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2017年12月

板橋区民、旅立つ。〜南西方面へ〜



おはようございます。
板橋区民は旅立つ〜南西へと向かうLCCで〜( By 木綿のハンカチーフ)
さて何処へ向かうのやら‥



いや〜到着しました那覇空港!5年ぶりかな?風が強いけどさすがに日差しが暑く感じる。石垣島への乗り換えだけで実は沖縄は初めてだ。



遅い昼飯は中城SAでソーキソバを。



そして、目的地であるちゅら海水族館へ到着。
それにしても中華人と修学旅行生ばっかだ。





確かに大水槽は迫力あったけど、最近はいろんなところに似たような水族館があるので慨視感があるなあ‥でも、ジンベイザメは良かった。



那覇市内に戻ってオリオンビールで乾杯。今日のミッションは終了。しかし、赤塚郷から成田空港バニラエアで那覇まで6000円、レンタカー二日間で4500円、ビジホ朝食付き3000円。驚きのコスパだ。

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板橋区民、那覇の戦跡を巡る。

おはようございます。
今朝の那覇市は良い天気。風は少しありますがシャツ1枚でも過ごせます。

本日のミッションは那覇周辺の戦跡巡りだ。それではGo!



最初の訪問地は「前田高地」。夏に日本で公開された映画ハクソー・リッジの戦闘があった場所ですね。



とりあえず先を急ぎます。



次はなにかと話題の普天間基地を望む嘉数高台公園展望台。ここは上陸した米軍との最初の激戦地だった場所だ。



エプロンにはあのオスプレーがズラリと並んでますね。



さて、お昼ご飯の後は豊見城跡近くにある旧海軍司令部壕見学だ。



ここは壕内の見学が出来るようになっている。



中はしっかりした作りだ。一見の価値がある。



さて、糸満市の沖縄平和記念公園に移動。



この公園は沖縄の戦闘が終わった糸満市の摩文仁の丘にある。沖縄戦で戦没した全ての人の名が刻まれた碑が建っている。



精進落としは那覇空港を望む瀬長島にある琉球温泉 龍神の湯を頂く。いやーとにかく沖縄のコバルトブルーの海を眺めながら浸かる露天風呂はサイコーだ。礼文島で入った露天風呂クラスのベストビュー。現在、新たな滑走路の建設が進んでいて、3年後には温泉に浸かりながら飛行機の離発着を観るという、飛行機マニアにはたまらんスポットになるだろう。


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板橋区民、王道を行く。

おはようございます。那覇市3日目。本日は定番の地へ行きます。まずはゆいレール乗る。



ゆいレールに乗るのはもちろん初体験。高架式は眺めが良いのでちょっとした観光バスの代わりになる。



終点、首里駅が見えてきた。



そう。行き先は沖縄観光の定番、首里城だ。朝早いので修学旅行生の大群とバッティングして大混雑だ。



首里城の感想は、中国の影響を受けた日本ではない別の国といった感想かな。中国が沖縄を狙うのは分かる気がする。



ひと通り城内の見学を終えて守礼門へ戻ると今度は修学旅行生に代わって中華人団体客が押し寄せて来た。一瞬の隙を狙い定番のショットを撮る。



ということで楽しい時間はあっと言う間に過ぎ、寒いとウワサの赤塚郷へと戻ります。さらば沖縄!




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板橋区民、赤塚郷民へ手を合わせる。

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 那覇に比べると、赤塚郷は寒いですね。あたりまえですが。。


さて、今回の沖縄行きには目的があった。
それは、先の戦争において日本で最大の激戦が行われた沖縄の戦跡を訪ねることだった。奇しくも訪問した時期は、日本が英米諸国に対して宣戦布告してからちょうど76年目にあたる。

戦争の時代を調べていて常々気になっていたのは、我が板橋区から出征していった人々が、どの地へ派遣され、どの場所で戦死されたのだろうと言うことだ。

もちろん、ご家族や縁者の方はある程度の情報はお持ちではあろうが、それらの記録が知りたいと思う自分のような人間にとっては調べようもないし、公に公開されてもいない。戦死者の記録は恩給の関係から厚生労働省や靖国神社に残っているはずだけれど、そんな個人情報を閲覧することは不可能だ。

個人の名前まではわからなくとも、せめて、どの地域に何人の人たち(出来れば出身町も)が派遣されていったのかくらいは公開されないものだろうか‥(兵隊は大きく分けると志願と徴集に別れ、志願の職業軍人の場合は個々人が全地域の軍に派遣されるので大変だけど。)

以上の事情により、板橋区出身の兵隊さんがどの地で戦死されたのかを知る手立ては非常に少ない。その少ない方法の一つが、戦死された方の関係者が情報公開をされている場合だ。

我が生まれ故郷、徳丸村出身の粕谷正三少佐(大尉で戦死)がその一人である。

粕谷少佐は、徳丸の名主家(分家)の次男として生まれ、ご生家は板橋区の文化財に指定され、現在はその敷地を家屋とともに板橋区が購入し、江戸時代の姿に復元する工事が行なわれている。(詳しくは過去記事「イタバシクミンカクタタカヘリ。」に記載していますので、興味のある方はご覧ください。)

粕谷正三さんは大正8年(1919年)生まれ、我が母校・紅梅小から開成、一高、帝大法学部政治学科と進んだ秀才だった。そこから海軍主計見習尉官となり、海軍経理学校に入学、昭和18年1月に卒業して海軍主計中尉に任命され、軍艦阿賀野乗り組み。11月11日のラバウル空襲で米潜の魚雷攻撃の爆発により怪我を負い帰国し呉海軍病院で療養後、昭和19年5月に海軍主計大尉に任命され、10月、南西諸島海軍航空隊分隊長に補され、昭和20年1月に本部長副官を命ぜられて沖縄へ移動した。

粕谷大尉は、当初は宮古島に駐屯していたけれど、米軍の上陸が近づくとともに現在の那覇空港近くの小禄地区にある寿山の海軍壕(大田中将が自決した海軍司令部壕ではない)へ移動する。下の写真が、今回訪れたその寿山旧海軍壕跡である。

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寿山旧海軍壕は、ゆいレールの小禄駅からほど近い場所にあり、現在はその上部が田原公園として整備されている。壕は立ち入り禁止となっていて通常は見学することができないが、内部はほぼ当時のまま残されている。

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昭和20年6月4日、米軍は小禄飛行場(現在の那覇飛行場)を目指し、鏡水、垣花から上陸を開始した。さらには那覇方面からも進行してきた。海軍南西航空隊で編成された巖部隊が本部とする寿山の壕もぐるりと米軍に囲まれ、壮絶な戦闘が始まった。

激しい艦砲射撃の後、轟々と地響きを立てながらシャーマン戦車が押し寄せてくる。最初の数日は、戦車からの砲撃が続いた。砲撃は早朝から始まり、日没前に戦車は引いていった。部隊の火器があらかた破壊されたと判断するや、戦車の陰から米兵が小銃を撃ちながら近づいてきた。その隙をつき、爆雷を抱えた真っ裸の兵隊たち3、4人が壕を飛び出し、戦車への突撃を繰り返した。

11日には壕の頂上部に米軍が取り付き、”馬乗り攻撃”が始まった。壕の入り口やボーリングで開けた穴から火炎放射機を放射したり、爆雷・手榴弾・黄燐弾などを投げ入れる戦法だ。このころ壕内には250人ほどが生存していたが、ほとんどが負傷兵で、絶望から手榴弾で自決するものが相次ぎ、それに巻き込まれて亡くなる者もいた。

12日夜、頂上部の米軍に肉弾攻撃を試み、残存兵は150名になった。翌13日夕、動けない重症兵と軍医、衛生兵を残し、ついに総員切り込みの命令が下った。

兵たちは3、40名が一組となり、士官を先頭に壕を飛び出していった。その最後に、粕谷大尉は動ける負傷兵を率いて、壕の入り口まで見送った軍医にラバウルで負傷した左腕をふり、「あとをたのむ」と笑顔で言い残すと、くるりと後ろを振り向き、指揮刀を掲げ持ち、「天皇陛下万歳!」と叫んで、壕の外へ消えていった。

‥粕谷大尉は、幾度も切り込みを繰り返したが、ついに動ける兵もいなくなり、生き残った者たちで爆雷を囲み車座となり、爆発散華した。

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なぜ、粕谷大尉最後の様子が詳細に知られたのか。。それは、自決の際に生き残った部下がおり、その顛末を壕から見送った軍医に伝えたからだ。伝えた部下は、それからほどなく手榴弾で自決した。
終戦まで生き延びた軍医は、昭和24年、突然、徳丸の粕谷家を訪問し、このことを伝えに来たと言う。

1945年6月23日、沖縄島の南端、糸満市摩文仁の丘にあった陸軍司令部壕で、沖縄方面最高司令官牛島満中将が自決し、この日をもって沖縄戦は終了した。(海軍司令官大田実中将自決は6月13日)そこは、第2次世界大戦の日米戦( 太平洋戦争)の日本国土最初で最後の地上戦が行われた場所であった。

現在、摩文仁の丘には、沖縄県立平和記念公園が置かれ、沖縄戦で戦没した人全て(米軍含む)の名前を刻んだ墓碑が並んでいる。そこには、「粕谷正三」の名も刻まれているのである。合掌。

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板橋区民、2017年を振り返る。<啓志線について>

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 12月も半ばですか。。この一年を振り返る時期となりました。

う〜ん。今年はやっぱり啓志線かなあ‥当ブログでも過去度々記事にしてきたけれど、11月に練馬区の図書館で行った講演のおかげで再調査をする機会を得られ、いままで見過ごしていた資料を再確認出来たり新に発見があったりと、進展があった。

これは、調査をする側の言い分(言い訳)だけれど、過去に書いた記事を読んだ方から”この記事に書かれていることは間違ってる”と指摘を受けることがある。(自分も他人が調べて書いたことに憤慨して批判したりすることもありますが)、調査する側とすれば、それは公にした時点での調査結果であり、後に新たな資料が出てきて前言をひっくり返さなければならない場合がある。もちろんそうしたことがないように事前に徹底的に調べなくてはならないけれど、たまに一次資料すら否定できる資料が出てくることがあるのが難しいところだ。

ネット上に公開する情報は、まだまだ紙媒体に比べて信用度が低く思われたり、簡単にパクられ、いやインスパイアされてしまうことがあり、情報の根拠を示すのに躊躇する場合もあるけれど、過去に書いたことの訂正がすぐに行えるのが最大の利点のひとつである。

そんなことで、2017年末時点での「啓志線」の情報をUPしますね。

では、とりあえず年表から。


・昭和15年(1940)、陸軍第一造兵廠練馬倉庫が練馬北町に置かれる。

・昭和19年(1944)4月、東武東上線上板橋駅〜陸軍第一造兵廠練馬倉庫間線路敷設。

・昭和21年(1946)8月ころより、練馬倉庫へ占領軍住宅(グラントハイツ)建設用資材の搬入が始まる。

・昭和22年(1947)3月上旬より練馬倉庫〜成増住宅(グラントハイツ)建設地への線路敷設工事が始まる。

・昭和22年(1947)3月15日、警視庁広報に成増建築事務所開設が告示される。

・昭和22年3月25日、成増新線(啓志線)開通。

・昭和22年4月1日、成増住宅(グラントハイツ)建設開始。

・昭和22年8月より池袋駅〜啓志駅間のガソリンカー旅客輸送始まる。

・昭和23年(1948)2月、ガソリンカー旅客輸送終了。

・昭和23年6月、成増住宅完成。「グラントハイツ」と命名される。

・昭和25年、朝鮮戦争勃発により、朝鮮半島へ向かう兵士たちを輸送する。

・昭和23年6月、警察予備隊が練馬倉庫の一部に移住する。啓志線が演習場への兵員輸送に使われる。

・昭和32年(1957)8月1日、東京都が練馬倉庫〜啓志間の運行を停止する。

・昭和34年(1959)6月22日、東武鉄道が上板橋駅〜田柄間の地方鉄道免許を申請する。

・昭和34年7月22日、啓志線全線廃止。

・昭和36年3月〜4月、陸上自衛隊練馬駐屯地内線路撤去。

・昭和36年8月29日、東武鉄道が上板橋駅〜田柄間の地方鉄道免許取得を断念、申請を取り下げる。

・昭和48年(1973)9月30日、グラントハイツが全面返還される。


個々の項目の解説については、次回以降に続きます。


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板橋区民、啓志線について振り返る。<2017年・エピソード1>

では、前回UPした啓志線の年表に基づき個別に解説をしますね。

その前に。

11月に行う講演会の準備のため、あらたに啓志線の情報を調べ直していたところ、夏に行われた某イベントにて趣味系の某サークルが、東上線の謎と題したミステリー本を発行していたことがわかった。早速、入手してみると、どこかで見た資料画像が‥。それは、春ころに当ブログの田面沢駅記事のコメント欄を通して情報を教えてくれた方が、田面沢駅の平面図の画像を提供するので、そちらの昭和26年の東上線ダイヤグラムの啓志線部分の複写画像を送ってくれませんかとのバーター取引の求めに応じて渡した画像だった。

ちょっと待て。確かにバーターしたが、こちらとしてはその画像をいくら自費出版でも公に販売する本に使用して良いと許諾したわけではない。そのサークルは資料担当と編集発行担当に分かれて調査を行っていて、こちらにコンタクトをしてきたのは資料担当であり、編集発行担当は資料担当が許可をもらったものと思っているのだろうかと忖度してみたが、それにしても、本を出した際にはせめてこんな本を出しましたよ、との一言を伝えて欲しかったと残念に思う。

ただ、その研究本はしっかりと調査をした上で書かれているので、こちらの調査結果と情報をすり合わせるのに役に立った。おかげで、手持ちの資料の中にあるが見落としていた情報の再確認をすることができ、この点ではありがたかった。

さて、そんな見落としていた資料から見つけた前・啓志線時代のトピックから。

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これは、10年ほど前に板橋区役所が発行した、かつて板橋区内に存在した軍施設に関する公文書類の調査をまとめた目録に載っている項目だ。この実地調査は15年くらい前に行っていて、実は、板橋区民も当時調査チームの一員として参加し、防衛省図書館に通い公文書を調べていた。調査報告書はそれから数年して出たもので、自分が担当した範囲には陸軍一造練馬倉庫の側線についての文書はなかったので、報告書も見ることはなくずっとほったらかしにしていたのだ。

それでは、上の画像の項目を読んでみましょう。


‥読みましたか?

そこには、昭和19年2月に行われた軍需に関する作業課長の合同会議上で、「練馬倉庫への物資輸送が逼迫したため、側線設置を企画した旨」が報告されたことが書かれていたのである。この公文書の現物は、近年ネット上で公開されており、「アジア歴史センター」のサイトを通じて閲覧することができる。

さらに。

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それでは上の画像を読んでみましょう。


‥読みましたか?

老眼の身には見辛い記事ですが、そこには重要なことが書いてあります。「昭和十九年四月、旧東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫製品輸送の目的で、陸軍の費用で当社が敷設したもの。」と記者(東武鉄道社員?)は書いています。

この「交通東武」紙の記事は、これも10年ほど前に、当時、神田にあった交通博物館の佐藤学芸員氏からいただいた、交通東武の縮刷本から終戦直後の東上線記事に関するものだけピックアップしてコピーして渡してくださった束の中に入っていたものだ。

これにより、先の公文書と合わせて検討すると、東上線上板橋駅から練馬倉庫まで開通したのは昭和19年(1944)4月と判断しても良いのではないか、と言えるのではないでしょうか。

さらに。

S22

それでは上の画像を読んでみましょう。


‥読みましたか?

先ほどの調査報告書の一部ですね。
これは、戦後昭和22年に提出された「返還物資放出許可申請の件」で、終戦まで練馬倉庫に残置され、戦後大蔵省の管轄となっていた軍事物資を放出することの許可申請、と思いますが、その項目の中に”30kレール5トン”とありますね。練馬倉庫にはレールが保管されていた。そう読めます。

さらに。

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それでは上の画像を眺めてみましょう。


‥眺めましたか?

これは、練馬自衛隊の川越街道沿いの敷地内に築島様に建てられている「第一連隊忠魂碑」へ渡る橋の写真だ。
あれ?なんか橋の歩道部分にレールっぽいものが使われてますね。真ん中部分になにやら刻まれている記号があります。塗料が厚く塗られていて分かり辛いですがこう書いてあるようです。

「30 A マーク? 2604 OH |||」 この記号を読み取ると以下のことがわかります。

「30kレール A=ASCE(アメリカ土木学会規格/レールの断面の高さと底部の幅が等しいことを表す)  日本製鐵所(八幡製鐵)マーク 2604=皇紀2604年/昭和19年−1944年 OH=平炉を用いて整鋼した材料を使用したレールの表記 |||=3月製造」

纏めると、<昭和19年3月に日本製鐵所で製造された30k規格のレール>であり、橋に使われているレールは、前・啓志線時代から使用されていたか、あるいは練馬倉庫に備蓄されていたレールの一部である可能性が高い、と言えるでしょう。


残念ながら、この橋は現在では架け替えられてしまい、見ることはできません。自衛隊内で保存されていると良いのですが‥


次回に続く。

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衝撃!ときわ台駅、解体される!!

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 先週土曜日のことである。

板橋区民は野暮用のため、東上線に乗りときわ台駅で降りた。北口の改札を出ると、ドカンガキンと派手な音がする。いま駅舎は改装中だしな、と思いつつそれにしても大きな音だと旧駅舎部分を見上げると、なんと壁が破壊され木組みは露出し、屋根瓦も撤去しているではないか!

先日、東武鉄道の関係者から旧駅舎は取り壊さない。って聞かされたのに、不意打ちで解体しとるやんか!住民利用者を騙くらかしたのか!と一瞬のうちに衝撃が体を走った。あわててiPhoneXを取り出して撮影していると、常盤台住人であろうおばあさんが、「駅舎壊しちゃうんか、もったいないのう‥」と話しかけてきた。

板橋区民は、顔に浮き出た動揺を隠し、「いやいや、そんなことはないですよ。駅舎は大丈夫ですよ。」と自分に言い聞かせるように、おばあさんを慰めた。しかし、慰めてはみたが内心は穏やかではない。いったいどういうことなんだろう‥

‥と一瞬、驚いたのだが、ときわ台駅は築80年の木造建築物であり、老朽化も激しく雨漏りもしており、構造部分に耐震防火対策を施さなくてはこれからの保存が難しいので、リフォームとして解体しているんだろう。ああ、安心した。

なんてことですよね、東武さん!?


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板橋区民、啓志線について振り返る。<2017年・エピソード2>

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 続けてエピソード2をお送りします。今回は、ケーシー少将とケーシー中尉について。

二人のケーシーについてはもう何度も書いてますので、詳しくは過去記事をご覧ください。

いわゆる”啓志線”の名称の元となったであろう、グラントハイツ建設に関わった米軍のケーシーさんについては、過去様々な表記のされ方をしていたが、実は二人の同姓同名の人物が存在していたことがわかった。

一人は、マッカーサーの副官でGHQを内閣に例えれば国土交通大臣の職にあった「ケーシー少将」。もう一人は、実務的に日本の統治を行っていた、米第8軍のミリタリー・ガバメント隷下の建設部隊、日本の役所に例えると、役所の土木課の技術課長職にあった「ケーシー中尉」と、二人のケーシーさんがいたのだ。

すなわち、グラントハイツは「ケーシー少将」が企画・建設命令を下し、土木課の「ケーシー中尉」が現場監督だったというのが真相なのである。おまけに、この二人は親子である可能性が非常に高いのだ。

ケーシー少将は、その立場からグラントハイツ建設を担当した建設会社にとっては”神のような存在”であったのに対し、ケーシー中尉は”現場の鬼監督”として恐れられていた。

グラントハイツは、完成した昭和23年(1948)6月に正式に命名され、それをもって東武鉄道では「グラントハイツ線、もしくはGH線」と表記した。完成以前については、成増線とも成増新線とも呼び、統一された名称で表記されてはいないが、建設会社の間では貨物の運搬先として「啓志」の名称が使用されていた。

米軍は、しばしば軍施設に個人名などの”愛称”をつけて呼ぶ伝統があるが、基本的には物故した人物の名前をつけるので、現役の人物であるケーシーの愛称はつけないと考えられる。

以上のことから、「啓志線」の名は日本の建設会社がつけた名称で、現場監督のケーシー中尉ではなく”神のような存在”であったケーシー少将にあやかって付けたのではないかと推察される。

ケーシー中尉は進駐軍の電話帳によると、昭和22年(1947)2月からその名前が現れ、グラントハイツ竣工前後に名前が消えている。電話帳は全国規模なので、日本国内から去ったものと思われるが、士官学校を卒業した将校、すなわち職業軍人なので除隊したとは考えにくい。グラントハイツ建設の主体事業である「占領軍住宅建設計画」では、韓国にも占領軍住宅建設が企画されているので、その後、韓国へ渡った可能性がある。

ケーシー少将の息子であるヒュー B. ケーシーは、朝鮮戦争の只中である昭和27年(1952)1月、韓国38度線中央部付近にて航空機事故で亡くなり、事故現場付近にある米軍基地は「キャンプ・ケーシー」と命名されている。

ヒュー J. ケーシー少将は、昭和24年(1949)12月末をもって米陸軍を退役し、故郷のニューヨークへ帰国した。

冒頭の写真は、昭和24年(1949)3月にサンフランシスコで撮影されもので、写真裏のキャプションにはマッカーサーの副官として11年間勤めていたことを慰労する文が載っている。隣はケーシー少将の兄弟、マーチン・ケーシーとケーシー少将夫人である。

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板橋区民、啓志線について振り返る。<2017年・エピソード3>

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 矢継ぎ早の第3弾!


前回は、グラントハイツ建設に関わった二人の”ケーシーさん”について述べましたが、勘違いをしないでいただきたいのは、現場監督の一人であったケーシー中尉の立場である。

GHQの高官であった<ケーシー少将>は、自らが立ち上げた「占領軍住宅建設計画」を履行するにあたり、「日本の資金」で「日本国の責任」において建設するよう日本政府へ求めた。住宅建物から家具・什器類に至るまですべて米国式のデザインを用いて設計し、それらは日本国内で製作しなくてはならなかった。そのため、デザインの基本は米国人の指導によったが、全国から日本人建築デザイナーがかき集められ、チームをつくり、事に当たった。(これは後に日本の建築設計界に大きな影響を与えることとなった。)

グラントハイツ建設については、「東京都」が責任を持って担当し、都は「成増住宅建設事務所」を設置し、これを本部として建設工事は始まった。工事の監督人は東京都から派遣され、入札によって決められた日本の建設会社が、それぞれの担当箇所の建設工事を行った。

第8軍隷下の建設部隊からグラントハイツへ派遣された技術将校のケーシー中尉は、いわば役所の検査官のような存在で、仕様書に沿った建設工法で作業が行われているのか、工期は守られているのかをチェックする立場であった。だから、自ら鞭を振るって啓志線の工事を陣頭指揮した、なんてことはないのである。

練馬倉庫からの線路延長工事は、東京都が用地買収の交渉をしたと考えられるが、いまのところその経過は不明だ。工事は、国鉄の下部組織で、新線建設・線増・橋梁取替・高架化・停車場改良・駅ビル建設などの大規模な工事を担当していた<東京第一工事局>が行ったが、啓志線工事の頃はまだ”国鉄(日本国有鉄道)”という組織も東京第一工事局も存在しておらず、「運輸省東京地方施設部」という部署が担当したと考えられる。

東武鉄道社史によると、啓志線敷設工事は”国鉄の新橋工事局が行った”とあるが、東京工事局や新橋工事局が設置されるのは昭和32年(1957)であり、昭和22年当時の状況はまだ当ブログとしては把握していない。

練馬区史では敷設工事開始を昭和22年3月3日、竣工を同25日と記載している。その根拠はわからないが、大規模住宅建設工事では、まず物資の搬入や工事人輸送などの必要から、線路や道路などインフラ整備が優先されるので、工事開始時期に矛盾は感じられない。

啓志線敷設中の写真は存在を確認していないけれど、アメリカのメリーランド州にある国立公文書館で見つけた建設中のグラントハイツ写真の一枚に、貨車が写っているのを発見した。

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上の写真、右端に無蓋貨車が写ってますね。キャプションには建設中のボイラー工場と記されています。工事範囲内でいくつかに分岐した啓志線の先端部分に停車しているのでしょうか。

いわゆる”啓志駅”というもの(乗降客が使用した駅)も、専用のホームや駅舎があるわけではなく(簡易的なものはあったかもしれませんが)、アメリカやヨーロッパの田舎の駅のように、地上から列車へ直接、乗り降りした形式であったのではないかと想像します。

第4弾に続く。

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板橋区民、啓志線について振り返る。<2017年・エピソード4>

 そろそろ佳境に入ってきました。それではお送りします、エピソード4。

今回は啓志線の話題でも特に謎が多い、旅客用ガソリンカーについて書きます。


啓志線に使用されていた車両である「キハ41000形」は、現在、鉄道博物館でその仲間の車両が展示されている。

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啓志線のガソリンカーについては、ほとんど資料情報がないため、練馬区史に載る「横浜から直通で30分間隔で運用されていた」とか、東武鉄道社史による、「国鉄から借りたガソリンカー10両を使い池袋駅を始発として30分間隔で運用した」と記されたことが、基本情報として引用されてきた。

しかし、当ブログでは、過去に「ガソリンカーは6両で回していたんじゃないか?」とした内容で、使われた車両番号も明記して書いたことがある。もちろん、根拠あっての記事だった。


エピソード1で触れた東上線ミステリー本には、啓志線のガソリンカーについて、(以下引用)「ネット上や、後に記載する書籍等では『書類をもってた』『記録がある』という記載が多々ありますが、誰一人としてその書類の実物や所蔵場所を公表していない上、私たちもそれを裏付ける書類を見つけられていません。」(以上引用終わり)ということが書かれていた。

要するにガソリンカーについて書くのなら根拠を示せ、ということで、実際に足で基礎資料を求め歩いている人ならそう思うだろう。

ならば。

今年は啓志線開業70周年の記念すべき年でもあるし、今日は楽しいクリスマス。出し惜しみせず、板橋区民からのプレゼントとして全国1000万啓志線ファンの思いに応えるべく、資料を掲示しますね。

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これは、国鉄が所蔵していた月報の一部で、一次資料として信用できるものだ。月毎に記録されているので順番に調べて行くと、貸し出されたガソリンカーは、上野部の我孫子区に所属するキハ41000形 6両で、備考欄に、「()印ヲ附シタルモノハ東上線用トス」とある。初出は昭和22年8月からで、翌23年2月まで東上線への貸し出し記録が載っている。

もう一つ、ガソリンカーは旅客用なので切符はあったのか?と疑問が浮かぶが、「専用ホームからの直通線」なので、例えば改札口で軍発行の身分証を提示して乗車した、という利用法も考えられる。プレゼントついでに、昔、ある切符収集の大家から見せていただいた東武鉄道の進駐軍専用切符の参考画像を上げておきますね。

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果たして、今回掲示したガソリンカー貸し出し記録が、『上野駅地下に眠るという伝説のある国鉄資料』の一部なのかは‥ミステリーにしておきましょう。

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板橋区民、2017年の温泉納めをする。

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 いよいよ年末である。ここのところ天候が良いので大掃除するには絶好だが、なにせ寒いので体と気持ちが動かない‥

そんな時は、温泉だ。

板橋区民は温泉が大好きである(以下略。我が赤塚郷近郊では、埼スポ(埼玉スポーツセンター)内の温泉がご贔屓だが、いかんせん露天場が広いので、厳冬期にはきつい。

まっ、やはり一年の締めくくりには板橋区内の温泉施設へ、ってことで前野原温泉さやの湯処で今年の温泉仕舞いをしようと、徳丸の「はま寿し」→「さやの湯」の黄金コースを辿った。

さやの湯も開湯10年を迎え、東京都内屈指の人気温泉として定着した。入湯料870円とコスパもいいが、何より良いのは泉質で、都内では珍しい淡緑泥色を帯びたナトリウム塩化物強塩泉だ。近所のスパディオの茶褐色とも和光極楽湯の黒湯とも違う、品の良い乳緑の色をしている。先日の冬至では極楽湯でユズ湯をやっていたが、黒に黄色の取り合わせは、ビジュアルとして絶望的に合わないので浸かる気になれない。。

そんな素晴らしい「さやの湯」なのだが、板橋区民は年に数回しか利用しない。それは、あまりに人気のため常に混んでいるからだ。板橋区民は温泉に”癒し”を求めにゆく。それは泉質だけではないのである。さやの湯は、混雑のためトラブルに遭遇する率が多いのだ。


‥今回の温泉納めでも、こんな光景を目にした。

板橋区民は、ほぼ満員の源泉に浸かりながら、澄んだ冬の青空を見上げていた。そこへ、ご老人が源泉中央部の手すりにすがりながら湯に入ろうとしてきた。その時、湯船に足を入れたご老人が思わず足を滑らし、体がよろめき、手すりに寄りかかって半身浴していた中年の黒メガネデブのおっさんに倒れかかった。あろうことか、ご老人の若かりし頃はさぞやんちゃだったであろう愚息が黒メガネデブのおっさんの顔に直撃し、衝撃でおっさんのメガネは吹き飛び、湯船の中に飛び込んでしまった。

いきなりご老人の愚息を顔に受けたおっさんは、「メガネが壊れたじゃねーか!」と怒声をあげ、しきりに舌打ちをしながら湯の中から拾い上げた黒縁メガネをいじくりまわし、ご老人は恐縮し、あやまり続けた。一瞬にして、湯船に浸かっていた全員は、不穏な空気に包まれてしまった。

‥癒されない。。

よろけたご老人はしかたがない。本来は湯に入るために設置された手すりに寄りかかっているおっさんも悪いと思う。

しかし、そんな光景を目の当たりにさせられてしまった板橋区民の気持ちは、どうしてくれるのだ。

「温泉に入る時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか、救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで・・・」

これが、理想である。


2017年は、全国への温泉巡りにはあまり行くことができなかった。来年2018年は、大好きな硫黄泉巡りをしたいものだ。


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板橋区民、2017年の笑い納めをする。



板橋区民の皆さん、年始の準備は進んでおりますか?

かねてから逃避癖のある板橋区民は今、日本武道館におります。YOUは何しに武道館?ということで、



肩書きはなんでしょうか、エンターティナーの清水ミチコの武道館ライヴに来ているのだ。

それにしても、専業の歌手でもないのに武道館での単独ライヴはすごい。

しかもチケット争奪戦に乗り遅れたのでこんな席しか取れなかったのである。



それでも、類い稀な才能がある清水ミチコさんのライヴを生で見られるのは楽しみなんだな。。







16時10分に始まったライブはきっかり2時間半で終わった。いや〜やっぱり生がいいですね。テレビでやらないネタ満載でした。これで笑い納めもできました。

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板橋区民、2017年大晦日の挨拶をする。

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 とうとう、2017年も大晦日を迎えました。先ほど、ちらっと雪も舞いましたね。

いつもなら、その年に手に入れたお宝資料のNo-1を発表するのだが、本年は自慢するほどのお宝を収集することができなかった。

まっ、そんな年もある。

その代わり、であるが先日までしつこく記事をUPしていた、「啓志線」についての調査が前進したことについては喜びたい。


まだ、発表はできないのだが、来年は、板橋区民にとって大きな出来事が起こる。何年も何年も検案してきたことが実現する予定なのだ。その日のために、そのための準備を、新年から行ないたいと思う。


板橋区民の皆様方、そして、旧北豊島郡域の皆様方、そしてそして、そうでない地域の皆様方、今年一年、当ブログに訪れていただき、ありがとうございました。どうぞ、良い新年をお迎へくださいませ。

あっ、冒頭の写真ですが、いつからか赤塚中央通りの北方、前谷津川支流の緑道手前約100mに渡って設けられた電飾、いや、光のページェントである。街の噂によれば、この近辺にある会社が、日頃騒音などで近隣の方々に迷惑をかけているのでそのお詫びとして設置したと聞く。表参道のような、金ピカなだけの派手なモノと比べるのはやめよう。それは、野暮というものだ。赤塚中央通りには、優しさが灯っているのである。

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