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板橋区民、赤塚郷民へ手を合わせる。

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 那覇に比べると、赤塚郷は寒いですね。あたりまえですが。。


さて、今回の沖縄行きには目的があった。
それは、先の戦争において日本で最大の激戦が行われた沖縄の戦跡を訪ねることだった。奇しくも訪問した時期は、日本が英米諸国に対して宣戦布告してからちょうど76年目にあたる。

戦争の時代を調べていて常々気になっていたのは、我が板橋区から出征していった人々が、どの地へ派遣され、どの場所で戦死されたのだろうと言うことだ。

もちろん、ご家族や縁者の方はある程度の情報はお持ちではあろうが、それらの記録が知りたいと思う自分のような人間にとっては調べようもないし、公に公開されてもいない。戦死者の記録は恩給の関係から厚生労働省や靖国神社に残っているはずだけれど、そんな個人情報を閲覧することは不可能だ。

個人の名前まではわからなくとも、せめて、どの地域に何人の人たち(出来れば出身町も)が派遣されていったのかくらいは公開されないものだろうか‥(兵隊は大きく分けると志願と徴集に別れ、志願の職業軍人の場合は個々人が全地域の軍に派遣されるので大変だけど。)

以上の事情により、板橋区出身の兵隊さんがどの地で戦死されたのかを知る手立ては非常に少ない。その少ない方法の一つが、戦死された方の関係者が情報公開をされている場合だ。

我が生まれ故郷、徳丸村出身の粕谷正三少佐(大尉で戦死)がその一人である。

粕谷少佐は、徳丸の名主家(分家)の次男として生まれ、ご生家は板橋区の文化財に指定され、現在はその敷地を家屋とともに板橋区が購入し、江戸時代の姿に復元する工事が行なわれている。(詳しくは過去記事「イタバシクミンカクタタカヘリ。」に記載していますので、興味のある方はご覧ください。)

粕谷正三さんは大正8年(1919年)生まれ、我が母校・紅梅小から開成、一高、帝大法学部政治学科と進んだ秀才だった。そこから海軍主計見習尉官となり、海軍経理学校に入学、昭和18年1月に卒業して海軍主計中尉に任命され、軍艦阿賀野乗り組み。11月11日のラバウル空襲で米潜の魚雷攻撃の爆発により怪我を負い帰国し呉海軍病院で療養後、昭和19年5月に海軍主計大尉に任命され、10月、南西諸島海軍航空隊分隊長に補され、昭和20年1月に本部長副官を命ぜられて沖縄へ移動した。

粕谷大尉は、当初は宮古島に駐屯していたけれど、米軍の上陸が近づくとともに現在の那覇空港近くの小禄地区にある寿山の海軍壕(大田中将が自決した海軍司令部壕ではない)へ移動する。下の写真が、今回訪れたその寿山旧海軍壕跡である。

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寿山旧海軍壕は、ゆいレールの小禄駅からほど近い場所にあり、現在はその上部が田原公園として整備されている。壕は立ち入り禁止となっていて通常は見学することができないが、内部はほぼ当時のまま残されている。

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昭和20年6月4日、米軍は小禄飛行場(現在の那覇飛行場)を目指し、鏡水、垣花から上陸を開始した。さらには那覇方面からも進行してきた。海軍南西航空隊で編成された巖部隊が本部とする寿山の壕もぐるりと米軍に囲まれ、壮絶な戦闘が始まった。

激しい艦砲射撃の後、轟々と地響きを立てながらシャーマン戦車が押し寄せてくる。最初の数日は、戦車からの砲撃が続いた。砲撃は早朝から始まり、日没前に戦車は引いていった。部隊の火器があらかた破壊されたと判断するや、戦車の陰から米兵が小銃を撃ちながら近づいてきた。その隙をつき、爆雷を抱えた真っ裸の兵隊たち3、4人が壕を飛び出し、戦車への突撃を繰り返した。

11日には壕の頂上部に米軍が取り付き、”馬乗り攻撃”が始まった。壕の入り口やボーリングで開けた穴から火炎放射機を放射したり、爆雷・手榴弾・黄燐弾などを投げ入れる戦法だ。このころ壕内には250人ほどが生存していたが、ほとんどが負傷兵で、絶望から手榴弾で自決するものが相次ぎ、それに巻き込まれて亡くなる者もいた。

12日夜、頂上部の米軍に肉弾攻撃を試み、残存兵は150名になった。翌13日夕、動けない重症兵と軍医、衛生兵を残し、ついに総員切り込みの命令が下った。

兵たちは3、40名が一組となり、士官を先頭に壕を飛び出していった。その最後に、粕谷大尉は動ける負傷兵を率いて、壕の入り口まで見送った軍医にラバウルで負傷した左腕をふり、「あとをたのむ」と笑顔で言い残すと、くるりと後ろを振り向き、指揮刀を掲げ持ち、「天皇陛下万歳!」と叫んで、壕の外へ消えていった。

‥粕谷大尉は、幾度も切り込みを繰り返したが、ついに動ける兵もいなくなり、生き残った者たちで爆雷を囲み車座となり、爆発散華した。

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なぜ、粕谷大尉最後の様子が詳細に知られたのか。。それは、自決の際に生き残った部下がおり、その顛末を壕から見送った軍医に伝えたからだ。伝えた部下は、それからほどなく手榴弾で自決した。
終戦まで生き延びた軍医は、昭和24年、突然、徳丸の粕谷家を訪問し、このことを伝えに来たと言う。

1945年6月23日、沖縄島の南端、糸満市摩文仁の丘にあった陸軍司令部壕で、沖縄方面最高司令官牛島満中将が自決し、この日をもって沖縄戦は終了した。(海軍司令官大田実中将自決は6月13日)そこは、第2次世界大戦の日米戦( 太平洋戦争)の日本国土最初で最後の地上戦が行われた場所であった。

現在、摩文仁の丘には、沖縄県立平和記念公園が置かれ、沖縄戦で戦没した人全て(米軍含む)の名前を刻んだ墓碑が並んでいる。そこには、「粕谷正三」の名も刻まれているのである。合掌。

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