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板橋区民、啓志線について振り返る。<2017年・エピソード2>

Photo1949

 続けてエピソード2をお送りします。今回は、ケーシー少将とケーシー中尉について。

二人のケーシーについてはもう何度も書いてますので、詳しくは過去記事をご覧ください。

いわゆる”啓志線”の名称の元となったであろう、グラントハイツ建設に関わった米軍のケーシーさんについては、過去様々な表記のされ方をしていたが、実は二人の同姓同名の人物が存在していたことがわかった。

一人は、マッカーサーの副官でGHQを内閣に例えれば国土交通大臣の職にあった「ケーシー少将」。もう一人は、実務的に日本の統治を行っていた、米第8軍のミリタリー・ガバメント隷下の建設部隊、日本の役所に例えると、役所の土木課の技術課長職にあった「ケーシー中尉」と、二人のケーシーさんがいたのだ。

すなわち、グラントハイツは「ケーシー少将」が企画・建設命令を下し、土木課の「ケーシー中尉」が現場監督だったというのが真相なのである。おまけに、この二人は親子である可能性が非常に高いのだ。

ケーシー少将は、その立場からグラントハイツ建設を担当した建設会社にとっては”神のような存在”であったのに対し、ケーシー中尉は”現場の鬼監督”として恐れられていた。

グラントハイツは、完成した昭和23年(1948)6月に正式に命名され、それをもって東武鉄道では「グラントハイツ線、もしくはGH線」と表記した。完成以前については、成増線とも成増新線とも呼び、統一された名称で表記されてはいないが、建設会社の間では貨物の運搬先として「啓志」の名称が使用されていた。

米軍は、しばしば軍施設に個人名などの”愛称”をつけて呼ぶ伝統があるが、基本的には物故した人物の名前をつけるので、現役の人物であるケーシーの愛称はつけないと考えられる。

以上のことから、「啓志線」の名は日本の建設会社がつけた名称で、現場監督のケーシー中尉ではなく”神のような存在”であったケーシー少将にあやかって付けたのではないかと推察される。

ケーシー中尉は進駐軍の電話帳によると、昭和22年(1947)2月からその名前が現れ、グラントハイツ竣工前後に名前が消えている。電話帳は全国規模なので、日本国内から去ったものと思われるが、士官学校を卒業した将校、すなわち職業軍人なので除隊したとは考えにくい。グラントハイツ建設の主体事業である「占領軍住宅建設計画」では、韓国にも占領軍住宅建設が企画されているので、その後、韓国へ渡った可能性がある。

ケーシー少将の息子であるヒュー B. ケーシーは、朝鮮戦争の只中である昭和27年(1952)1月、韓国38度線中央部付近にて航空機事故で亡くなり、事故現場付近にある米軍基地は「キャンプ・ケーシー」と命名されている。

ヒュー J. ケーシー少将は、昭和24年(1949)12月末をもって米陸軍を退役し、故郷のニューヨークへ帰国した。

冒頭の写真は、昭和24年(1949)3月にサンフランシスコで撮影されもので、写真裏のキャプションにはマッカーサーの副官として11年間勤めていたことを慰労する文が載っている。隣はケーシー少将の兄弟、マーチン・ケーシーとケーシー少将夫人である。

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