« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »

2018年3月

速報!!☆2018年 赤塚梅まつり開催☆

Ume_22

 3月に入り、いよいよ春来たり!という季節になりましたね。

本日はひな祭り。我が赤塚郷の古刹、赤塚城址周辺のため池公園一帯では、「赤塚梅まつり」が始まった。梅もちらほら開花しており、とても気持ちの良い日であった。


そんな梅まつりに花を添えるため、板橋区の誇る「赤塚城戦国絵巻行列」が行われた。赤塚城を本拠地とした、武蔵千葉氏の戦国武者を再現した行列だ。(いろいろつっこみたい方もいるかもしれないが、それはヤボというもの。)

今年も地元の子供達が大勢参加して、賑やかに行進が行われた。黒の鎧に身を固めた坂本板橋区長への着到状受け渡しや三献の儀を終え、鬨の声を上げた後はいよいよ和流砲術演武の披露だ。西洋流はスピーディに射撃を行うことに意義があるが、和流はどっしり堂々とした撃方を行うことが肝要なのである。

それでは田遊びまつりに続き、iPhoneXにてHDV 1080P 60撮影した動画でお楽しみくださいませ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

最速報!!☆2018年 赤塚梅まつり 2日目 西洋流演武☆

 最速でUP!!

 

 

 

 

 

赤塚梅まつりにて行われた西洋流火術鉄砲隊保存会による西洋流演武の様子です。

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋区民、東上線で西上する。




下赤塚駅からおはようございます。
板橋区民はふとプチ旅行に行きたくなったので、東上線で西上することにした。

さて何処へ向かう。



で、降りたところが武蔵嵐山駅。何年ぶりだかな



駅構内にはプチお弁当屋さん。



駅前には廃屋があったりして旅情を誘う。



バスに揺られること20分、八高線踏切近くで降りて歩く。



のどかな里山の風景の中をのんびり歩くと、やがて山裾に目指す「玉川温泉」に着く。



館内は昭和レトロな雰囲気を演出している。



ふと思い出したが、板橋区民は前にここを訪れている。確か先代の北の将軍が死んだニュースをここで見たのだ。あの時はまるで昭和そのもの、と言った館内だったが大幅にリニューアルしたのだろう。温泉がどう変わったのか楽しみだ。



という事で温泉を堪能した。湯船は昔と大きくは変わってないような気が‥。お湯は秩父の山に近いだけあってアルカリのつるつる泉だ。何時も贔屓のサイスポと同じ泉質だが、こちらの方が断然新鮮な感じがする。湯量が多くサイスポより狭いからのかなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サルベージ/成増陸軍飛行場秘話4 〜東の空を見ていた夜〜

 日増しに季節が変わる感がしますね。


本日は、73年前に「東京城北下町地区大空襲」があった日ですね。正確には9日深夜から10日明け方にかけての断続的な空襲で、死者およそ10万人、原爆に匹敵するほどの大虐殺が行われました。

板橋区民の知り合いで、当時、墨田区の菊川に住んでいた方に話をお聞きしたことがあります。
その方自身は縁故疎開で栃木へ行っており空襲には遭いませんでしたが、父上が地元に残り警防団に入っておりました。当日は、避難先として指定されていた、家の裏にある中和小学校(当時としては珍しい総コンクリート製の校舎)にて任務に就き、避難民を受け入れ、空襲が激しくなると門を閉じ延焼を防ぎましたが、あとからあとから逃げてくる人々が殺到し入れてくれと必死に門を叩くけれど、延焼を防ぐためどうしても開けられず、空襲が去った後には門の前にたくさんの焼死体が折り重なっていた、という悲惨な状況だったそうです。

空襲時、門を開けなかった警防団を責めるのは酷なことで、戦争とはこのような状況が当たり前に起こるということを認識すべきだと思います。

それでは、空襲当日の成増飛行場の状況を記した記事を、サルベージして再掲します。

Photo1昭和20年2月10日、中島飛行機太田工場への空襲を担当した米軍第21爆撃機兵団は、工場へかなりの損害を与えたが、目標が内陸部にあったため、作戦に参加したB29機が12機も撃墜されるという、今までで最大の損失を被った。すでに1月下旬には、高高度からの精密爆撃を進めていたハンセル准将から、焼夷弾を低空から大量に投下して行う空襲法を推奨する、ルメイ少将へと司令官の交代が行われていた。ルメイも最初は従来と同様の精密爆撃を行っていたが、冬期の日本列島上空は気象条件が悪く、爆撃機の燃費や編隊飛行の維持の困難から、夜間に低空で侵入し、焼夷弾空襲を実施することにした。

2月16・17日の両日、米軍第58任務部隊(空母を中心とする機動部隊)の艦載機群が、関東地区の飛行場などへの攻撃を行なった。

16日の夕方、防衛総司令部では、この日の戦闘について検討が行われていた。我が方の防空部隊は、相当の損害を受けてしまっている。それより先、2月9日の防衛司令部における方面軍司令官等の会同において、防衛参謀より、敵小型艦載機との戦闘は航空戦力の損耗が激しく、機材・人員の補充も困難であるので、来るべき本土決戦に備え、航空戦力の温存を図るようにとの意見が出されていた。このことをふまえ、戦闘隊による積極的な対艦載機戦闘を、制限することがすでに決められていた。そこで、第10飛行師団の中で最も戦力の充実していた47戦隊(成増)と244戦隊(調布)を防空任務から外し、この日(16日)の夕方をもって第6航空軍の指揮下に入れたのである。両戦隊には、戦闘機を地上に分散隠匿し、損害減少を努めるようにとの命令が下った。

防空任務を解かれた47戦隊の空中勤務者達は、ピストにいる必要もないので下宿で過ごしたり、知り合いの家に泊まりに行ったりしていた。第二中隊・桜隊の一楽さんは、空襲警報が発令されたある夜、トラックに乗せられ西方向(川越方面)へ向かい、大きな家で一晩過ごしたことを記憶している。恐らく、空中勤務者を避難させるためだったのだろう。


‥今からちょうど64年前(ママ)のこの日深夜。焼夷弾を満載したB29の大集団がテニアンやマリアナの基地を飛び立ち、東京の下町に殺到した。すでに防空任務を外されていた47戦隊は邀撃の命令も無く、隊員達は東の空が真っ赤に染まるのを、ただ、なすすべもなく飛行場から眺めていたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋区民、解禁する。〜そもそも論から始めたい〜

Tobu_11Tobu_21Tobu_31Tobu_41

 いよいよ東京でも桜の開花宣言が出ましたね。昨年より一週間くらい早いような気がします。

ちょっとフライングかもしれないけれど、今年10月に板橋区立郷土資料館で「いたばしの大交通展(仮)」が開催されることになった。

遡ることちょうど20年前、1998年に「トラムとメトロ展」が行われたが、それ以来の交通に関する特別展である。今年は都営三田線(都営六号線)が開業して50年目にあたり、それを契機として行われるのだ。

どんな構成の展示になるかは決定していないけれど、おそらく1階は近代以前の街道に関する展示、2階が近代(明治)以降の板橋区の交通の歴史展示となるのだろう。まあ、基本的には都営三田線開業50年に関する展示が主となるかもしれないが、楽しみである。

当ブログでは、去年から交通関係の記事を多くUPするようにしてきたが、この特別展開催を意識してのことであり、できうるならば板橋区内の様々な交通の歴史についても、総花的ではなく掘り下げた展示をしてただきたいと願う次第だ。もちろん、板橋区民も全面的に協力し、所蔵する資料や情報はすべて提供するつもりである。


さて、冒頭の書類は板橋区民が所蔵する東上鐡道株式会社創立に関する冊子で、明治42年9月に上梓されたものだ。


「そもそも、なぜ東上線という名称が付けられたのか。」


数ある東上線の謎の中で、これが最初にして最大の謎ではないだろうか。

‥ん?そんなの「”東京と上州を結ぶ路線”だからそう命名したんだろ。」

これが大方の結論であり、世間の認識として定着されているのは事実だ。東上線ファンの間でも昔から議論の的となり、ネットで検索しても様々な見解が示されているが、たいていは東京と上州、あるいは上野国とを結ぶ論で決着している。

確かに、敷設免許は大塚から渋川までが認められ、最初は川越の先、田面沢まで、次に坂戸、そして寄居までが開業した。結局は八高線が倉賀野(高崎)まで敷設されることにより、とうとう渋川までは繋がらなかったけれど、東上線の名は東武鉄道に吸収されてからも残った。

しかしである。ここでまたそもそもの基本に立ち返ろう。

東上鐡道創立の冊子を冒頭から見直してみると、創立趣意として描かれているのは、あくまで目指す終点は越後の「長岡」、なのである。とにかく趣意書には終点である渋川についてはほとんど触れられておらず、ただひたすら長岡(信越線)までを繋ぐことを熱心にアピールしているのだ。

では、誰が最初に「東上線」の設立を思い立ち、この趣意書の核を記したのか。。

その答えは、前回UPした記事、下板橋駅近くに建つ、「東上鐡道記念碑」の碑文にある。

碑文には、「‥已マサリキ爰ニ内田三左衛門氏外十名ノ有志ハ蹶起シテ東上鐡道株式會社ヲ設立シ本鐡道ノ敷設ハ一日モ閑却スヘカラサルヲ提唱シ東奔西走同志ヲ勤説スルコト年餘漸クニシテ‥」とあるように、筆頭に挙げられた”内田三左衛門”という人物が大きな役割を果たしたことが記されている。

それでは、この内田三左衛門という人物は何者なのか?ウィキぺディアの解説によると、「内田の出地は川越の豪商」とある。ウィキぺディアは専門家の間で資料としては相手にされていないが、ただの妄想で書かれた情報ではなく、必ず出典があるわけで、どこかにそんな記載がなされているのであろう。

板橋区民も、川越市の博物館の方から「最初の終点の田面沢近辺には内田姓の家が多いので、内田はここら辺の出自で、そのために終点をここに置いたんじゃないのか、」なんて話をお聞きしたことがある。

しかしである。ここでまたそもそもの基本に立ち返ろう。

東上鐵道の碑には、内田についてこんなことも記されている。「‥(内田)氏ハ天文年間川中島ノ戦ノ時上杉謙信ノ麾下ニアリタル越後ノ勇士宇佐美駿河守定行ノ後裔幼時故アリテ内田姓ヲ冒シタルモノナリ父祖ノ血ヲ享ケタルノ然ラシムル所カ氣節ニ富ミ其ノ行状大ニ常人ト異ナレリ‥」

注目すべきは、<内田氏は天文年間にあった川中島の戦の時、上杉謙信の直属の部下であった越後の勇士である宇佐美駿河守定行の子孫である>の部分である。

もしかすると内田三左衛門は、父祖の地である越後に鉄道を繋げたい。その野望を心に秘めて東奔西走し、家財を食潰すことも顧みずに東上鐵道創設に情熱を燃やしたのではないか、そんな思いがしてならないのである。

ウィキぺディアには「内田の出地は川越の豪商」とあるけれど、東上鐵道の碑の隣に掲げられた板橋区教育委員会による解説板には、「発起人総代は千家尊賀ですが、その実現のために尽力したのは、板橋区蓮根で醤油醸造業を営んでいた内田三左衛門でした。とある。

そう、内田三左衛門は”板橋(区)”の人なのである。

東上線創業の謎を解くには、内田三左衛門を知ることから始まる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

*忖度*板橋区民、謝罪して記事の内容を書き換える。

 日頃えらそうに記事を書いているとこんな時にどう書けば良いか困りますね。。

新年明け1月8日にUPした記事、「板橋区民、板橋区内の交通の歴史を垣間見ることにする。」の記述について記憶違いによる事実誤認があったので一部を削除&訂正いたしました。


削除&訂正は、下板橋駅近くに建つ「東上鐵道記念碑」について書いた文章で、平成7年に板橋区立郷土資料館で行われた特別展「板橋と鉄道」にて、<東武鉄道博物館の花上館長(当時)が講演会を行った。>とする一連の部分だ。

板橋区民が昔撮影していた動画を確認していると、すっかり忘れていたのだが、当時、この展示と講演会の様子を撮影したDVテープが見つかった。改めて動画を確認すると、講演を行ったのは東京学芸大学名誉教授の青木栄一氏であった。青木氏は鉄道地理学の研究で有名な方で、鉄道雑誌で寄稿された文をよく目にする。

講演の途中で、東上線創立に尽力した内田三左衛門の孫である方が名乗り出たのは本当のことであったが、祖父のことはあまり子孫には伝えられておらず、青木教授に、内田はどんな人物だったかを質問する流れであった。先の記事で、東武鉄道が内田の事績を抹殺した、なんて非道なことを書いてしまったが、孫の方はそんなことは言っていなかったのである。

‥たいへん申し訳ありませんでした。気分を悪くされた関係機関の方々がおられましたら、お詫びを申し上げます。

ただし、青木教授も、東武鉄道の社史と東上鐵道記念碑の碑文に書かれた内容に違いがあることについての疑問を、講演冒頭に指摘しておられた。東上鉄道株式会社の歴史については切り捨てられている状況であるのは確かなことのようだ。

とりあえず本日は告知ということで、この話題についてはまたの機会に記事にして触れることにいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋区民、古いネガを救う。

Aka_12Aka_13096210962

 もう、桜は散り始めてますね。今年の花見期間は短かかった‥

ようやく、待ちに待ったフィルムデジタイズアダプターが届いた。当初の発売予定日から半年も遅れている。届いたアイテムは見た目これという複雑な形状をしていないのだがなんでこんなに遅れたんだ?大丈夫か、ニコン。

板橋区民の手元には大量のネガフィルムが保存されている。そのうちモノクロフィルムのほとんどを自家処理しており、近年劣化が激しいネガが増えてきた。ネガの劣化は救うことも止めることもできず、救うにはネガからプリントをするか、デジタルデータ化するしか方法はない。

現実的な方法はデジタル化だけれども、フィルムスキャナーは昔から製品が出ていて、かつて板橋区民もニコンのフィルムスキャナーを持っていたけれど、いかんせん処理に時間がかかり1コマ3分ぐらいかかったので、ほとんどの所蔵ネガはデジタル化をしていなかった。もっと簡便に処理できなければ作業時のモチベーションを保つのは難しい。そこで満を持して登場したのがニコンES-2だ。これは、基本的にD850との組み合わせで使うようになっており、D850側に画像変換ソフトが組み込まれていて、シャッターを押せば即座にデジタル画像に変換されるのだ。

それにしても、ネガの経年劣化は深刻だ。これはビネガー症候群と呼ばれ、セルロースのベース面が加水分解して起こるらしいが、定着処理をした後の水洗作業でフィルム中にまだ酸の成分が残ったままになっていて、それが溶け出してダメージを与えているような気もする。フィルム自体も酢こんぶのような匂いを発していて、症状が進むと写真にあるようにフィルムがストローのように丸まっていき、しまいには固くなり開かなくなってしまうのだ。


とりあえず、手近にある古いネガをアダプタに仕込みテストをしてみた。1971年ころに千葉の行川アイランドで行われた「井上順之ショー」を撮ったもので、何年か前に記事にしましたね。ネガはさくらカラー、後のコニカカラーだけれど、今の30歳くらいでもすでになにそれ?状態かもしれない。

アダプタにネガを挟み、カメラをライブヴュー状態にしてデジタイズモードで複写してみるが全体が緑がかっていてなんだこりゃ、だ。ちなみにrawモードは使えずjpegのみ、撮影時には明るさの変換しかできないようだ。画像をPCへ移しフォトショップでいじると少しは見れるようにはなった。まっ、こんなもんなのかな。あまり過剰な期待は禁物ですかね。できればフィルムの種類にあうようなモード変換が装備されれば良いのですが。カラーネガだとメーカーや製品でベースの濃度や色素に特徴があるので可能だと思いますがね。

撮って出しの画像サイズは、A3にグラビア印刷で耐えられる程度の大きさかな、まだファーストインプレッションなので、データを追い込んでいけばもっとましな画像になりそうだけれど、何百何千枚のコマをいちいちやってられるか!とも思う。せめてrawで複写保存できるようにしてもらいたいものだ。これもソフト的な問題なので可能なはずと思いますが。(ポジフィルムの場合は”複写”となるのでrawで記録できる。)

ということで、これからはネガから変換した古写真画像のUPが増えるかもしれませんがお楽しみに!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »