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板橋区民、板橋区内の交通の歴史を振り返る。〜サルベージ/「新常盤駅」について〜

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 なかなか雪が融けませんね。

東北硫黄泉行脚で体に染み付いた硫化水素臭も抜け、平常運転に戻りました。

今回も、過去に書いた記事をサルベージしてお送りします。

おそらく、東上線史上もっともナゾなことの一つが、「新常盤駅」だろう。武蔵常盤駅(現・ときわ台駅)〜上板橋駅間に開業予定であった新駅だ。

「新常盤駅」については、東武鉄道の社史やその他鉄道雑誌においても記載のあった記憶はなく、数年前、東武鉄道博物館名誉館長の花上氏にこの資料の存在を知らせた時にも、「えっ、こんなことがあったの?」と驚かれていたので、ほんとうに知られざる新駅だったようだ。

もともとは、板橋区のネタを探して常盤台の重鎮の方から昔の話を伺った時、旧上板橋村の大地主・N家の古老から、「戦時中”しんときわ”という駅があったんだよ。」と聞いたことがあると教えていただいたことがあった。

空襲をきっかけとして廃止となった、東武堀内駅や金井窪駅は実際に存在していたけれど、「新常盤駅」なんて聞いたこともなく、教えてくれた重鎮の方へも、それは「土地を提供するから駅を作ってほしい。」と東武鉄道に陳情したって話でしょ。そんな類のことはよくありますよねえ、ははは。と、話はそこで終わっていた。


‥ところがである。それから十数年後、冒頭の資料が突然現れた。


それは、噂話や漠然とした計画ではなく、東武鉄道の公文書用紙に、「新常盤駅」設置を告げる文面がタイプされ、近隣私鉄宛に通達が行われていたという証拠を示す、一次資料だった。

再掲するにあたり、以前は資料の一部のみを公開していたけれど、何処から”そんなんで信じられるかよ、”と苦言されるので、今回は全文をUPした。薄紙の公文書用紙にタイプされ文字が滲んでいるので、判読できる範囲で以下に書き出してみる。


運第九號ノ七
昭和十八年一月二十六日

東京市本所區小梅一丁目二番地
東武鐵道株式會社
取締役會長 正田真一郎

秩父    )
西武    ) 鐵道株式會社 御中(連名各通)
青梅電氣 )
越生    )

新常盤驛ノ連絡運輸開始方ノ件

拜啓 貴社益々御隆昌ノ段奉賀候
陳者弊社東上線武蔵常盤上板橋間二「新常盤」驛ヲ新設シ来ル四
月一日ヨリ旅客、手荷物(配達ヲ爲サズ)ノ運輸営業ヲ開始スル
豫定二有之候間右扉ヲ貴我連絡運輸區域中二追加方御承認被下度
此段得覺意候

追面實施期日決定ノ上ハ改メテ御通知可申上尚右驛ノ旅客運賃
營業粁程ハ左記ノ通二御座候

驛名 新常盤

種別

旅客運賃 自寄居驛 一円四0銭  自池袋驛 一五銭  自坂戸町驛 七0銭

營業粁程 自寄居驛 六八粁九分  自池袋驛 五粁四分  自坂戸町驛 三四粁七分

池袋駅起点から新常盤駅までの距離5.7キロから割り出すと、ときわ台駅からは700メートル、上板橋駅からは600メートルの地点に駅が設置されることが読み取れる。予定されていた場所を地図で確認してみた。

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モノクロは1947年の航空写真で、この地図上、東上線の線路に沿って、北側にぐにっと道が曲がっている範囲に駅設置が予定されていたと推測する。駅予定地の近くには、新常盤駅の話をしていた大地主のN家があった。

おそらく、駅の構造は島式ホームで、下り線がストレートな線路、上り線が島式ホームを避けるように曲げた線路を設置する計画だったのではないかと思われる。現在、この飛び出た部分には、「ときわ台変電所」が置かれている。


さて、「新常盤駅」は、その後どうなったのか?実際に工事は行われたのだろうか?


実は、「新常盤駅」に関する公文書はもう一通あり、それは昭和18年3月19日付の通達で、こう記されている。

『運第九號ノ七ヲ以テ新設驛「新常盤」二對スル連絡運輸開始方御願申上候處右驛ノ新設ハ都合二依リ見合セルコト二相成候間甚ダ御迷惑トハ存候ヘ共可然後處理被下度此段願旁々御通知申上候』


これ以上の資料は無く、中止に至る真相は闇の中である。わかるのは、おそらく駅の用地はすでに確保していたのだろう、ということだけだ。

この頃は大東亜戦争真っただ中、日本軍の形勢も劣勢に転じ、成増飛行場計画が進み、最寄りの、現在の平和公園には高射砲陣地を置く準備が行われていた時期だ。

世の中は経済統制が進み、すでに庶民レベルでは身の回りの物資は配給制となっていたが、公共交通機関である板橋乗合や中山道乗合、池袋乗合やダット商会など乱立していたバス会社も、五島慶太率いる東都乗合に吸収合併されており、電車も、駅間が短いなど効率が悪いものは廃止されたり設置が認められなかった頃であったのに、なぜ新駅開業寸前まで話が進んでいたのか、それが今もってナゾなのである。

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コメント

この件について、沿線地元町会の記念誌には1924年生まれの古老N氏(この記事に登場するN氏と同じ人かどうかはわかりません)のインタビューとして、「1948年に一応駅ができて、女子事務員2名を手配して、切符も販売した。広場をつくるため、駅前には2階建て家屋4軒を建てた。」という証言が掲載されています。現在、赤53系統のバスが通る中央通りの商店街形成の一環という位置づけになっています。インタビューは2000年に行われています。

しかし東武鉄道の通達はその5年前、戦時中ですね。
一次資料より戦後に再開設された形跡はなく、インタビューに応じたN氏の記憶違いの公算が高そうですが、ご報告まで。

投稿: Windy 41 | 2018年9月 1日 (土) 18時34分

>>Windy 41さま
コメントをありがとうございます。ご指摘の沿線地元町会の記念誌は未確認ですが、「S23年に駅ができて切符も販売した」が事実でしたら、必ずどこかしらに情報が載っていると思いますので記憶違いかと思いますが、その情報がどんな記憶と混同されたのかが知りたいですね。

投稿: | 2018年9月 2日 (日) 11時28分

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