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板橋区民、啓志線について振り返る。<2017年・エピソード3>

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 矢継ぎ早の第3弾!


前回は、グラントハイツ建設に関わった二人の”ケーシーさん”について述べましたが、勘違いをしないでいただきたいのは、現場監督の一人であったケーシー中尉の立場である。

GHQの高官であった<ケーシー少将>は、自らが立ち上げた「占領軍住宅建設計画」を履行するにあたり、「日本の資金」で「日本国の責任」において建設するよう日本政府へ求めた。住宅建物から家具・什器類に至るまですべて米国式のデザインを用いて設計し、それらは日本国内で製作しなくてはならなかった。そのため、デザインの基本は米国人の指導によったが、全国から日本人建築デザイナーがかき集められ、チームをつくり、事に当たった。(これは後に日本の建築設計界に大きな影響を与えることとなった。)

グラントハイツ建設については、「東京都」が責任を持って担当し、都は「成増住宅建設事務所」を設置し、これを本部として建設工事は始まった。工事の監督人は東京都から派遣され、入札によって決められた日本の建設会社が、それぞれの担当箇所の建設工事を行った。

第8軍隷下の建設部隊からグラントハイツへ派遣された技術将校のケーシー中尉は、いわば役所の検査官のような存在で、仕様書に沿った建設工法で作業が行われているのか、工期は守られているのかをチェックする立場であった。だから、自ら鞭を振るって啓志線の工事を陣頭指揮した、なんてことはないのである。

練馬倉庫からの線路延長工事は、東京都が用地買収の交渉をしたと考えられるが、いまのところその経過は不明だ。工事は、国鉄の下部組織で、新線建設・線増・橋梁取替・高架化・停車場改良・駅ビル建設などの大規模な工事を担当していた<東京第一工事局>が行ったが、啓志線工事の頃はまだ”国鉄(日本国有鉄道)”という組織も東京第一工事局も存在しておらず、「運輸省東京地方施設部」という部署が担当したと考えられる。

東武鉄道社史によると、啓志線敷設工事は”国鉄の新橋工事局が行った”とあるが、東京工事局や新橋工事局が設置されるのは昭和32年(1957)であり、昭和22年当時の状況はまだ当ブログとしては把握していない。

練馬区史では敷設工事開始を昭和22年3月3日、竣工を同25日と記載している。その根拠はわからないが、大規模住宅建設工事では、まず物資の搬入や工事人輸送などの必要から、線路や道路などインフラ整備が優先されるので、工事開始時期に矛盾は感じられない。

啓志線敷設中の写真は存在を確認していないけれど、アメリカのメリーランド州にある国立公文書館で見つけた建設中のグラントハイツ写真の一枚に、貨車が写っているのを発見した。

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上の写真、右端に無蓋貨車が写ってますね。キャプションには建設中のボイラー工場と記されています。工事範囲内でいくつかに分岐した啓志線の先端部分に停車しているのでしょうか。

いわゆる”啓志駅”というもの(乗降客が使用した駅)も、専用のホームや駅舎があるわけではなく(簡易的なものはあったかもしれませんが)、アメリカやヨーロッパの田舎の駅のように、地上から列車へ直接、乗り降りした形式であったのではないかと想像します。

第4弾に続く。

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