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板橋区民、板橋区内の交通の歴史を垣間見ることにする。

 そろそろ正月モードも終わり、通常運転に戻るころですね。


本年は故あって、交通に関する記事を積極的にUPする方針とします。って、いつも交通関係ネタは多いですが。


それでは第一弾は東上線から。

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我が板橋区のド真ん中を東西に横断する「東武東上線」は、まさに板橋区民にとっての大動脈である。

東上線開通は、いまから104年前の1914年(大正3年)5月1日。その時に現在の板橋区内で開業した駅は、「下板橋駅」と「成増駅」で、少し遅れて6月17日に「上板橋駅」が開業した。

おい、下板橋駅は豊島区だろうが。というツッコミがあるかもしれないが、開業当時は谷端川の西側というか北側、現在の板橋2丁目にあった。豊島区側に移動したのは1935年ころだ。

それにしても上板橋駅の開業はなぜ遅れたのか?

すいません。わかりません。ナゾです。しかもなんだか半端な日。大安を選んだのかと思ったがその日は仏滅だった。

それはそれとして話を進めますが、現在の下板橋駅対面板橋区側の道路に面した場所に、「東上鐵道記念碑」が建っている。碑は、正に開業時の下板橋駅があった場所に建っているし、線路側の軌道脇には東上線の起点を示す”0キロポスト”があり、いかにも由緒正しい場所なのだけれど、もともとこの記念碑は、昭和20年代まで上板橋駅南口に建てられていたのである。

冒頭の写真は、昭和20年代に撮影されたもので、上板橋駅のホーム上から撮られたと思われる。真ん中あたりに、碑が建っているのが見て取れる。
まだ戦前の匂いが残る上板橋駅南口の様子が伝わる素晴らしい写真だ。欲を言うなら、もう少し画角を下げてレールまで写し込んでくれれば、その線路が啓志線に分岐してゆく様を想像できたのに、と惜しく感じる。

それにしても、なんで上板橋駅に碑が建っていたんだろう?


東上線は、「東上鐵道株式会社」として創立・開業したが、1920年に東武鉄道と合併し東武東上線となった。ただし、東上鐵道創業時の社長は東武創業者の根津嘉一郎であった。

記念碑には、ざっと以下のことが書かれている。(HP”歴史の一部となった鉄道”より引用。)

「東上鉄道は先に南北縦貫、毛武、上越、京越、日本興業の各鉄道において計画をしたが、当事の状況では未だ其の目的を達するには至らず、沿道の諸町村は多年の期待に反し、文明の恩恵に浴することが出来ないことを嘆きが増してきた。 ここに、内田三左衛門氏と10名の有志が決起し、東上鉄道株式会社を設立して、この鉄道を敷設するのに一日でも放っておいてはいけないと東奔西走し、同志を説得し一年余で漸く発起人34名が揃い、遂に会社を設立することが出来た。 すなわち、東京渋川間74マイル(118km)、更に越後長岡までを予定線として明治36年(1903年)12月に申請をし、明治41年(1908年)10月に当時の内閣総理大臣桂太郎の許可指令を得た。 是によって、直ちに敷設工事を起工し、竣工を急いだが、険しい地形に阻まれて工事は遅々として進まなかった。 然しながら、幾多の苦しみや難関を排し遂に、大正3年(1914年)5月全ての工事が竣工した。 それ以来、交通運輸に広く用いられ今日の盛況をみるに至っている。 これは言うまでもなく、発起人諸氏の惨憺たる苦心によるが、その中でも特に内田氏の強烈な公共心と高潔な犠牲的精神によるところがが大きい。 内田氏は天文年間にあった川中島の戦の時、上杉謙信の直属の部下であった越後の勇士である宇佐美駿河守定行の子孫であが、故があって幼い時に上田姓を名乗るようになった。 祖先の血を享けたことで当然ではあるが、意気高く志も強く、その行状は一般の人とは異なっている。 特に本鉄道創設に当っては家財を食潰すことも顧みずに巨資を投じ、一心にその完成の為に尽力をした。 その功績は顕著なので本鉄道と共に沿線の諸町村の永く記念すべきものである。 ここに有志が相談しあって石碑を建て将来に告げようとするのも、故が無いわけではない。」


この碑は平成17年度に板橋区登録記念物となり、平成19年3月に板橋区教育委員会により解説板が建てられた。そこにはこう記されている。

「この記念碑は、明治三十六年(1903)に創立申請された東上鉄道株式会社の由来と、建設にいたる経緯が記された石碑であり、大正八年(1919)五月に上板橋駅に建てられました。
 東上鉄道は、当時の小石川区下富坂町(文京区)を起点として、巣鴨町-上板橋村-川越町-児玉町-高崎市を経由し、渋川町(群馬県渋川市)に至る路線が計画されていました。 発起人総代は千家尊賀ですが、その実現のために尽力したのは、板橋区蓮根で醤油醸造業を営んでいた内田三左衛門でした。
 碑文には内田が「東奔西走同志ヲ勧説」し、「千辛万苦百難ヲ排」し、開業に導いたという経過が刻まれており、その功績を顕彰する内容となっています。
 東上鉄道は、東武鉄道社長根津嘉一郎の参画により、大正三年に池袋-田面沢間が開通し、同年九月に東武鉄道に合併して東武東上線となりました。
 その後、この石碑は、上板橋駅から東上線池袋駅に移されますが、駅周辺の開発にともない移転を重ね、現在に至っています。」


文面を見ると、頻繁に”内田三左衛門”という名前が挙げられ、まるで内田三左衛門氏を顕揚するためような碑である。内田家は、解説文によれば、板橋区蓮根で醤油醸造業を営んでいた人物で、もとは川越の出身と聞いたことがある。お墓は旧都立志村高校の下側に位置する蓮華寺内に存在している。

今から約20年前の平成7年のこと、板橋区の郷土資料館で東武東上線を題材にした企画展が開催された。この時、学芸大学名誉教授(鉄道地理学)の青木栄一氏が講演を行った。板橋区民もその講演会を拝聴していたが、講演が終わり質疑応答の時間に入り、内田三左衛門についての質問が出た。その時、杖を持ったお年の方が「私は内田の孫です。」と名乗り出られた。祖父である三左衛門については父親からも詳しいことを聞いておらず、「東上線鐵道記念碑」に連れて行かれた時に、これがお前のじいさんだよと言われたことが記憶に残っているそうだ。


東上鉄道創設時のことは、碑文に書かれた経過を経たことは確かであり、すでに大実業家で、東武鉄道の他にも鉄道会社を起こしていた根津嘉一郎が加わるのもわからなくはない。むしろ役所に鉄道会社設立を申請する根回しや方法に長け、資金力も信用もある人物に協力を乞うのは有利な方法と素人目には思えるのだが、実際は円満に行なわれたことではなく、裏ではなにがしか強引なことがあったのであろうことが伺えるのである。


という調子で第一弾は終わります。え?何一つ疑問とか解決してないだろ。なんて声が聞こえますが、まあ、この先いろんな秘話が発掘される可能性もありますのでご勘弁を。

気がつけば当ブログもいつの間にか開設10年を超え、なんと560本余の記事をUPしております。すでに埋もれてしまった過去記事も多いので、それらをサルベージし、改めて最新の情報を付け加えて再構築を行なおうかと考える所存です。

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