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板橋区民、収集品を前に再度語る。〜祝!いたばし大交通展開催〜

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 引き続き、国際興業バスについて。

前回記事で、「国際興業バスは、戦前からある東都乗合自動車を母体として、昭和20年代半ばから板橋区内を縦横に結ぶ路線として営業している。(強引な書き方ですがまた別の記事で触れます。)」と書いた。

”強引な書き方”とは、いろいろあるんだけど端折った。の意味で、終戦前後の状況については過去に一度記事にしたこともあった。もう少し詳しく述べるとこんな経過をたどる。

大正6年(1917年)生まれの小佐野氏が自動車部品販売業を始めたのは昭和15年(1940年)のこと。戦時中は軍需省に食い込み、大いに儲けを得る。大正時代半ばに生まれた男子が戦場にも行かずに済んだのは、相当な才覚があったのだろう。

終戦後はすぐに進駐軍相手の商売を始め、GHQ接待のために熱海ホテルや強羅ホテルばど名門ホテルを次々に買収、五島慶太から東都乗合自動車も譲り受け、進駐軍の送迎バス運用もまかされるようになった。これが国際興業バスの原点で、昭和22年に国際興業と改称された。


さて。


前回の記事では、板橋区民の収集品である当時のバス券の中に、国際興業となった時期に発行されたのに、東都乗合自動車表記のままなのはなぜなのか?との疑問を書いた。その頃に走っていたバスにも、T.N.K. と東都乗合の会社名が表記されていた。よく見ると、国際興業のマークが使用されているのだけれど、なんでそんなハイブリッドなことをするのかがわからなかったのだ。


それが、最近ようやくわかった。


昭和21年8月15日に施行された法律第7号により、戦時補償打ち切り(戦争中に当時の政府が命令または契約の形で支払を約束した保証や戦争保険金などを指す。主に軍需品の未払代金や徴用された後に撃沈された船舶に対する補償、工場の疎開経費などがこれにあたる。)によって著しい影響を受けることが予想される会社を特別経理会社に指定し、今後の事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し、その他の資産を旧勘定として分離することとされた。

(こんなんじゃ意味がわからんかもしれませんがなんとなく理解してください。)

ようするに、東都乗合自動車は、会社経理応急措置法下の特別経理会社に指定されていたため、この指定が解除されるまで国際興業による吸収合併は認められなかったのである。そして、昭和25年にこの指定が解除されたことで直営となり、これをもって、国際興業バスが成立したということなんですね。

そんなことにより、それまでは国際興業と名乗れなかったので、社名は東都乗合のまま国際興業のマークが付けられていたのである。

いや〜なかなかバスの世界も面白いもんですよ。

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コメント

前の「赤羽のおばあちゃん」の投稿では、名前を忘れてすいませんでした。
今回は国際興業についての話を興味深く拝読させていただきました。
右の回数券は見た記憶が無きにしも非ず、母親が何枚か千切ってバスガールさんに渡していた記憶が。
そういえば、この頃のバスの方向指示器は、ウサギの耳の様な形の物が水平に飛び出して、曲がる方向を指しでいましたね。
「アポロ式」と言う方向指示器だそうで、私は見ていて大好きな機械でした。

投稿: ひでぼう | 2018年4月18日 (水) 20時42分

>>ひでぼうさま
いつもコメントをありがとうございます。女車掌さんが乗っていたのは懐かしい風景ですね、独特な声音の案内も耳に残っております。私も方向指示器を見たくていつも運転席の横に陣取っておりました。ある時、宮の下交差点を右折する時にオーバーランして蓋のない側溝に前輪を落とした際に手すりにおでこをぶつけて大きなタンコブを作っのも良い思い出です。

投稿: | 2018年4月19日 (木) 09時38分

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