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板橋区民、板橋区内の交通の歴史を振り返る。〜再掲・金井窪駅〜

 寒かったり、そうでもなかったり。

さて「板橋区内の交通を振り返る」シリーズ第2弾。

(‥単に昔書いた記事をサルベージしてるだけじゃん‥)

いやいや、そんなことではないですぞ。昔、書き散らした記事を検証する機会でもあるのですぞ。


ということで、今回は”東上線幻の駅”とマニア間で云われる「金井窪駅」について。

それではさっそく記事をサルベージ。オリジナルは2008年3月19日にネット上へUPしている。(一部改変して再録)


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金井窪駅は大山駅を池袋方向へ進み山手通りの陸橋を過ぎたあたりにあった(中山道から続く高田道が線路とぶつかったところ)。
隣接する駅との距離が短く、特に下板橋駅とは400mしか離れておらず、日本で一番駅間の短い駅とまで言われていたそうだ。昭和20年4月13日の空襲により一帯が焼け野原となるまでは、この道沿いには商店街が広がり、板橋帝国館という板橋でも最古に近い映画館もあり、また乗り合いバスも走るくらい栄えていた。そのころは今の賑やかな大山商店街は存在せず、付近の住民もこちらへ買い物に来ていたそうだ。今でも、なんとなくそんな面影が残っているような・・気もしますネ。

金井窪駅についてはあまり資料も残っていないので、いろいろ憶測も混じった情報が流れており、廃止時の状況もよくわかっていないのが実情だ。一般的には、空襲で焼けて廃止になった。とされている。ところが、調べてみるとそんな単純な話ではないようで、ここで、おそらくはもっとも信用出来ると思われる資料を紹介しよう。出典は平成元年8月5日付の「広報いたばし」だ。
この号の「広報いたばし」では『いたばし掘り出し物語』と題し、見開きページで数名の方がいろいろな思い出話を紹介している。その中で戦時中、東上線下板橋信号所(今の留置線の所)に勤務ていた方と、あの空襲時に金井窪駅の駅員をしていた田山さんという方の証言が綴られていた。その田山さんの話を要約して引用する。

 「私は昭和17年9月に東武鉄道に入社し、18年から金井窪駅に勤務していました。駅舎は約10坪くらいのモルタル造りで小さなものでしたが当時ではモダンな造りでした。ホームは上り下りに一本ずつあって、3両編成の電車がやっと止まれる長さで、1両分ぐらいの屋根がついていました。駅に配属されていた職員は6〜7人で、3人交代で勤務していました。勤務時間は朝9時から翌朝9時までの24時間で、最終電車から始発電車までの間は駅舎の仮眠室で休みをとりました。私以外の駅員は女性でしたが、下板橋信号所の前に女性用の宿泊施設があり、ここで仮眠していました。駅舎からホームへ昇るスロープのわきには防空壕が掘られていて、空襲警報が出ると駅員一同逃げ込みました。
私は昭和20年4月13日は1泊2日で旅行に行っていました。翌朝東京へ帰ろうと駅へ行くと空襲で東京の鉄道は止まっているとのこと。それでもどうにか高田馬場駅まで辿り着きましたが、ここからは歩かなくてはなりませんでした。線路づたいに池袋まで歩き、さらに東上線の線路を進むと、東武堀之内駅(現・北池袋駅)と下板橋駅は焼け落ち、付近はまだくすぶり異臭がしました。下板橋駅の線路には黒こげの死体がころがっていました。金井窪駅は被害は受けませんでしたが、まわりの家がすべて焼けてしまい駅の業務は中止されました。その後しばらくの間駅舎は、下板橋保線区の区長が住宅として使用していました。戦後、練馬区にグラントハイツができて下板橋操車場で取り扱う貨物の量が急増し、貨車の入れ替えのため引き込み線を延長する必要があったので、金井窪駅はなくなってしまいました。」

以上がだいたいの経過です。田山さんの証言により、金井窪駅は空襲では焼けなかったということがわかりましたね。私がこのネタを仕入れたのは10年以上前(注:2018年現在からは20年前)で、いくつかの媒体にも発表したことがある。ところが最近(2008年頃)のこと、中板橋駅の件でも触れた国立公文書館の公文書に、こんなものがあることを見つけた。

昭和二十年三月二十八日
鐵軌統事第五二一号
運輸通信大臣殿
東武鉄道東上線金井窪停留場運輸営業休止の件
昭和二十年三月五日付工第三八八号を以て東上線金井窪停留場運輸営業休止の議左記概要に依り申請有乃候に付三月二十八日鐵軌統事第五二一号ヲ以て昭和二十三年三月三十一日迄許可候條此段及報告候

理由
本停留所は隣接駅間近距離(下板橋金井窪間〇粁四分 金井窪、大山間〇粁六分)にして運輸営業を休止するも利用者に及ぼす影響極めて僅少なりと被認のみならず窮屈なる運輸要因の配置重点的配置及車両保守上位に時局下諸資材の重点的活用の見地より之を休止し依って発生する資材を輸送力増強上重要なる他の施設に転用せんとするものなり

な、なんと金井窪駅は昭和20年3月31日をもって運輸営業を中止していたのか?? では田山さんの証言はどういうことなんだ??・・なんていうのは早とちりで、申請は出されたけど、どうなったのかまではまだこの公文書の段階ではわからないんですね。この他「東上線金井窪停留場運輸営業休止の件」19450405ー昭和20年4月5日 なんて公文書もあるし、おそらく営業休止の話はあったけど、13日の空襲時点ではまだ何らかの理由で実行されていなかったのかもしれない。で、結局は空襲後に駅は使用停止され、田山さんの証言通り、引き込み線延長のために撤去されてしまった。ということなのでしょう。


以上、サルベージ終了。


「金井窪駅」に関しては、この記事を書いて以降、新たに追加する情報はありません。そこで、裏話的なことをしますね。

冒頭の金井窪駅発行の切符は、まだネットのない時代、宝くじやテレフォンカードの収集をしていた叔父から紹介された収集入札誌で手に入れたものだ。いろいろ切符収集の大家の方にお会いしてきたけど、金井窪駅発行の切符を所有している人はいなかった。入札誌はネットオークションと違い、もし落札できた場合は自分が最初に入札した金額を支払わねばならず、一発勝負の厳しい世界だった。

なぜ「広報いたばし」掲載の元・金井窪駅勤務の方の証言記事を発見できたのか、ということなのですが、これは”東上線のことを探ろう。”として見つけたわけではなく、他のことを調べている過程で出会っただけだ。

当ブログの趣旨に、板橋区及びその周辺地区を趣味とする。とあるように、板橋区民は交通関係だけを主眼として調べているわけではないのであり、「広報いたばし」も、なにか板橋区で面白い話はないかのと思い、縮刷版を最初から読み通していたのだ。”東上線を調べよう”という発想が先ならば、「広報いたばし」は手に取っていなかっただろう。昨年末に公開した啓志線使用ガソリンカーの資料も、もともとそれを探そうとして発見したものではなかった。

これは、調査をするときの教訓にもなるけれど、”行き詰まったら視点を変える”ことも大事だと思います。視野を広く持つ、とも言いますかね。また、個人で調査することの限界、という大きな壁にぶつかることが必ずありますが、それを乗り越える努力を続けることが、蟻(針?)のひと穴を開ける唯一の方法かもしれません。

‥と、自分に言い聞かせつつ次回へ。

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