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板橋区民、解禁する。〜そもそも論から始めたい〜

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 いよいよ東京でも桜の開花宣言が出ましたね。昨年より一週間くらい早いような気がします。

ちょっとフライングかもしれないけれど、今年10月に板橋区立郷土資料館で「いたばしの大交通展(仮)」が開催されることになった。

遡ることちょうど20年前、1998年に「トラムとメトロ展」が行われたが、それ以来の交通に関する特別展である。今年は都営三田線(都営六号線)が開業して50年目にあたり、それを契機として行われるのだ。

どんな構成の展示になるかは決定していないけれど、おそらく1階は近代以前の街道に関する展示、2階が近代(明治)以降の板橋区の交通の歴史展示となるのだろう。まあ、基本的には都営三田線開業50年に関する展示が主となるかもしれないが、楽しみである。

当ブログでは、去年から交通関係の記事を多くUPするようにしてきたが、この特別展開催を意識してのことであり、できうるならば板橋区内の様々な交通の歴史についても、総花的ではなく掘り下げた展示をしてただきたいと願う次第だ。もちろん、板橋区民も全面的に協力し、所蔵する資料や情報はすべて提供するつもりである。


さて、冒頭の書類は板橋区民が所蔵する東上鐡道株式会社創立に関する冊子で、明治42年9月に上梓されたものだ。


「そもそも、なぜ東上線という名称が付けられたのか。」


数ある東上線の謎の中で、これが最初にして最大の謎ではないだろうか。

‥ん?そんなの「”東京と上州を結ぶ路線”だからそう命名したんだろ。」

これが大方の結論であり、世間の認識として定着されているのは事実だ。東上線ファンの間でも昔から議論の的となり、ネットで検索しても様々な見解が示されているが、たいていは東京と上州、あるいは上野国とを結ぶ論で決着している。

確かに、敷設免許は大塚から渋川までが認められ、最初は川越の先、田面沢まで、次に坂戸、そして寄居までが開業した。結局は八高線が倉賀野(高崎)まで敷設されることにより、とうとう渋川までは繋がらなかったけれど、東上線の名は東武鉄道に吸収されてからも残った。

しかしである。ここでまたそもそもの基本に立ち返ろう。

東上鐡道創立の冊子を冒頭から見直してみると、創立趣意として描かれているのは、あくまで目指す終点は越後の「長岡」、なのである。とにかく趣意書には終点である渋川についてはほとんど触れられておらず、ただひたすら長岡(信越線)までを繋ぐことを熱心にアピールしているのだ。

では、誰が最初に「東上線」の設立を思い立ち、この趣意書の核を記したのか。。

その答えは、前回UPした記事、下板橋駅近くに建つ、「東上鐡道記念碑」の碑文にある。

碑文には、「‥已マサリキ爰ニ内田三左衛門氏外十名ノ有志ハ蹶起シテ東上鐡道株式會社ヲ設立シ本鐡道ノ敷設ハ一日モ閑却スヘカラサルヲ提唱シ東奔西走同志ヲ勤説スルコト年餘漸クニシテ‥」とあるように、筆頭に挙げられた”内田三左衛門”という人物が大きな役割を果たしたことが記されている。

それでは、この内田三左衛門という人物は何者なのか?ウィキぺディアの解説によると、「内田の出地は川越の豪商」とある。ウィキぺディアは専門家の間で資料としては相手にされていないが、ただの妄想で書かれた情報ではなく、必ず出典があるわけで、どこかにそんな記載がなされているのであろう。

板橋区民も、川越市の博物館の方から「最初の終点の田面沢近辺には内田姓の家が多いので、内田はここら辺の出自で、そのために終点をここに置いたんじゃないのか、」なんて話をお聞きしたことがある。

しかしである。ここでまたそもそもの基本に立ち返ろう。

東上鐵道の碑には、内田についてこんなことも記されている。「‥(内田)氏ハ天文年間川中島ノ戦ノ時上杉謙信ノ麾下ニアリタル越後ノ勇士宇佐美駿河守定行ノ後裔幼時故アリテ内田姓ヲ冒シタルモノナリ父祖ノ血ヲ享ケタルノ然ラシムル所カ氣節ニ富ミ其ノ行状大ニ常人ト異ナレリ‥」

注目すべきは、<内田氏は天文年間にあった川中島の戦の時、上杉謙信の直属の部下であった越後の勇士である宇佐美駿河守定行の子孫である>の部分である。

もしかすると内田三左衛門は、父祖の地である越後に鉄道を繋げたい。その野望を心に秘めて東奔西走し、家財を食潰すことも顧みずに東上鐵道創設に情熱を燃やしたのではないか、そんな思いがしてならないのである。

ウィキぺディアには「内田の出地は川越の豪商」とあるけれど、東上鐵道の碑の隣に掲げられた板橋区教育委員会による解説板には、「発起人総代は千家尊賀ですが、その実現のために尽力したのは、板橋区蓮根で醤油醸造業を営んでいた内田三左衛門でした。とある。

そう、内田三左衛門は”板橋(区)”の人なのである。

東上線創業の謎を解くには、内田三左衛門を知ることから始まる。

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