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2018年1月

板橋区民の初詣。〜2018年新春〜

板橋区民の皆さま方、また他の地域の皆さま方、明けましておめでとうございます。良い新年を迎えましたでしょうか。

元旦は寝坊し、起きたらお屠蘇で一日中酩酊しておりますので、新年のご挨拶はちょっと遅くなります。

漸く酔いも醒めたので、板橋区民はこれから初詣へ向かいます。さてどこへ向かうのやら‥



ということで、恒例の一般参賀へ。それにしても今年はいつもに増して人が多い。桜田門駅の女子トイレは階段の下まで続く大行列だ。

なぜこれが初詣なのか?

それは皇居を日本の神社の総本山と思うからで、すなわち天皇陛下は大宮司なのである。



そして、陛下には恐れ多いことですが、年末に届いた新しい仲間、ニコンd850のデビューを飾る日なのである。一般参賀にライブで来られた方はお分かりかと思うが、会場で撮影するのは至難の業であり、その能力を試すには良い機会でもあるのだ。



それにしても凄い人だ。



漸く二重橋を渡る。



やっ、やっとアリーナ到着。光の加減はいい感じだ。
この超満員状態の中、果たして撮影は出来るか?






約5分間のお出ましと新年挨拶は終わったが、これから現場を離脱するのがまた一苦労だ。

‥混雑を抜け、通信が繋がる場所まで移動するのに45分もかかってしまった。早速d850で撮影したカットを確認してとりあえず選び、カメラ内で編集してからwifiでiPhoneと接続、そのカットを転送して今度はiPhone内で仕上げをしてみた。



うーん、初めての経験なんでこんなもんすかね〜

いやそれにしてもこんな事が割と簡単にできる時代が来るとは。。何年か前からこういう事は出来たのだが、オプションを付けたり設定が複雑でなかなか簡単にはいかなかったのだ。

この書き込み自体、帰りの地下鉄の中で行なってますが、地下鉄内から通信出来るようになったのも最近のこと。これからまたどんな風に変わるのだろうか‥


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板橋区民、2018年新春を寿ぐ。

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 三が日とも好天に恵まれましたね。今日は風が強いですが。

昨日の一般参賀は、現場でもいつもより人出があるのでは?と感じましたが、帰ってニュースを見ると昨年より10%も多い約12万7千人の参拝者があったとか。天皇陛下の退位が決まったことや、 ご結婚が決まった秋篠宮ご夫妻の長女の眞子さま最後の一般参賀だったことが影響しているのだろう。

さて、今上陛下最後の年となる来年の一般参賀はどうなることやら。


写真の画像がいつもより荒いのは、d850のせいではなく今回のポジションが遠かったからで、超満員電車状態でしかも一斉に旗をふったりスマホを掲げている中で撮影するのは至難の技だ。

思い返せば、遥か昭和帝の頃から一般参賀の撮影をしているが、毎回毎回同じで満足なポジションにいたことがない。

今上陛下も在位30年余で引退されるが、それでも、皇太子時代からマスコミで多く話題が取り上げられていたので、親しみは深い。が、存命中の退位は200年ぶりのことで、近代の天皇制度に固執する層からは、多感な時期にアメリカ人家庭教師から教育を受けた影響で、伝統を守らないのでは?などと批判をする人がいる。しかし、陛下も人間なのだから状況によって配慮があるのは当然のことと思いますけれども。

明仁陛下のご生誕は、東京35区制度が始まった翌年の昭和8年(1933)12月23日で、大板橋区でも、皇孫誕生を記念して様々な行事が行われた。神社他に記念碑が建立されたり、石神井川沿いに桜が植樹されたり、板橋区民コレクションの中にも記念の杯が所蔵されている。

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天皇皇后両陛下は交通の便が良いのかどうか、板橋区を訪れることがたびたびある。なかでも、皇后陛下は常盤台の書道美術館をお忍びでこられることがある。この美術館には書道の先生がおられることがその理由なのだとか。
昨年11月半ばにも、天皇皇后両陛下が書道美術館へこられたと情報を耳にしたけれど、おそらく、歌会始で披露される御詠進を書くためにいらしたのではないかと推察している。

ご退位され、上皇両陛下となられてからも我が板橋区へは変わらずに訪れていただきたいと願います。

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板橋区民、板橋区内の交通の歴史を垣間見ることにする。

 そろそろ正月モードも終わり、通常運転に戻るころですね。


本年は故あって、交通に関する記事を積極的にUPする方針とします。って、いつも交通関係ネタは多いですが。


それでは第一弾は東上線から。

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我が板橋区のド真ん中を東西に横断する「東武東上線」は、まさに板橋区民にとっての大動脈である。

東上線開通は、いまから104年前の1914年(大正3年)5月1日。その時に現在の板橋区内で開業した駅は、「下板橋駅」と「成増駅」で、少し遅れて6月17日に「上板橋駅」が開業した。

おい、下板橋駅は豊島区だろうが。というツッコミがあるかもしれないが、開業当時は谷端川の西側というか北側、現在の板橋2丁目にあった。豊島区側に移動したのは1935年ころだ。

それにしても上板橋駅の開業はなぜ遅れたのか?

すいません。わかりません。ナゾです。しかもなんだか半端な日。大安を選んだのかと思ったがその日は仏滅だった。

それはそれとして話を進めますが、現在の下板橋駅対面板橋区側の道路に面した場所に、「東上鐵道記念碑」が建っている。碑は、正に開業時の下板橋駅があった場所に建っているし、線路側の軌道脇には東上線の起点を示す”0キロポスト”があり、いかにも由緒正しい場所なのだけれど、もともとこの記念碑は、昭和20年代まで上板橋駅南口に建てられていたのである。

冒頭の写真は、昭和20年代に撮影されたもので、上板橋駅のホーム上から撮られたと思われる。真ん中あたりに、碑が建っているのが見て取れる。
まだ戦前の匂いが残る上板橋駅南口の様子が伝わる素晴らしい写真だ。欲を言うなら、もう少し画角を下げてレールまで写し込んでくれれば、その線路が啓志線に分岐してゆく様を想像できたのに、と惜しく感じる。

それにしても、なんで上板橋駅に碑が建っていたんだろう?


東上線は、「東上鐵道株式会社」として創立・開業したが、1920年に東武鉄道と合併し東武東上線となった。ただし、東上鐵道創業時の社長は東武創業者の根津嘉一郎であった。

記念碑には、ざっと以下のことが書かれている。(HP”歴史の一部となった鉄道”より引用。)

「東上鉄道は先に南北縦貫、毛武、上越、京越、日本興業の各鉄道において計画をしたが、当事の状況では未だ其の目的を達するには至らず、沿道の諸町村は多年の期待に反し、文明の恩恵に浴することが出来ないことを嘆きが増してきた。 ここに、内田三左衛門氏と10名の有志が決起し、東上鉄道株式会社を設立して、この鉄道を敷設するのに一日でも放っておいてはいけないと東奔西走し、同志を説得し一年余で漸く発起人34名が揃い、遂に会社を設立することが出来た。 すなわち、東京渋川間74マイル(118km)、更に越後長岡までを予定線として明治36年(1903年)12月に申請をし、明治41年(1908年)10月に当時の内閣総理大臣桂太郎の許可指令を得た。 是によって、直ちに敷設工事を起工し、竣工を急いだが、険しい地形に阻まれて工事は遅々として進まなかった。 然しながら、幾多の苦しみや難関を排し遂に、大正3年(1914年)5月全ての工事が竣工した。 それ以来、交通運輸に広く用いられ今日の盛況をみるに至っている。 これは言うまでもなく、発起人諸氏の惨憺たる苦心によるが、その中でも特に内田氏の強烈な公共心と高潔な犠牲的精神によるところがが大きい。 内田氏は天文年間にあった川中島の戦の時、上杉謙信の直属の部下であった越後の勇士である宇佐美駿河守定行の子孫であが、故があって幼い時に上田姓を名乗るようになった。 祖先の血を享けたことで当然ではあるが、意気高く志も強く、その行状は一般の人とは異なっている。 特に本鉄道創設に当っては家財を食潰すことも顧みずに巨資を投じ、一心にその完成の為に尽力をした。 その功績は顕著なので本鉄道と共に沿線の諸町村の永く記念すべきものである。 ここに有志が相談しあって石碑を建て将来に告げようとするのも、故が無いわけではない。」


この碑は平成17年度に板橋区登録記念物となり、平成19年3月に板橋区教育委員会により解説板が建てられた。そこにはこう記されている。

「この記念碑は、明治三十六年(1903)に創立申請された東上鉄道株式会社の由来と、建設にいたる経緯が記された石碑であり、大正八年(1919)五月に上板橋駅に建てられました。
 東上鉄道は、当時の小石川区下富坂町(文京区)を起点として、巣鴨町-上板橋村-川越町-児玉町-高崎市を経由し、渋川町(群馬県渋川市)に至る路線が計画されていました。 発起人総代は千家尊賀ですが、その実現のために尽力したのは、板橋区蓮根で醤油醸造業を営んでいた内田三左衛門でした。
 碑文には内田が「東奔西走同志ヲ勧説」し、「千辛万苦百難ヲ排」し、開業に導いたという経過が刻まれており、その功績を顕彰する内容となっています。
 東上鉄道は、東武鉄道社長根津嘉一郎の参画により、大正三年に池袋-田面沢間が開通し、同年九月に東武鉄道に合併して東武東上線となりました。
 その後、この石碑は、上板橋駅から東上線池袋駅に移されますが、駅周辺の開発にともない移転を重ね、現在に至っています。」


文面を見ると、頻繁に”内田三左衛門”という名前が挙げられ、まるで内田三左衛門氏を顕揚するためような碑である。内田家は、解説文によれば、板橋区蓮根で醤油醸造業を営んでいた人物で、もとは川越の出身と聞いたことがある。お墓は旧都立志村高校の下側に位置する蓮華寺内に存在している。

今から約20年前の平成7年のこと、板橋区の郷土資料館で東武東上線を題材にした企画展が開催された。この時、学芸大学名誉教授(鉄道地理学)の青木栄一氏が講演を行った。板橋区民もその講演会を拝聴していたが、講演が終わり質疑応答の時間に入り、内田三左衛門についての質問が出た。その時、杖を持ったお年の方が「私は内田の孫です。」と名乗り出られた。祖父である三左衛門については父親からも詳しいことを聞いておらず、「東上線鐵道記念碑」に連れて行かれた時に、これがお前のじいさんだよと言われたことが記憶に残っているそうだ。


東上鉄道創設時のことは、碑文に書かれた経過を経たことは確かであり、すでに大実業家で、東武鉄道の他にも鉄道会社を起こしていた根津嘉一郎が加わるのもわからなくはない。むしろ役所に鉄道会社設立を申請する根回しや方法に長け、資金力も信用もある人物に協力を乞うのは有利な方法と素人目には思えるのだが、実際は円満に行なわれたことではなく、裏ではなにがしか強引なことがあったのであろうことが伺えるのである。


という調子で第一弾は終わります。え?何一つ疑問とか解決してないだろ。なんて声が聞こえますが、まあ、この先いろんな秘話が発掘される可能性もありますのでご勘弁を。

気がつけば当ブログもいつの間にか開設10年を超え、なんと560本余の記事をUPしております。すでに埋もれてしまった過去記事も多いので、それらをサルベージし、改めて最新の情報を付け加えて再構築を行なおうかと考える所存です。

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板橋区民の愛読書。

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 超寒い。


寒くて表に出るのが億劫な日々が続きますが、徳丸の実家から古い物を整理するようにとの命があったのでしかたなく出向いた。すると、出るわ出るわまったく記憶の底に沈んでいた昔の自分の私物が。

そんな中に、小学校高学年から中学時代にかけての愛読書がそっくり残っていた。それが冒頭の写真の書物である。

すごい。自覚はすこしあるけど、どうやら少年時代の自分は軍国少年だったようだ。すくない小遣いの中から細々と買い集めていたのだろうといじらしくもある。どこの本屋で買ったのかは覚えていない(たぶん東武デパート)けれど、当時の自分に”古本を買う”という知恵があったなら、もっとたくさんの本を買えたのにと思う。

これらの本の中に、著者「秋本実」という方の本が何冊かある。秋本氏は航空関係の著作が多く、とくに旧軍機に関しては昭和30年代から少年漫画誌に連載を持つなど、有名な方だった。あらためてネットで検索すると、残念ながら秋本氏は2013年2月、85歳で逝去されていた。

秋本氏は、成増飛行場を根拠とする飛行47戦隊と第43飛行場大隊の戦友会「成増会」会長を亡くなるまで勤めていた、元整備中隊の整備隊指揮小隊長で、”疾風整備の神様”といわれた刈谷正意中尉が著した「日本陸軍 試作機物語」の本のあとがきを書いている。
「日本陸軍 試作機物語」は、昭和32年10月から34年3月にかけて『航空ファン』誌に刈谷さんが連載していた「陸軍試作機物語」に加筆をした本で、刈谷さんが亡くなられた後、平成19年に刊行された。

秋本氏は昭和30年代末に『少年サンデー』誌に連載していた「防空戦闘機隊ものがたり」の取材のために、成増にある刈谷さんの自宅を訪れたことがあった。酒を酌み交わしながら、鍾馗や疾風のこと、ハ45発動機のことや47戦隊の話を聞いたそうだ。


羨ましい。

当時、刈谷さんは40代後半の働き盛りで、元47戦隊員も奥田戦隊長以下、ほとんどの方々が存命であった。まっ、いまさら嘆いても仕方のないことだけれど。


実家から発掘してきたこれらの本を読み返すと、少年用に書かれているのですべてが簡素であり、今の時代と違って当時はまだ戦前戦中のことについての研究がまったく進んでいなかったので物足りなさは多々あるけれど、戦時中のことをど真ん中で経験してきた方々がまだ現役の時代に書かれている点で興味深い。時間がある時にゆっくりと読み返してみよう。

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板橋区民、板橋区内の交通の歴史を振り返る。〜再掲・金井窪駅〜

 寒かったり、そうでもなかったり。

さて「板橋区内の交通を振り返る」シリーズ第2弾。

(‥単に昔書いた記事をサルベージしてるだけじゃん‥)

いやいや、そんなことではないですぞ。昔、書き散らした記事を検証する機会でもあるのですぞ。


ということで、今回は”東上線幻の駅”とマニア間で云われる「金井窪駅」について。

それではさっそく記事をサルベージ。オリジナルは2008年3月19日にネット上へUPしている。(一部改変して再録)


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金井窪駅は大山駅を池袋方向へ進み山手通りの陸橋を過ぎたあたりにあった(中山道から続く高田道が線路とぶつかったところ)。
隣接する駅との距離が短く、特に下板橋駅とは400mしか離れておらず、日本で一番駅間の短い駅とまで言われていたそうだ。昭和20年4月13日の空襲により一帯が焼け野原となるまでは、この道沿いには商店街が広がり、板橋帝国館という板橋でも最古に近い映画館もあり、また乗り合いバスも走るくらい栄えていた。そのころは今の賑やかな大山商店街は存在せず、付近の住民もこちらへ買い物に来ていたそうだ。今でも、なんとなくそんな面影が残っているような・・気もしますネ。

金井窪駅についてはあまり資料も残っていないので、いろいろ憶測も混じった情報が流れており、廃止時の状況もよくわかっていないのが実情だ。一般的には、空襲で焼けて廃止になった。とされている。ところが、調べてみるとそんな単純な話ではないようで、ここで、おそらくはもっとも信用出来ると思われる資料を紹介しよう。出典は平成元年8月5日付の「広報いたばし」だ。
この号の「広報いたばし」では『いたばし掘り出し物語』と題し、見開きページで数名の方がいろいろな思い出話を紹介している。その中で戦時中、東上線下板橋信号所(今の留置線の所)に勤務ていた方と、あの空襲時に金井窪駅の駅員をしていた田山さんという方の証言が綴られていた。その田山さんの話を要約して引用する。

 「私は昭和17年9月に東武鉄道に入社し、18年から金井窪駅に勤務していました。駅舎は約10坪くらいのモルタル造りで小さなものでしたが当時ではモダンな造りでした。ホームは上り下りに一本ずつあって、3両編成の電車がやっと止まれる長さで、1両分ぐらいの屋根がついていました。駅に配属されていた職員は6〜7人で、3人交代で勤務していました。勤務時間は朝9時から翌朝9時までの24時間で、最終電車から始発電車までの間は駅舎の仮眠室で休みをとりました。私以外の駅員は女性でしたが、下板橋信号所の前に女性用の宿泊施設があり、ここで仮眠していました。駅舎からホームへ昇るスロープのわきには防空壕が掘られていて、空襲警報が出ると駅員一同逃げ込みました。
私は昭和20年4月13日は1泊2日で旅行に行っていました。翌朝東京へ帰ろうと駅へ行くと空襲で東京の鉄道は止まっているとのこと。それでもどうにか高田馬場駅まで辿り着きましたが、ここからは歩かなくてはなりませんでした。線路づたいに池袋まで歩き、さらに東上線の線路を進むと、東武堀之内駅(現・北池袋駅)と下板橋駅は焼け落ち、付近はまだくすぶり異臭がしました。下板橋駅の線路には黒こげの死体がころがっていました。金井窪駅は被害は受けませんでしたが、まわりの家がすべて焼けてしまい駅の業務は中止されました。その後しばらくの間駅舎は、下板橋保線区の区長が住宅として使用していました。戦後、練馬区にグラントハイツができて下板橋操車場で取り扱う貨物の量が急増し、貨車の入れ替えのため引き込み線を延長する必要があったので、金井窪駅はなくなってしまいました。」

以上がだいたいの経過です。田山さんの証言により、金井窪駅は空襲では焼けなかったということがわかりましたね。私がこのネタを仕入れたのは10年以上前(注:2018年現在からは20年前)で、いくつかの媒体にも発表したことがある。ところが最近(2008年頃)のこと、中板橋駅の件でも触れた国立公文書館の公文書に、こんなものがあることを見つけた。

昭和二十年三月二十八日
鐵軌統事第五二一号
運輸通信大臣殿
東武鉄道東上線金井窪停留場運輸営業休止の件
昭和二十年三月五日付工第三八八号を以て東上線金井窪停留場運輸営業休止の議左記概要に依り申請有乃候に付三月二十八日鐵軌統事第五二一号ヲ以て昭和二十三年三月三十一日迄許可候條此段及報告候

理由
本停留所は隣接駅間近距離(下板橋金井窪間〇粁四分 金井窪、大山間〇粁六分)にして運輸営業を休止するも利用者に及ぼす影響極めて僅少なりと被認のみならず窮屈なる運輸要因の配置重点的配置及車両保守上位に時局下諸資材の重点的活用の見地より之を休止し依って発生する資材を輸送力増強上重要なる他の施設に転用せんとするものなり

な、なんと金井窪駅は昭和20年3月31日をもって運輸営業を中止していたのか?? では田山さんの証言はどういうことなんだ??・・なんていうのは早とちりで、申請は出されたけど、どうなったのかまではまだこの公文書の段階ではわからないんですね。この他「東上線金井窪停留場運輸営業休止の件」19450405ー昭和20年4月5日 なんて公文書もあるし、おそらく営業休止の話はあったけど、13日の空襲時点ではまだ何らかの理由で実行されていなかったのかもしれない。で、結局は空襲後に駅は使用停止され、田山さんの証言通り、引き込み線延長のために撤去されてしまった。ということなのでしょう。


以上、サルベージ終了。


「金井窪駅」に関しては、この記事を書いて以降、新たに追加する情報はありません。そこで、裏話的なことをしますね。

冒頭の金井窪駅発行の切符は、まだネットのない時代、宝くじやテレフォンカードの収集をしていた叔父から紹介された収集入札誌で手に入れたものだ。いろいろ切符収集の大家の方にお会いしてきたけど、金井窪駅発行の切符を所有している人はいなかった。入札誌はネットオークションと違い、もし落札できた場合は自分が最初に入札した金額を支払わねばならず、一発勝負の厳しい世界だった。

なぜ「広報いたばし」掲載の元・金井窪駅勤務の方の証言記事を発見できたのか、ということなのですが、これは”東上線のことを探ろう。”として見つけたわけではなく、他のことを調べている過程で出会っただけだ。

当ブログの趣旨に、板橋区及びその周辺地区を趣味とする。とあるように、板橋区民は交通関係だけを主眼として調べているわけではないのであり、「広報いたばし」も、なにか板橋区で面白い話はないかのと思い、縮刷版を最初から読み通していたのだ。”東上線を調べよう”という発想が先ならば、「広報いたばし」は手に取っていなかっただろう。昨年末に公開した啓志線使用ガソリンカーの資料も、もともとそれを探そうとして発見したものではなかった。

これは、調査をするときの教訓にもなるけれど、”行き詰まったら視点を変える”ことも大事だと思います。視野を広く持つ、とも言いますかね。また、個人で調査することの限界、という大きな壁にぶつかることが必ずありますが、それを乗り越える努力を続けることが、蟻(針?)のひと穴を開ける唯一の方法かもしれません。

‥と、自分に言い聞かせつつ次回へ。

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板橋区民、硫化水素臭に誘われる。

‥板橋区民は温泉が大好きである。それも、硫化水素臭がふんぷんと香る白濁した硫黄泉を何よりも愛する。

そんな硫黄泉の宝庫、別府へ行ったのはいつのことだったか‥。あの時に買った湯の花も無くなり禁断症状も現れ始めた。これではイカン、

そうだ旅に出よう。



てなワケで大宮から新幹線に飛び乗った。



旅情を感じるために万かつサンドで朝食だ。



いやー着きましたよ小雪舞い散る蔵王温泉♨️

山形駅のバス乗り場が混んで遅れてしまった。しかしそことなく漂う硫黄泉の匂い、期待が高まる。
目的の湯場はあったけどバスが遅れたので中央ロープウェイ近くの新左衛門の湯へGo!

ホントは無料や低額の地元の湯へ行くほうが趣きがあって良いのだが、露天場が無いし何より湯が熱くて板橋区民には入れないのだ。

いやーやっぱ白濁の硫黄泉はイイっす。雪見の露天風呂はサイコーに癒される。



温泉のアトは山形産の十割蕎麦をいただく。



さて、腹が満ちたら違う源泉を求め、すのこ湯かわらやへ。ここは底に敷いたすのこの下から源泉が湧き出るちょっと変わった温泉だ。湯船は前の原温泉より小さいが泉質はバツグンだ。いままで経験した硫黄泉の中でもトップクラスだと思う。さすが日本第二位の酸性度だけあって肌がピリピリする。

板橋区民は過去二回、蔵王に来ている筈だ。一回目は幼少のころ、二回目は20代半ばころ、どちらも記憶が曖昧だ。さすがに20代なら覚えてるだろ、とお思いかも知らないが当時はスキーブーム真っ盛りでいろんなスキー場へ行っていて、大抵夜行バスだしよく覚えてないのだ。

幼少の頃は写真が残っているのだが、当然スキーができるワケ無く、鼻を垂らして雪遊びしているシーンだけで記憶はまったく無い。当時の奥羽本線はまだ電化されておらず、どこかから蒸気機関車に付け替えられたのだろうと思うのだが当然覚えてない。おそらく現役の蒸気機関車に乗った最初で最後の経験だったかと思うと残念で堪らない。。

あっ、突然思い出したけど、合宿免許は余目だった。両親とも東京横浜出身なので、どうせなら思い切り田舎に滞在したかったのだ。出稼ぎでオバさん一人きりの農家に数人グループで滞在して楽しかったなあ‥。ちょうど朝ドラおしん放映のころだった。合宿の合間に酒田でおしん最上川下りなんてのに行ったっけ。



なんて思いにふけっていたら仙台行きの仙山線が来たので乗る。激しく雪が降ってきたが大丈夫かこれ。



と思ったら仙台は雪もナシ。はやぶさに乗り換えたら満員で席は取れず、立ち席でもしゃーないと思ったらデッキも人でいっぱい、終戦直後かよっ。

それでも盛岡八戸でだいぶ人が降りて席に座ることができた。




んで青森に着いたら吹雪やないか!さすが東北。



お宿で旅装を解き、レストランでそそくさと夕食を済ませ、近くの青森まちなか温泉へ。ここは今回の硫黄泉巡りとはコンセプトが違うアルカリ性塩化物泉だけどまっ、いいか。海に近いからしょうがないですね。しかし、いいお湯でした。本日のミッション終了!







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板橋区民、硫黄泉を求めて彷徨う。

おはようございます。
今朝の青森市内は晴れ渡っております。

硫黄泉を求める旅、2日目。目指すところは‥



第1弾は青森市内から近い「三内温泉」を選んだ。



バスを降り、辺りを見回してもそれらしき建物が見えないので、バス停横のコイン精米所にいたオバちゃんに聞くと信じられない言葉が‥「温泉は工事中でずっと閉まってるさ」

オーマイガー!

なんでも冬場は湯温が上がらないので直してるとかなんとか。これは大ショック。まっ、とりあえず確認しに行く。



うーむ、確かに閑散としている。。ちょうど玄関前を掃いているオバちゃんがいたので声をかける。

「開いとるよ。うん、工事してたけど一週間前に終わったで」

嗚呼良かった‥

早速、お湯をいただきに。

目の前には優に100人は入れるだろう浴槽が広がっていた。その湯船へ、硫化水素臭を放ちながら、源泉がまさにかけ流されているではないか。当然のことながら超白濁湯である。

ゆったりと湯に浸かる。確かにヌルい。が、板橋区民にはベストオブベストな湯温である。

‥ここは天国か‥

パラダイスかエルドラドか、ああもうなんでもいい。侮れない。やるな、青森。酸ヶ湯温泉だけじゃない。



至福の時は終わった。さらなる硫黄泉を求めて板橋区民は先を行く。



さて、盛岡駅に到着したが雪も無く寒風が吹き荒ぶだけ。我が赤塚郷は雪のようですが。



盛岡駅からバスに乗り、着いたところが繋温泉。あんまし聞かない所だけど小岩井農場や雫石の近くだ。

写真は繋温泉横に広がる御所湖。全面氷結していてなかなかキレイだ。

さっそく温泉ということで、湖畔のロッジにある温泉へ。
お湯は無色透明だが確かに硫化水素の匂いがする。泉質解説文を読むと、単純硫黄泉とある。これは何処かで経験したことが‥ああそうだ、栃木の喜連川早乙女温泉だ。なかなか良いお湯だった。

さて、もう一ヶ所と思ったが時間配分を間違え、帰りのバスまで45分と中途半端になったので、閑散とした街を散策する。



と、昭和の残滓のようなストリップ劇場の廃墟?があったりなかなか楽しい。温泉ばかり一心不乱に巡る姿勢を反省しました。



再び盛岡駅へ戻り秋田駅へ。秋田駅は温泉巡りの拠点ではなく、単に宿が取りやすかったからだ。赤い「こまち」に乗るのは初めてだ。



午後7時、秋田駅に着いた。ちょうど夕食時なので駅ビルにある比内地鶏の専門店へ。究極の比内地鶏親子丼を注文、すげーマイウーでした。
食事後、宿へ向かったが秋田駅も雪はほとんど無い。ニュースでは東京の大混乱状況が伝えられるけど拍子抜けだ。明日からはこっちも大雪かな‥

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板橋区民、硫黄泉を求めまた彷徨う。




秋田駅午前8時。板橋区民の朝は早い。

ってそんな早くもないけど。



硫黄泉巡り3日目、板橋区民よ何処へ行く。



7年振りの田沢湖駅ですね。ここからまたバス移動。
天気予報では強風で大荒れと聞いたがそんな気配はまだない。



田沢湖高原温泉・アルパこまくさ着。さすがここまで来ると積雪が多い。



さっそく着湯。基本透明なんだけど湯の花が舞っているので白っぽい。露天風呂は眺めは良いけど湯温が人肌しかなく、吹き上がってくる寒風でとても浸かってはいられない。内湯もちょっとぬるいがまあ、ベストオブ板橋区民くらいで気持ちが良い。





ゆっくり楽しんだあとは稲庭うどんを食べ、次の目的地、水沢温泉郷へ向かうが、ついに来た、暴風雪。



雪を掻き分け「露天風呂 水沢温泉」へ向かう。



ここの温泉は、硫化水素の匂いがふんぷんと香っていて内湯は白濁のお湯だ。

とりあえず露天へ。なかなか広い風呂で湯船が深い。いや〜吹雪の露天風呂も趣きあるけど、頭がチベたい。屋根のかかっているスペースへ避難する。

しばらくすると、なんで湯船が深いのかわかった。雪がガンガン湯船に落ちるので、温度があまり下がらないようにしているんだろう。

それにしても、良いお湯でした。ありがとう水沢温泉。



早くバスが来ないかなぁ‥



ようやく田沢湖駅に戻るとだいぶ雪が積もってました。



やっぱり赤い「こまち」はカッコイイなあ。



ようやく大宮まで戻ったが、間髪を容れず北陸新幹線へ乗り換え、さて向かう先は‥



長野駅!ですね。大宮からだと「かがやき」で1時間で着いちゃう。じゅうぶん通勤圏内ですね〜

明日はいよいよあの有名スポットへ向かいます。





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板橋区民、硫黄泉を求めて未だ未だ彷徨う。




長野電鉄長野駅午前8時。板橋区民の朝は早い。
ニュース素材撮影カメラマンの横を通りつつ階段を降りる。



硫黄泉巡りも4日目、未だ見ぬ温泉を求め板橋区民は行く。
電車の中はスクールボーイガールでいっぱいだ。



途中、須坂駅で特急に乗り変えたがガラガラだった。最前列展望席も余裕である。



ようやっと湯田中駅からバスに乗り、上林温泉に着いた。ここからは雪中行軍である。





ハイ、そうです。今や世界一有名な日本の観光スポット、地獄谷野猿公苑へ向かうのだ。



道は整備されているので歩きやすい。



バス停から1.6キロ 約30分、地獄谷温泉が見えてきた。



おお、あれが有名なスノーモンキー温泉か。見物客はマジで外人ばかりだ。

それでは、温泉で癒されるお猿さんたちの姿をどうぞ。



ああ‥



うーん‥



おお‥



はぁーん‥



ふぅ‥



ん‥



‥お楽しみ頂けましたでしょうか。



それにしても、野猿公苑へ向かう道は外人相手の店が点在していて感心する。ここだけ国際観光地化しているんだなぁ。帰り道ですれ違った人は9割方外人だったように思う。白人系子ども連れファミリーが目立ったが、お勉強の一貫なんですかね。



バスの便があまりないので、上林温泉から歩き通して渋温泉で昼食と温泉をいただく。ここはナトリウム・カルシウム塩化物硫酸塩泉だけど仕方ない。



目指していた渋大湯がなんと清掃中で利用できず、石の湯へ行くがお湯が熱い。一応、源泉掛け流しから遠い湯船もあるがそこすら板橋区民には熱い。お湯を刺激しないようそろりと体を沈めるが、それでも3分もムリだ。ウルトラマンかよ。



仕切りなおしに湯田中駅横にある「楓の湯」へ。
じつは、長野電鉄では特急も乗れる温泉付きクーポン乗車券を売っているのだ。すんごいおトク。



板橋区民も、とうとう懐かしの赤塚郷に帰る時がきた。次はいつ旅に出られるのだろう‥










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板橋区民、板橋区内の交通の歴史を振り返る。〜サルベージ/「新常盤駅」について〜

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 なかなか雪が融けませんね。

東北硫黄泉行脚で体に染み付いた硫化水素臭も抜け、平常運転に戻りました。

今回も、過去に書いた記事をサルベージしてお送りします。

おそらく、東上線史上もっともナゾなことの一つが、「新常盤駅」だろう。武蔵常盤駅(現・ときわ台駅)〜上板橋駅間に開業予定であった新駅だ。

「新常盤駅」については、東武鉄道の社史やその他鉄道雑誌においても記載のあった記憶はなく、数年前、東武鉄道博物館名誉館長の花上氏にこの資料の存在を知らせた時にも、「えっ、こんなことがあったの?」と驚かれていたので、ほんとうに知られざる新駅だったようだ。

もともとは、板橋区のネタを探して常盤台の重鎮の方から昔の話を伺った時、旧上板橋村の大地主・N家の古老から、「戦時中”しんときわ”という駅があったんだよ。」と聞いたことがあると教えていただいたことがあった。

空襲をきっかけとして廃止となった、東武堀内駅や金井窪駅は実際に存在していたけれど、「新常盤駅」なんて聞いたこともなく、教えてくれた重鎮の方へも、それは「土地を提供するから駅を作ってほしい。」と東武鉄道に陳情したって話でしょ。そんな類のことはよくありますよねえ、ははは。と、話はそこで終わっていた。


‥ところがである。それから十数年後、冒頭の資料が突然現れた。


それは、噂話や漠然とした計画ではなく、東武鉄道の公文書用紙に、「新常盤駅」設置を告げる文面がタイプされ、近隣私鉄宛に通達が行われていたという証拠を示す、一次資料だった。

再掲するにあたり、以前は資料の一部のみを公開していたけれど、何処から”そんなんで信じられるかよ、”と苦言されるので、今回は全文をUPした。薄紙の公文書用紙にタイプされ文字が滲んでいるので、判読できる範囲で以下に書き出してみる。


運第九號ノ七
昭和十八年一月二十六日

東京市本所區小梅一丁目二番地
東武鐵道株式會社
取締役會長 正田真一郎

秩父    )
西武    ) 鐵道株式會社 御中(連名各通)
青梅電氣 )
越生    )

新常盤驛ノ連絡運輸開始方ノ件

拜啓 貴社益々御隆昌ノ段奉賀候
陳者弊社東上線武蔵常盤上板橋間二「新常盤」驛ヲ新設シ来ル四
月一日ヨリ旅客、手荷物(配達ヲ爲サズ)ノ運輸営業ヲ開始スル
豫定二有之候間右扉ヲ貴我連絡運輸區域中二追加方御承認被下度
此段得覺意候

追面實施期日決定ノ上ハ改メテ御通知可申上尚右驛ノ旅客運賃
營業粁程ハ左記ノ通二御座候

驛名 新常盤

種別

旅客運賃 自寄居驛 一円四0銭  自池袋驛 一五銭  自坂戸町驛 七0銭

營業粁程 自寄居驛 六八粁九分  自池袋驛 五粁四分  自坂戸町驛 三四粁七分

池袋駅起点から新常盤駅までの距離5.7キロから割り出すと、ときわ台駅からは700メートル、上板橋駅からは600メートルの地点に駅が設置されることが読み取れる。予定されていた場所を地図で確認してみた。

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モノクロは1947年の航空写真で、この地図上、東上線の線路に沿って、北側にぐにっと道が曲がっている範囲に駅設置が予定されていたと推測する。駅予定地の近くには、新常盤駅の話をしていた大地主のN家があった。

おそらく、駅の構造は島式ホームで、下り線がストレートな線路、上り線が島式ホームを避けるように曲げた線路を設置する計画だったのではないかと思われる。現在、この飛び出た部分には、「ときわ台変電所」が置かれている。


さて、「新常盤駅」は、その後どうなったのか?実際に工事は行われたのだろうか?


実は、「新常盤駅」に関する公文書はもう一通あり、それは昭和18年3月19日付の通達で、こう記されている。

『運第九號ノ七ヲ以テ新設驛「新常盤」二對スル連絡運輸開始方御願申上候處右驛ノ新設ハ都合二依リ見合セルコト二相成候間甚ダ御迷惑トハ存候ヘ共可然後處理被下度此段願旁々御通知申上候』


これ以上の資料は無く、中止に至る真相は闇の中である。わかるのは、おそらく駅の用地はすでに確保していたのだろう、ということだけだ。

この頃は大東亜戦争真っただ中、日本軍の形勢も劣勢に転じ、成増飛行場計画が進み、最寄りの、現在の平和公園には高射砲陣地を置く準備が行われていた時期だ。

世の中は経済統制が進み、すでに庶民レベルでは身の回りの物資は配給制となっていたが、公共交通機関である板橋乗合や中山道乗合、池袋乗合やダット商会など乱立していたバス会社も、五島慶太率いる東都乗合に吸収合併されており、電車も、駅間が短いなど効率が悪いものは廃止されたり設置が認められなかった頃であったのに、なぜ新駅開業寸前まで話が進んでいたのか、それが今もってナゾなのである。

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祝!☆粕谷家住宅リニューアルオープン☆

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 明日はまた雪が降るかもとか言ってますね。

我が故郷、徳丸7丁目に鎮座する板橋区指定文化財の粕谷家住宅がリニューアルされ、本日から一般公開が始まった。

ファーストインプレッションは、以前に比べあまりにシンプルな姿と変わり、これは‥と感じてしまった。しかし、主目的は建造当時の姿に戻すということで、実際にこんな造りだったんだろう。違和感があったのは、”新築みたい”という全く生活感のない仕上がりになっていたせいかもしれない。備品は囲炉裏やカマドくらいで家具類がないので、よけいにスカスカした印象がある。(批判しているわけではないですよ。理屈的にはそうせざるを得ないことはわかります。)

リニューアル前の状態の時は、粕谷家が実際に暮らしていた痕跡があり、古いまま残すことの理由となった、沖縄戦で壮烈な最後を遂げた、本来ならば当主となっていたはずの故・粕谷正三さんの遺影などが飾ってあったのだけれど、それより以前の江戸時代の姿に戻してしまったため、粕谷さんという一族がおられたという”空気”が感じられなくなってしまったのだ。例えれば、古い味噌蔵に住み着いていた酵母が霧散してしまった、という印象である。

故・粕谷正三さんは戦争末期、海軍主計中尉として沖縄方面へ派遣される際に徳丸に寄り、”自分が亡くなるようなことがあっても、魂は必ずこの家に戻り、皆を見守るから”と言い残し、粕谷家を後にしたと伝わっている。

今はもう住む人もいなくなったけれど、その「遺言」は、平成も終わる現在も生き続けているのだと思う。

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