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板橋区民、地域格差の是正をする。〜大山(栄町)編〜

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 なかなかスカッとした夏空が戻りませんね。暑いのコリもゴリですが‥


そんなことで板橋区の風景写真続き、今回は前野町のお隣、大山(栄町)編をお届けする。ちなみに、地域格差を是正する。とは、当ブログは板橋区域を中心とした話題を提供する趣旨なのだけれど、つい出身地である赤塚郷のトピックを多く取り上げてしまう、という点を反省してのことである。


さて、一枚目は「養育院」の絵葉書から敷地全景を捉えたものを紹介。撮影場所は東上線の線路近くから東へ向けての風景と思われるのだが撮影位置がだいぶ高く、わざわざ櫓を建てて撮影したのかもしれない。(現在ならドローン撮影だろうが、昔は遺跡の発掘現場などでは俯瞰全景を撮るときに櫓を建てることがあった。)左側に伸びる崖上の道は現在もある通りではないかと推測する。(3枚目は現在の崖上の道)

2枚目は別角度から捉えられたもので、南方向を捉えたもの、と思うのだが、左後方に大谷口の水道タンクがあれば間違いないのだけれど、残念ながら写り込んではいない。2枚の写真は板橋区が誕生した時期(昭和7年)に撮影されたもので、大谷口給水塔の建設は昭和3年だ。日大病院は昭和10年竣工なので写っていないのだろう。

現在、「養育院」は石原都政下で行われた都政リストラ計画により、地方独立行政法人東京都健康長寿医療センターへと発展解消してしまっている。

もともと養育院は、明治5年に本郷加賀藩邸跡(現在の東京大学)の空長屋に設置された。日露戦争が勃発する以前、ロシア皇太子が訪日するにあたり、明治政府は「臭いものに蓋」をするような対応で、巷の生活困窮者などを狩込み、ロシア人等の欧米人の眼に触れないよう、この空き長屋に収容したのが原点となっていた。

その後、医療業務を開始するとともに、院内授産事業、行路病人、保護者のいない児童・障害者・類焼者の保護を行うに至った。この間、明治7年から昭和初期まで日本の救貧制度の根幹となった「恤救規則」が公布され、養育院はこれに基づく保護を実施してきたのである。

養育院は、本郷を皮切りに、その後転々と居所を移転させられ、明治29年には大塚に移転し、看護婦・保母の養成、視覚障害や言語障害を持つ児童の教育、虚弱児のための保養所、非行少年のための感化部、ハンセン病患者の隔離治療室、児童施設、職業紹介所、肺結核患者・痼疾患者の隔離治療等、事業を次々と拡大。第二次大戦中も、知的障害者のための施設を現在の千葉福祉園の地に開設しました。

関東大震災を契機に、現在の長寿医療センターの場所へ移動しましたが、終戦まぎわの昭和19年には一部が栃木県塩原に疎開せざるを得ない事情も生じ、また昭和20年4月の空襲では、施設の9割が焼失し、利用者107名の犠牲者を出すという惨事に見舞われた。おそらく、このような方々の避難対策がなおざりにされた(当時の現場ではいろいろあったのだろうが結果として)ことによる悲劇だったのだろう。

この惨事は、もっと世間に知られるべき史実と思います。

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