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2018年4月

⭐️「いたばし大交通展」宣伝始まる!⭐️

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 新年度が始まりましたね。4月に入った早々、洗濯したばかりのシーツを敷いて就寝、明け方に不快で目覚めたとたんクシャミと鼻水が止まらなくなり、以来常に脳みそに何かが詰まったような感覚で考え事ができない状態となってしまった。ニュースで「今年はヒノキ花粉飛散が例年の400倍観測」と聞いたので、間違いなくそれが原因だ。


そんな状況で迎えた新年度。板橋区立郷土資料館では今年秋から開催される特別展の宣伝が”ひっそりと”始まった。展示名も「いたばし大交通展〜江戸時代の街道から鉄道まで〜」に決まった。

20年ぶりの交通に関する展示で板橋区民も大いに楽しみにしているのだが、タイトル名に鉄道までと書いてある。

はて。

聞くところによると、展示内容詳細は決まっていないけれど、展示の主体は街道と鉄道であり、これ以外のもの、すなわち鉄道馬車、乗合馬車、市電、都電、乗合自動車の展示は期待できない(全く触れないわけではないということのようだ。それぞれのファンの方には残念である。板橋区民も、乗合自動車(=バス)の展示が無いのはショックだ。

まっ、でもそんながっくりせず、その分、都営三田線と東上線と赤羽線を深く取り上げてくれることを期待しよう!


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さらば、国産モノクロフィルム。〜それは板橋区から始まった〜

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 今日は昼過ぎまで練馬自衛隊の創立イベントに行ってました。相変わらずの人出でしたが、映画「シン・ゴジラ」以降、ますます来場者が増えたような気がします。練馬が首都防衛の根拠地ということが周知されたからですかね。


先週末、ちょっとショックなニュースが飛び込んできた。富士フィルムがモノクロフィルムの生産を終了すると言う。ニュースをまとめるとこんな経過があったようだ。


富士フイルムは6日、白黒写真用のフィルムと印画紙の製造・販売を終了すると発表した。

同社は1934年1月に設立。同年2月から白黒用の印画紙など写真感光材料の製造・販売を開始し、カラー写真が普及する1970年代まで主力商品として同社を支えてきた。しかし、カラー写真の普及やデジタル化に伴い、最盛期だった65年ごろの1%程度まで出荷量が減っていた。同社では、コスト削減などを進めたものの、採算がとれず安定的な供給が困難となったことから、製造・販売を終えることにした。
製造は既に終了しており、フィルムは今年10月、印画紙は種類別に今年10月から2020年3月までの間に順次、出荷を終了する予定。


富士フィルムの撤退により、80年余りに及ぶ国産のモノクロフィルムの歴史は終わりを告げる。モノクロフィルムでの「撮影」ー「現像」ー「紙焼きプリント」に過去親しんできた人間にとっては非常に感慨深いものだ。無くなるのはフィルムだけではなく、現像に関わるものがすべて消え去るわけで、映像表現の一つの世界が丸ごと消滅するのである。

現実的にはそれに変わる技術があり、すでに必要性のないものとなってしまったから滅びるわけで、先日記事にしたように、フィルム自体もその構造的宿命により永遠に残るものではないから、いつかはこんな日が来るのはしかたがないのだけれど、そんな日がとうとう来てしまったか、という感慨が胸をつく。

あまり知られていないが、日本における写真フィルムの歴史は、実は板橋区から始まっている。

小豆沢体育館近く、環八のセブンタウンの横にある大きな集合住宅地内に、「純国産写真フィルム発祥の地」と彫りこまれた記念碑が建っている(置かれている?)のをご存知だろうか。

この小豆沢一帯には以前、大日本セルロイド(株)(現ダイセル化学工業)の巨大工場があった。1928年(昭和3年)に工場の敷地内に「写真フィルム試験工場」をつくり、セルロイドを利用して写真用のロールフィルムを製造する部門を設け、研究を開始した。

そして1931年(昭和6年)、神奈川県足柄郡南足柄村にフィルム工場を建設し、主要機械を欧米から輸入して、写真フィルム製造に乗り出した。この足柄工場は1934年(昭和9年)に別会社として独立し、現在の富士写真フィルム株式会社となった。フィルムベースから一貫して生産したのは富士フィルムが初めてであり、小豆沢の地は、まさに純国産フィルム発祥の地なのである。

これを記念して建てられたモニュメントが、「純国産写真フィルム発祥の地」の碑で、卵が孵化する直前の姿をイメージしたものなのだそうだ。

板橋区民が高校生の頃より親しくしていた東武練馬の写真屋の親父さんは、暗室で現像中、黒の締まりが悪いと現像液中にハイドロキノンなどの薬剤を足していた。凝り性の人などは薬品の調合を自分流にアレンジし、独自の現像液を作ったりもしていた。古い人は処方箋に従い、いくつかの薬品を使って現像液などを調合していたのだ。ちなみにその親父さんは戦時中、ソ満国境の偵察部隊にいて、敵陣地を撮影した写真を、戦場に設営した暗室テント内で現像していたのだそうだ。

このように、現像は専用品がなくなっても大丈夫だけれど、フィルム自体がなくなってしまっては元も子もない。今後、モノクロ写真を行おうとするならば、もっと時代を戻してガラス乾板にしなきゃいけなくなりますね。(もっとも、海外製のモノクロフィルムはまだ存続するのでモノクロ自体が無くなるわけではありませんが。)

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板橋区民、久しぶりに収集品を前に語る。〜祝!いたばし大交通展開催〜

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 ヒノキ花粉症が治りません‥


先日、ぎょうざの満洲へ行こうと下赤塚駅北口を通りかかると目の前をヒュッと横切る影があった。おお、ツバメ君じゃないか。東京都内ではツバメの飛来が激減しているとニュースで見たけれど、下赤塚駅のツバメ君は毎年やって来てくれる。

お忘れかと思われるが、板橋区民は収集家である。板橋区に関する物は、数え方にもよるが数千点はあると思う。

この秋、板橋区立郷土資料館では「いたばしの大交通展」が開催されるので、その露払いとして当ブログでは交通関係の記事を優先的にUPしている。

板橋区内で一番親しい公共交通機関といえば、国際興業バスだろう。(都バスも東武バスも西武バスもりんりん号も走ってますが。)国際興業バスは、戦前からある東都乗合自動車を母体として、昭和20年代半ばから板橋区内を縦横に結ぶ路線として営業している。(強引な書き方ですがまた別の記事で触れます。)

板橋区民の収集品の中には国際興業の古いバス停が70点ほどあり、板橋区内の地域はだいたい網羅している。現在は液晶表示型バス停もあるし、こんな戦前からあるような金属の円板型をしたバス停は、もはや30代の方でも見覚えはあまりないだろう。記録を取っていないので曖昧だけれど、金属製のバス停は、昭和の終わりころから急激に姿を消していったような気がする。

たくさんある国際興業バス路線の中で、現在でも一番花形なのは、成増駅ー赤羽駅を結ぶ路線ではないかと、独断と偏見を持って断言する。鉄道路線と被らず、板橋区を綺麗に東西に横切っており、朝から夜までひっきりなしに便があるので時刻表が必要ないくらいだ。

この路線が誕生したのが昭和33年。最初は下赤塚駅ー赤羽駅を結ぶ路線(赤01)だった。我が赤塚郷を東西に貫く幹線道路である「松月院通り」は、川越街道が拡張される時に合わせ昭和10年ころに拡幅された。下赤塚駅から松月院を結ぶ赤塚中央通りは昭和20年代に拡幅。しかし、松月院通りは我が母校、紅梅小学校までしか通じておらず、そこから南へ向かい、東武練馬駅まで続く徳丸中央通りとなっていた。

紅梅小学校より東へ向かう松月院通りは、昭和20年代後半に拡張工事が行われ、西台まで繋がった。モノクロの空中写真がその新たに拡張された部分だ。赤01系統のバスは、この整備された赤塚郷内の道を走ることになった路線なのである。成増駅からの便(赤02)が増設されたのはそれから数年後のことだ。

収集品の写真にある1区間30円時代のサボは、いつごろ使用されていたものだろうか。国際興業バスの路線変遷や歴史を解説したマニアサイトは存在していないようなので、周辺情報から探ってみるしかない。都営バスや私鉄系バスの料金変遷表を見ると、昭和30年代半ば〜40年代初期が20円、40年代前半〜後半が30円時代である。サボには”徳丸本町”の表記があり、松月院通り沿いの徳丸本町が住所変更されるのが昭和47年なので、その時代に使用されたものだとわかる。

そのころ、板橋区民は赤01の路線上を決死の思いで自転車を漕ぎ、赤羽にある山中模型店まで通っていた。ガードレールもろくにない、簡易舗装の埃舞うガタガタ道、ダンプカーがガンガン通り過ぎる隙を縫って走る地獄のロードだった。今から思えば、バスの子供料金なんてそれこそ小遣いでも乗れるような金額なんだからバスで行けよとおもうのだが、なんで子供の頃ってあんなバカなんだろう。。

残念ながら、この秋の展示では板橋区民の所蔵するバス資料はほとんど公開されることはないだろう。いつか、お目にかける機会が来ることを、気長に待つしかないですね。

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板橋区民、収集品を前に再度語る。〜祝!いたばし大交通展開催〜

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 引き続き、国際興業バスについて。

前回記事で、「国際興業バスは、戦前からある東都乗合自動車を母体として、昭和20年代半ばから板橋区内を縦横に結ぶ路線として営業している。(強引な書き方ですがまた別の記事で触れます。)」と書いた。

”強引な書き方”とは、いろいろあるんだけど端折った。の意味で、終戦前後の状況については過去に一度記事にしたこともあった。もう少し詳しく述べるとこんな経過をたどる。

大正6年(1917年)生まれの小佐野氏が自動車部品販売業を始めたのは昭和15年(1940年)のこと。戦時中は軍需省に食い込み、大いに儲けを得る。大正時代半ばに生まれた男子が戦場にも行かずに済んだのは、相当な才覚があったのだろう。

終戦後はすぐに進駐軍相手の商売を始め、GHQ接待のために熱海ホテルや強羅ホテルばど名門ホテルを次々に買収、五島慶太から東都乗合自動車も譲り受け、進駐軍の送迎バス運用もまかされるようになった。これが国際興業バスの原点で、昭和22年に国際興業と改称された。


さて。


前回の記事では、板橋区民の収集品である当時のバス券の中に、国際興業となった時期に発行されたのに、東都乗合自動車表記のままなのはなぜなのか?との疑問を書いた。その頃に走っていたバスにも、T.N.K. と東都乗合の会社名が表記されていた。よく見ると、国際興業のマークが使用されているのだけれど、なんでそんなハイブリッドなことをするのかがわからなかったのだ。


それが、最近ようやくわかった。


昭和21年8月15日に施行された法律第7号により、戦時補償打ち切り(戦争中に当時の政府が命令または契約の形で支払を約束した保証や戦争保険金などを指す。主に軍需品の未払代金や徴用された後に撃沈された船舶に対する補償、工場の疎開経費などがこれにあたる。)によって著しい影響を受けることが予想される会社を特別経理会社に指定し、今後の事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し、その他の資産を旧勘定として分離することとされた。

(こんなんじゃ意味がわからんかもしれませんがなんとなく理解してください。)

ようするに、東都乗合自動車は、会社経理応急措置法下の特別経理会社に指定されていたため、この指定が解除されるまで国際興業による吸収合併は認められなかったのである。そして、昭和25年にこの指定が解除されたことで直営となり、これをもって、国際興業バスが成立したということなんですね。

そんなことにより、それまでは国際興業と名乗れなかったので、社名は東都乗合のまま国際興業のマークが付けられていたのである。

いや〜なかなかバスの世界も面白いもんですよ。

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さらば、国産モノクロフィルム。〜それは板橋区から始まった〜

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さらば、赤塚郷昭和の風景。

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 今週末は規格外の暑さだとか。とほほ。


先月、我が赤塚郷にある二つの銭湯が相次いで廃業した。

一つは赤塚の「栄湯」。

一つは徳丸の「北野湯」。

何れも昭和の風情を残した、「宮型造り」の銭湯だ。

これをもって、赤塚郷に存在する宮型造りの銭湯はすべて滅び、近在では東武練馬の北町浴場と西台高速側の功泉湯を残すだけとなった。

板橋区民は温泉、またはスーパー銭湯が好きだ。しかし、銭湯はほとんど利用してこなかった。理由は朝から夜まで通しで営業していない、シャンプーなどが常備されていないからだ。(赤塚6丁目の岩の湯は常備されているが)

「栄湯」は昭和35年、「北野湯」は昭和36年開業の老舗で、北野湯へは通っていたまきば幼稚園のお泊まり会で行った記憶が残っている。皆んなで並んで座り、背中を流しあったっけ。。

板橋浴場組合のサイトを覗くと、赤塚村には昭和初期にすでに銭湯があったことが記載されているが、どこにあったのかまでは書かれていない。板橋区全体だとさすがに板橋宿周辺には多く存在していた。おそらく江戸時代にはすでにあったのだろう。

ちょうど1年前、板橋町にあった「花の湯」が廃業した。ここは明治時代後半に開業した板橋区に残る最古の銭湯で、戦時中の空襲でも焼け残った。廃業情報は事前に得ていたが、悪いクセでどうも板橋町方面へ行くのは腰が重いし通った思い出もなかったのでスルーしてしまった。(風呂屋なので気軽に写真も撮れないし。)ただ、今では行っておけば良かったかなと反省している。

板橋区民の故郷、徳丸では、最盛期には頭に浮かぶだけで銭湯は6箇所あったと思う。現在残るのは、黄金湯と光徳湯だけとなった。赤塚は岩の湯、成増は初音湯だけかな。

廃業に至る理由はわかりますが、なんか、寂しいですね。それは、銭湯の煙突が地域のランドマーク的位置付となっているからなんですかね。。

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板橋区民、寶籤を買う。

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 規格外の暑さになる予報ですが、さすがに朝晩は涼しいので夏よりはマシですね。


今年1月、我が赤塚郷で億万長者が誕生した。下赤塚駅北口にある宝くじ売り場で、スポーツくじBIGの1等当選約4億円が出たのだ。
はたして当選者が赤塚郷住人なのかどうかは不明だが、人生が一変することは間違いない。

板橋区民は普段ほとんど宝くじを買うことはないけれど、この幸運に便乗したく、同売り場で何年ぶりかで購入し始めた。ただし、購入するのは1枚だけ。しかもジャンボのみ、一攫千金狙いである。

たった1枚だけ?それじゃあんまりにも確率が低くありませんか?意味あんの?‥そう思われるかもしれない。

しかしである。

たいていのジャンボくじは、1000万枚を1ロットとして発売される。ようするに、1等当選の確率は1/10000000だ。
じゃあ100枚買えば確率は1/100000になるのか?というと、そうはならない。確率が上がるためには、1ロット中の当選数が増えなくてはならず、1ロット中に1等が100枚なければそうならないのだ。

くじをたくさん買っても分母が減るだけ、100枚買うと1/9999900になるだけで、率にすると0.001%確率が高まるということなので、これではほとんど確率は変わらないと言っていい。たとえ10000枚買っても1/9990000。だから、1枚しか買わなくても良いのだ、という理屈だ。

今度は、宝くじ購入を人口で考えてみよう。統計では、1年間で宝くじを買う人は約5200万人いるという。そのうち、1000万円以上の高額当選者は約2万人に上るそうで、割ってみると1/2600となる。だいぶ、確率は高い。
この理屈を参考にすると、一度に枚数を買うよりも、買う宝くじの回数を増やしたほうが当たる可能性があるのだそうだ。

おっと、今回はそんな内容で書きたかったワケじゃないので仕切り直す。

忘れられているかもしれないが、板橋区民は収集家である。特に、板橋区最大の歴史上スター、高島秋帆先生の墨跡の収集では日本有数と自負している。

収集品は、軸、手紙、扇面、高島流奥義、扁額、等々およそ100点弱はあるかもしれない。その内、資料的に価値の高いもの、例えば、徳丸原調練に参加した者で秋帆先生や息子・浅五郎と親しい長崎人が寄せ書きした軸や、浅五郎が金沢藩の砲術指南で高島流の弟子に送った惜別の書、高島流門弟で後年、有坂ライフルで有名となる有坂氏が発行した西洋流奥義免状などは、板橋の郷土資料館に請われ収めてしまった。

最近、ようやく秋帆先生の六双屏風を手にいれた。先生最晩年のお作で、屏風の収集は初めてだ。一見高額そうに見えるけれど、その大きさゆえあまり人気がないので、わりとリーズナブルに購入できた。うわっ、届いてびっくり、ドアよりでかい。こんなん家に置いとけないので、今後どうしたものかと悩んでいる次第だ。

ところで、収集家の最大の悩みは、収蔵品の行く末である。

収集行為とは子供っぽい行動だけれど、どんな収集物でも途中で飽きたりやめたりせずに年月が経つと、なにがしかの意味を持つようになる。秋帆先生関連資料は、誕生した1798年から亡くなる1866年までの時代に生み出された物であり、それらの物がどんな経過をたどってきたのだろうか、長い年月を経て板橋区民の元に集まったのである。自分よりもはるか昔から存在しているそれらの品々を眺め、経過した歴史に思いを馳せると、とても感慨深い。

いったい、これらの収集品は次の時代へ、どのような形で世の中に伝わるのがベストなのか、そのことを常に考える。

最近のこと、板橋の資料館にはるばる長崎から訪ねてきた人がいたという。その方は高島秋帆研究家の方で、秋帆先生が長崎で最後に住んだ東小島にある邸宅”雨晴楼”の図面や瓦片を所蔵しているのだそうだ。

板橋区民は、2年前に長崎を旅し、高島家先祖伝来の墓地や、晴雨楼に足を運んだ。残念ながら晴雨楼の建物は原爆の被害により取り壊されてしまい、今は跡形もない。しかし、邸宅のあった土地は戦前から史跡に指定されているため、現在もほぼそのまま残っている。

その長崎の研究家がなぜわざわざ板橋区まで来たのかといえば、砲術の高島流と高島家に関しての資料収集と研究では日本で一番充実しているからに他ならないからだ。残念ながら、本拠地長崎では高島家への関心は低く、評価や顕彰もおざなりな状況だ。実際に現地へ行き、関係各所を訪ねても、がっかりするばかりである。

その一因となっているのが、勝海舟が高島秋帆を近代陸軍の祖として陸軍正史に権威付けたからだ。先の大戦以来、軍隊は否定と拒否をされ続けており、特に、原爆の惨禍に見舞われた長崎では、軍部により祭り上げられた高島家については消極的な位置におかれているのが現状だ。

今年は明治維新から150年、もう幕末期のことは歴史として正視してもいいんじゃないかと思うのですがねえ。。

ここで最初の話に戻りますが、もし、宝くじが当たったなら、その当選金で”雨晴楼”の跡地に建物を復元し、板橋区民の所蔵品も寄贈するのが、一番良い方法なのではないかと妄想したのである。そう思って宝くじを買い始めたのだ。


‥しかし、実際に当選して現ナマを目の前にしてその考えは変わらないかといえば、それは自信がナイ。。

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ネオ・クラッシックなときわ台駅舎、姿を顕す。

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 いよいよ、G.W.が始まりましたね。好天のスタート。

なんども記事にしているので説明するまでもないけれど、G.W.(ゴールデンウィーク)という呼び名は、我が赤塚郷で撮影された映画から生まれた。1951年に公開された大映製作「自由学校」がその映画で、この時、同名同内容で松竹版も製作され、同時期に公開された。その煽り宣伝文句として生まれたのが、ゴールデンウィークに映画を見に行こう!というキャッチコピーだった。結果全国の映画館は大盛況、以降G.W.という言葉が定着したのである。


さて、本題。


先日、某所から、現在修復中のときわ台駅で使いたいからと、所蔵資料の提供を求められた。
協力するのは板橋区民としてやぶさかではないので承知したけれど、どこに使うのかイメージがわかないので、実際に確認をしに行った。リニューアル工事中のときわ台駅舎は、ようやく覆いが取り除かれ、駅舎開業時往年の姿を現していた。


いや〜驚いた。


よくイベントで昔の車両を再現した、なんて電車を走らせているけど、現車にそれらしい配色をしただけでなんだよそりゃ、てな感じで正直あまり期待していなかったけれど、これはいい。なんかすごいおしゃれだ。全然古臭ささもなく、ネオ・クラッシックというべきか、素敵だ。夜になるとライトアップも行われているらしい。

やるじゃん、東上線。いや、東武鉄道。

これなら住人も納得だろう。ただし、まだ工事が終わったわけではなく、これからエレベーター塔や、現在の改札のある場所には駅ビルが建設される予定なので、全体の景観はわからない。東武鉄道では、なるべく景観を損なわないような形にしたいと言っているので、期待したい。新駅舎の使用開始は5月30日からと聞いている。

さて、板橋区民の資料だけれど、駅舎西側の大谷石の壁に掲げられている銀色の板の部分に、ときわ台駅や常盤台町の歴史を記した解説板が設置され、そこで使われるようだ。なんとか爪痕を残せそうで、喜ばしいことです。

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