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板橋区民、体調が快復し謎の写真とヒントを貼って去る。

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 ご心配をおかけしましたが、しつこい夏風邪は漸く去ってくれました。病の最中、暑さと熱にうなされ、お隣の練馬区を脅す夢を見ていたようですが、あれは気のせいだったのか‥

前回、熱でぼーっとしながら東武練馬にある、都立有徳高校の祖となる府立第12高等女学校建設時の写真を貼った。おそらくは、生徒たちが建設中の校舎の棟上げ式に参加をするためにやってきた時に撮影されたスナップ写真だろう。

わからないのは、撮影者がどこから写真を撮ったのか、場所の特定なんですが、建設中の校舎が写っているので推定は簡単かと思いきや、それがどうにもナゾだ。わかるのは、低い場所から撮影していることだけ。と、いうことは現在の不動通り付近なのか、それとも校舎の北側あたりの低地からなのか‥う〜ん。

で、今回は、高台の平地部から撮影した写真を紹介する。おそらく、撮影者の右手後方(校舎の右後方じゃないですよ)に大木伸銅の工場(現・板橋イオン)があるものと思うのだけれど、いかがでしょうか。

参考に、当ブログ初期の記事に載せた校舎敷地の北側、現在、校庭の北端にある走り幅跳び?の設備がある高台から荒川方面に向け、今回紹介の写真と同時期に撮影された写真を貼っておきます。

真ん中に写るのは「中尾観音堂」で、右側の墓地と共に現在もほぼ変わらない姿で残っている。現在の写真に写る右端のコンクリート壁の上部あたりから撮影されたものと推測する。

いわゆる、”古老”と呼ばれる方から、昔の徳丸の様子をお聞きしたことが何度かあるけれど、たいていは「山や谷があって川が流れていた。」とか「一面の畑と杉林が広がっていた。」とか「茅ぶき屋根の家が点在していた。」なんて話であり、聞く方としては「‥そりゃ昔はそうだったんだろ、近郊農村なんてどこでもそんなもんじゃん。」などと聞き飽きたみたいな罰当たりな反応をしてしまうけれど、当時の写真を見せられると素直に、「Wow!すげー田舎じゃん、チョーCool!」と感動してしまいますね。


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コメント

オークさん、病魔に打ち勝ち復活されて嬉しい限りであります。
この度も貴重な写真をありがとうございます。
さて、「高台の平地部から撮影」した写真は校舎正門方向からの撮影で、コの字校舎の半分の外観が出来ている所と推測されます。
左下にトロッコの線路があるようで、駅方向から資材を運搬していた、なんで想像してしまいます。
右端中央に民家がありますが、まきば幼稚園のあたりなのでしょうか。幼稚園の創立者は地元の名士なので、そんな想像をしてしまいます。
しかし、最初の女学生が写っている写真では、校舎が建っている地面が非常にフラットで、今回の写真より半年は経っているのでは、なんて考えてしまします。
中尾観音堂の写真は、今の徳丸6丁目から大東文化大方向でしょうか。6丁目の雑木林はこんな感じだったかな、と見入ってしまいます。
この写真で、大東文化方向、空と大地の境あたりに、白く柱状の物が等間隔にならんで見えるのですが、これは何でしょう。

投稿: ひでぼう | 2017年8月 6日 (日) 19時44分

>>ひでぼうさま
お見舞いのお言葉、ありがとうございます。
撮影場所の推察をありがとうございます。校舎左手側に茅葺の屋根が見え、土地が若干低くなっていそうなのが場所の特定を難しくしていますね。幼稚園創業家は本家と濃い関係なので本拠地である安楽寺周辺から僻地である当該地に土地は持っていても、このころに家があったのかは微妙かと思います。幼稚園は昭和30年開園でしたか。
”白い柱状の物”ですが、私も気になりますがまだわかりません。

投稿: | 2017年8月 7日 (月) 09時14分

貴重な写真ありがとうございます。“白い柱上の物”は、三田線の柱かな、と思ったのですがいかがでしょう。

古老の“川が流れていて・・”というお話、興味深いです。今となっては板橋区内いたるところの川が暗渠となり、古老が幼少の頃はその川はまだ汚染されていなかったのか、きれいな川で遊んだりしたことがあったのだろうか、など想像させられます。

投稿: しがき伸也 | 2017年8月14日 (月) 02時11分

>>しがき伸也さま
いつもコメントをありがとうございます。掲出の写真は1941年(昭和16年)撮影なので、昭和42年開業の三田線(都営6号線)の橋脚ではありません。調査にはもう少し時間をください。
板橋区の地形の特徴は、武蔵野台地から荒川の大河に向かって尾根を形成しながら注ぎ込む中小の河川により形つくられたものであり、それにより坂の多い風光明媚な景色ができたと言うことですね。

投稿: | 2017年8月14日 (月) 08時38分

オークさま
調査ご検討くださり、ありがとうございます。
1941年というと戦争がらみの施設かな、と勝手な想像をしています。
こちらも中途半端な情報ですが、荒川あたりで風船爆弾の製造もなされていた、という話も聞いた記憶があるのですが、
そう言うのにも関連するのかなあ、と根拠もない勝手な想像です。

投稿: しがき伸也 | 2017年8月27日 (日) 00時44分

はじめまして、Googleで何かを検索中にたどり着き、時々お邪魔しています。
紅梅小の先輩なのでしょうか?布施歯科やまきば幼稚園、中道屋(うちは羽切でしたが)懐かしい記憶を呼び戻してくれるHP内容、有り難うございます。

写真の白い構造物ですが、位置的に送電鉄塔と確信しています。絵柄から鉄塔の様には見えませんが戦前の地図には送電線が描かれています。

投稿: odekake3 | 2018年6月21日 (木) 00時28分

>>odekake3 さま
コメントをありがとうございます。送電線の表示がある戦前の地図があるんですね、諜報の関係から一般には無いものと思っておりました。情報をありがとうございます。

投稿: | 2018年6月21日 (木) 09時35分

国土地理院の古地図公開サイト(http://mapps.gsi.go.jp/history.html)で確認できます。
2万5千分の1地形図で1928(昭3) 測量図から送電線が記載されています。(当時の国土基本図は5万の筈ですが)
また、現在の鉄塔位置を地図上にプロットして北野高校からの眺望をシミュレートしても写真と同様な結果が得られました。
気になるのは、写真が鉄塔の現在のイメージと異なって見える事です。

投稿: odekake3 | 2018年6月21日 (木) 19時08分

>>odekake3さま
古地図のご教授ありがとうございました。国土地理院は空中写真しか閲覧していないので、気がつきませんでした。他記事に戦時中米軍が作成した鉄塔が表示された写真偵察図をUPしたことがありますが、米軍は開戦前に地図を入手していたのかもしれませんね。

投稿: | 2018年6月22日 (金) 08時46分

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