の大河内大佐という可能性が高い。

Who is 大河内大佐?

まず、陸軍の飛行場設置をどこの機関が選定するのか。
そこで、陸軍航空本部を検索してみると、確かに、総務部第三部が飛行場その他の施設の設定、建築などに関する業務を担っていたことがわかった。

それでは、大河内大佐の存在は?これは、残念ながら当時の実名入り組織図にアクセスできていないため、わからないのである。このことが、この項をほったらかしにしている理由でもある。

ただし、他にアクセス方法がないわけではない。それは、大河内大佐の階級である。大佐、いわゆる”佐官”は軍人階級のエリートクラスであり、戦後に行われた戦争犯罪調査にかかわることが関係するのか、わりと記録が残されているということだ。

軍隊は、大まかに”兵”と”将兵”に分かれる。兵は招集による兵役で、将兵は望んで軍隊へ入り軍隊の学校で教育を受けた兵である。招集でも後に学校に入って教育を受ければ下士官や士官となることができた。しかし、将兵でも佐官クラスになれるのは優秀な方であり、さらに大佐にまでなれるのは相当な物である。海軍なら二番艦、三番艦の戦艦の艦長であり、会社に例えれば、本社の本部長クラスで取締役一歩手前くらいといったものだ。

そんな感じなので、いろいろ調べると該当する人物に行き当たった。それは、陸軍士官学校28期出身の大河内淳(少将)である。「日本陸軍将官辞典」にて経歴を調べると、明治27年10月山梨生まれで昭和20年2月に戦病死されており、砲兵出身、昭和17年8月1日東京第一造兵廠仙台所長を経て昭和18年10月、第一造兵廠監督官を任じている。

う〜ん、これだけではなあ‥

造兵廠関係の仕事はしていたけれど、陸軍航空本部の人間ではないようだし、ちょうど飛行場選定の時期に微妙な立場にいる。伝わる証言によると、飛行場建設工事の監督でもあったといわれているので、う〜ん、どうなんだろう。仙台所長を一年たたずに終え、造兵廠監督官になる直前まで関わっていたのだろうか。成増飛行場が仮に完成したのが昭和18年10月だ。
亡くなった時の階級が少将であるので、成増飛行場選定のころは「大佐」という階級に矛盾はない。仙台所長という事を抜きに考えると、現在の練馬自衛隊一帯に存在した陸軍第一造兵廠倉庫の場所選定時に、もしかしたら関わりがあり、そのことがなにか関係しているのかなあと妄想できないでもない。

まあ妄想はただのむなしい空想に過ぎず、陸軍航空本部の組織図なり他の資料でもっと詳しく確認できなければ断定はできないですね。

大河内淳少将の同期には、”大河原鉄之助”少将という人物がおり、昭和15年8月に陸軍士官学校教官、16年10月に工兵教導隊長、19年8月防衛築城部長、20年3月少将昇進、4月に防衛総司令部附、第6工兵隊司令官という経歴で、こちらの人物の間違いではないのかなあとも思ったけれど、成増飛行場選定のころは学校の先生であるので、違うのだろう。


そんな次第で、調査につまずいている報告なのに長くなってしまいました。いつか決定的な資料に巡り会えますように。。

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