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サルベージ/成増陸軍飛行場秘話4 〜東の空を見ていた夜〜

 日増しに季節が変わる感がしますね。


本日は、73年前に「東京城北下町地区大空襲」があった日ですね。正確には9日深夜から10日明け方にかけての断続的な空襲で、死者およそ10万人、原爆に匹敵するほどの大虐殺が行われました。

板橋区民の知り合いで、当時、墨田区の菊川に住んでいた方に話をお聞きしたことがあります。
その方自身は縁故疎開で栃木へ行っており空襲には遭いませんでしたが、父上が地元に残り警防団に入っておりました。当日は、避難先として指定されていた、家の裏にある中和小学校(当時としては珍しい総コンクリート製の校舎)にて任務に就き、避難民を受け入れ、空襲が激しくなると門を閉じ延焼を防ぎましたが、あとからあとから逃げてくる人々が殺到し入れてくれと必死に門を叩くけれど、延焼を防ぐためどうしても開けられず、空襲が去った後には門の前にたくさんの焼死体が折り重なっていた、という悲惨な状況だったそうです。

空襲時、門を開けなかった警防団を責めるのは酷なことで、戦争とはこのような状況が当たり前に起こるということを認識すべきだと思います。

それでは、空襲当日の成増飛行場の状況を記した記事を、サルベージして再掲します。

Photo1昭和20年2月10日、中島飛行機太田工場への空襲を担当した米軍第21爆撃機兵団は、工場へかなりの損害を与えたが、目標が内陸部にあったため、作戦に参加したB29機が12機も撃墜されるという、今までで最大の損失を被った。すでに1月下旬には、高高度からの精密爆撃を進めていたハンセル准将から、焼夷弾を低空から大量に投下して行う空襲法を推奨する、ルメイ少将へと司令官の交代が行われていた。ルメイも最初は従来と同様の精密爆撃を行っていたが、冬期の日本列島上空は気象条件が悪く、爆撃機の燃費や編隊飛行の維持の困難から、夜間に低空で侵入し、焼夷弾空襲を実施することにした。

2月16・17日の両日、米軍第58任務部隊(空母を中心とする機動部隊)の艦載機群が、関東地区の飛行場などへの攻撃を行なった。

16日の夕方、防衛総司令部では、この日の戦闘について検討が行われていた。我が方の防空部隊は、相当の損害を受けてしまっている。それより先、2月9日の防衛司令部における方面軍司令官等の会同において、防衛参謀より、敵小型艦載機との戦闘は航空戦力の損耗が激しく、機材・人員の補充も困難であるので、来るべき本土決戦に備え、航空戦力の温存を図るようにとの意見が出されていた。このことをふまえ、戦闘隊による積極的な対艦載機戦闘を、制限することがすでに決められていた。そこで、第10飛行師団の中で最も戦力の充実していた47戦隊(成増)と244戦隊(調布)を防空任務から外し、この日(16日)の夕方をもって第6航空軍の指揮下に入れたのである。両戦隊には、戦闘機を地上に分散隠匿し、損害減少を努めるようにとの命令が下った。

防空任務を解かれた47戦隊の空中勤務者達は、ピストにいる必要もないので下宿で過ごしたり、知り合いの家に泊まりに行ったりしていた。第二中隊・桜隊の一楽さんは、空襲警報が発令されたある夜、トラックに乗せられ西方向(川越方面)へ向かい、大きな家で一晩過ごしたことを記憶している。恐らく、空中勤務者を避難させるためだったのだろう。


‥今からちょうど64年前(ママ)のこの日深夜。焼夷弾を満載したB29の大集団がテニアンやマリアナの基地を飛び立ち、東京の下町に殺到した。すでに防空任務を外されていた47戦隊は邀撃の命令も無く、隊員達は東の空が真っ赤に染まるのを、ただ、なすすべもなく飛行場から眺めていたのである。

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