板橋区民、オラつく。
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ご心配をおかけしましたが、しつこい夏風邪は漸く去ってくれました。病の最中、暑さと熱にうなされ、お隣の練馬区を脅す夢を見ていたようですが、あれは気のせいだったのか‥
前回、熱でぼーっとしながら東武練馬にある、都立有徳高校の祖となる府立第12高等女学校建設時の写真を貼った。おそらくは、生徒たちが建設中の校舎の棟上げ式に参加をするためにやってきた時に撮影されたスナップ写真だろう。
わからないのは、撮影者がどこから写真を撮ったのか、場所の特定なんですが、建設中の校舎が写っているので推定は簡単かと思いきや、それがどうにもナゾだ。わかるのは、低い場所から撮影していることだけ。と、いうことは現在の不動通り付近なのか、それとも校舎の北側あたりの低地からなのか‥う〜ん。
で、今回は、高台の平地部から撮影した写真を紹介する。おそらく、撮影者の右手後方(校舎の右後方じゃないですよ)に大木伸銅の工場(現・板橋イオン)があるものと思うのだけれど、いかがでしょうか。
参考に、当ブログ初期の記事に載せた校舎敷地の北側、現在、校庭の北端にある走り幅跳び?の設備がある高台から荒川方面に向け、今回紹介の写真と同時期に撮影された写真を貼っておきます。
真ん中に写るのは「中尾観音堂」で、右側の墓地と共に現在もほぼ変わらない姿で残っている。現在の写真に写る右端のコンクリート壁の上部あたりから撮影されたものと推測する。
いわゆる、”古老”と呼ばれる方から、昔の徳丸の様子をお聞きしたことが何度かあるけれど、たいていは「山や谷があって川が流れていた。」とか「一面の畑と杉林が広がっていた。」とか「茅ぶき屋根の家が点在していた。」なんて話であり、聞く方としては「‥そりゃ昔はそうだったんだろ、近郊農村なんてどこでもそんなもんじゃん。」などと聞き飽きたみたいな罰当たりな反応をしてしまうけれど、当時の写真を見せられると素直に、「Wow!すげー田舎じゃん、チョーCool!」と感動してしまいますね。
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健康であることが、こんなに素晴らしいとは。。
そこで、復活記念に当ブログ初期に公開した写真を復活公開しちゃいましょう!
1枚目は、大正時代に撮影された徳丸1丁目付近の写真で、左の林あたりが東武練馬駅近辺と伝わっている。古老の話でも、駅前は杉の林で、戦時中の頃でもタヌキが出そうな雰囲気であった、と聞いたことがある。
2枚目は、東武練馬駅に着いた府立第12高女達が、陸稲もしくは麦畑の中を校舎建築場所へ向かうスナップ。大木伸銅がバックに写るので、場所は明快ですね。1枚目は大根畑に見えるので、同じ場所かどうかは、う〜ん、わからない。ちなみに、東武練馬駅開業は昭和6年、大木伸銅が徳丸側に工場を建てたのが昭和8年だ。
3枚目は、大正時代に不動通りから高島平方面に向けて撮影されたもので、板橋区民がいちばん好きな写真だ。我が故郷、徳丸の特徴が全て詰まった原風景だ。さすが石田収蔵先生、お見事な腕前です。これは旧宅(徳丸幼稚園近く)の裏から撮影したものだろう。
4枚目は、高女達が校地から不動通りへ下った写真。真ん中右手、木に隠れて見えずらいけれど土手があるようにもみえるので、あの”ナゾの写真”が撮影された低地かもしれない。
しかし、”幽玄”とはこの風景のことを言うのかもしれないような幻想的な写真ですね。。
5枚目は、東上線の線路上から府立第12高女校舎建設予定地を撮影した写真。まさに「東京の満州」と呼ばれただけのことはある眺め。
6枚目は、戦後、共学の新制都立高校になってからの通学風景で、東武練馬駅北口がなかったころ。まだまだ女子が多いですが、詰襟の男子生徒も若干写ってますね。さぞや肩身が狭かったことでしょう。
真ん中の屋根あたりが構内踏切のある場所で、池袋行きはここを渡って上りホームへ出た。昭和20年代半ばの写真ですかね。
(注・写真中、板橋サティと表記されてますが、UP当時はまだサティだったので、写真も直さないまま載せてます。)
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せっかくのお盆休み期間なのに天気がパッとしませんね。。
体調が戻って調子に乗り、故郷・東武練馬の古写真を連続でUPしましたが、同じ板橋区出身でも赤塚郷に縁のない方には面白くなかったかもしれません。
と、いうことで今回は赤塚郷のお隣、志村前野町の高台から志村中台町を望む景色の写真を貼ります。
この写真も随分前にUPしましたが、「東京瓦斯電気工業株式会社」所有の火薬工場を撮影したもので、おそらく昭和10年ころの風景と思われ、撮影場所は、現在の淑徳高校の高台あたりからではないかと推測します。
「東京瓦斯電気工業株式会社」は明治43年に現在の東京ガスから別れ、ガス器具製造会社として始まり、軍事工場(主に軍用車両の製造)を経て戦後は日野自動車やいすゞ自動車や小松製作所等に分割しました。
第一次大戦の時から爆弾の信管や火薬の製造も行っており、その火薬工場が中台に建てられたわけです。
写真を見ておわかりかと思いますが、火薬工場は常に爆発事故の危険と隣り合わせなので、事故が起こっても近隣に被害があまり及ばないような場所を選んで置かれます。爆発の威力を上に逃すために屋根も簡易的に作られているのだとか。
それにしても、住宅がびっしりと建て込む現在では想像もできない風景ですね。戦後、工場は旭化成となり火薬の製造は続いていましたが、いまは緑小学校とかサンシティなど高級集合住宅地に変貌しました。
それにしても、「志村中台町」と書かれて、なんで”志村”?とお思いでしょうが、西台も昭和40年代始めまで”志村西台町”でした。つまり赤塚郷の隣はもう志村なんです。
写真の地平線、真ん中やや左寄りにポコッと影が突き出てますが、これはおそらく赤塚諏訪神社のイチョウの大木と思われます。赤塚郷の子供達は”バケの木”と呼んでおりましたが、古老の言い伝えでは、巣鴨などの市場に野菜を運んだ帰り、遠くからこの木を目印に帰途に着いたなどの話が残っております。
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毎年8月15日はめちゃくちゃ暑い、いや熱いという印象ですが今年は大雨で涼し〜ですね。も〜雨ばっか。
暑いさなかの外出は嫌ですが、天気が悪い中の外出も億劫ですね。まっ終戦記念日だし、静かに過ごしますか。
てなことで、先月、M日新聞の取材依頼に協力した記事が新聞紙面に掲載された。個人情報の部分は改ざんさせていただいたが、掲出のような感じに仕上がっていた。さすが百戦錬磨の新聞記者、文章に淀みがない。最初、「練馬飛行場の取材をお願いしたいのですが。」とコンタクトしてきて不安だったが、そんな懸念も払拭された。
今回は、飛行場建設の背景と工事までで終わり、次回は特攻隊の話が中心になるそうだ。本来は1回の掲載で終わらせる予定であったけれど、板橋区民のレクチャーが良かったのか、記事は終戦後のグラントハイツ編まで続き、(今のところ)3回の連載を予定しているとの事である。
記者の方とは光ヶ丘図書館で待ち合わせをし、地域資料のコーナーにある資料を、「これは必読」「この証言は怪しい」「これも参考に」と紹介した。冒頭の”カワセミ”の話は、「平和の碑」の前に佇みながら、遠目に見える池を指して雑談したことだが、文章頭に書かれるお約束の”情景描写”として使われた。
さて、次回は成増飛行場の核心、「特攻隊の基地」がどう描かれるのか、紙面を待ちたい。
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なかなかスカッとした夏空が戻りませんね。暑いのコリもゴリですが‥
そんなことで板橋区の風景写真続き、今回は前野町のお隣、大山(栄町)編をお届けする。ちなみに、地域格差を是正する。とは、当ブログは板橋区域を中心とした話題を提供する趣旨なのだけれど、つい出身地である赤塚郷のトピックを多く取り上げてしまう、という点を反省してのことである。
さて、一枚目は「養育院」の絵葉書から敷地全景を捉えたものを紹介。撮影場所は東上線の線路近くから東へ向けての風景と思われるのだが撮影位置がだいぶ高く、わざわざ櫓を建てて撮影したのかもしれない。(現在ならドローン撮影だろうが、昔は遺跡の発掘現場などでは俯瞰全景を撮るときに櫓を建てることがあった。)左側に伸びる崖上の道は現在もある通りではないかと推測する。(3枚目は現在の崖上の道)
2枚目は別角度から捉えられたもので、南方向を捉えたもの、と思うのだが、左後方に大谷口の水道タンクがあれば間違いないのだけれど、残念ながら写り込んではいない。2枚の写真は板橋区が誕生した時期(昭和7年)に撮影されたもので、大谷口給水塔の建設は昭和3年だ。日大病院は昭和10年竣工なので写っていないのだろう。
現在、「養育院」は石原都政下で行われた都政リストラ計画により、地方独立行政法人東京都健康長寿医療センターへと発展解消してしまっている。
もともと養育院は、明治5年に本郷加賀藩邸跡(現在の東京大学)の空長屋に設置された。日露戦争が勃発する以前、ロシア皇太子が訪日するにあたり、明治政府は「臭いものに蓋」をするような対応で、巷の生活困窮者などを狩込み、ロシア人等の欧米人の眼に触れないよう、この空き長屋に収容したのが原点となっていた。
その後、医療業務を開始するとともに、院内授産事業、行路病人、保護者のいない児童・障害者・類焼者の保護を行うに至った。この間、明治7年から昭和初期まで日本の救貧制度の根幹となった「恤救規則」が公布され、養育院はこれに基づく保護を実施してきたのである。
養育院は、本郷を皮切りに、その後転々と居所を移転させられ、明治29年には大塚に移転し、看護婦・保母の養成、視覚障害や言語障害を持つ児童の教育、虚弱児のための保養所、非行少年のための感化部、ハンセン病患者の隔離治療室、児童施設、職業紹介所、肺結核患者・痼疾患者の隔離治療等、事業を次々と拡大。第二次大戦中も、知的障害者のための施設を現在の千葉福祉園の地に開設しました。
関東大震災を契機に、現在の長寿医療センターの場所へ移動しましたが、終戦まぎわの昭和19年には一部が栃木県塩原に疎開せざるを得ない事情も生じ、また昭和20年4月の空襲では、施設の9割が焼失し、利用者107名の犠牲者を出すという惨事に見舞われた。おそらく、このような方々の避難対策がなおざりにされた(当時の現場ではいろいろあったのだろうが結果として)ことによる悲劇だったのだろう。
この惨事は、もっと世間に知られるべき史実と思います。
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蒸し暑い。いやムシ熱い。。
先週まで、練馬区の本丸、練馬区役所のロビーにて戦争に関するパネル展示が催されていた。
区役所入り口には練馬区独立70周年を祝う記念旗が翻り、旧宗主国の板橋区民としてはあまり面白くはないが、歴史を伝える意義のある催しに協力することはやぶさかではない。
一般に役所主催で行うこうした催しでは必ずアンケート調査を求められるが、見学をしてくださった練馬区民の方々の反応も良いようで、貸し出しをした甲斐はあった。
練馬区にはあまり戦時中を伝える写真が残っておらず、掲示された写真の1/3くらいが他地区の写真であったのが残念だけれど、これは写真の宿命で、高度成長期以前では、写真は基本的には”記念”として撮影されるのが普通であり、出征する個人の写真は割と残っているのだが、特に戦時中は統制もあり、また監視社会であったので、戦争の現場を写した写真は極端に少なくなるのである。
防空演習や学童疎開の写真も、”地域で頑張ってます”、”こんなに元気にやってます”、との意味合いを持たせた宣伝写真として撮られるので、当時の空気を知らない時代の人間にとって、戦争の逼迫さを感じさせる写真にはなっていないのが残念である。
それゆえ、成増飛行場で撮影された写真は、貴重な記録となっていると思う。ちょっと残念だったのは、昔から練馬区が使用している、マニア的には疑念を感じる写真が2点、今年も展示されていたことだ。1点は着物を着た少女たちが搭乗員へ花束を渡している写真、もう1点は終戦後に撮影された三式戦の残骸がころがっている写真である。
花束の写真は、おそらく特攻隊員に手渡しているシーンで、軍の報道班か新聞社がオフィシャルで撮影していることは間違いない。花束を受け取っているのは、47戦隊員ではないことは間違いなく、だとすると振武隊が考えられるが、成増飛行場は単に訓練基地であり、こんな特攻出撃直前のようなセレモニーを行うシチュエーションがあったとは思えない。それに、花束は4名に贈られているが、振武隊ならば6名もしくは12名でなければおかしい。
もう1点の写真は何度も当ブログで指摘してきたが、成増ではなく、調布飛行場で撮影された可能性が非常に高い。まあ、あまり興味のない人にはどうでもよいことで、なんでそこまで絡むのだろうか、ストーカーか、と思われることだろうが、こちらとしては、「成増飛行場」として紹介されていることに違和感を受けるだけで、写真自体を毀損しているわけではない。
いつも夏になると、テレビでは戦争をテーマとした特集を放映することが多かったが、ここ数年、とうとう民放では戦争関連のドラマなどが作られなくなってしまった。せいぜいが”池上解説”的な番組か報道番組でとりあげられるだけだ。最後に観たのは伊藤淳史くんが主演した硫黄島の郵便のドラマだったかなあ、それも結構前だったような気がする。
ニュース報道系では多少特集されるけれど、金と時間がかかるドラマは、もう採算が取れないんだろう。戦争を伝えることの大切さはわかっているけれど、現実的には多くの人に見てもらえる視聴の需要がなく、赤字でも作るという制作側の気概も認められない時代になったということだ。昭和は遠くになりにけり、である。。
しかしである、嘆いてばかりでもない。公共放送NHKはけっこう頑張っているのではないかと思う。特に20日放映された「戦後ゼロ年 東京ブラックホール」では、「板橋事件」が取り上げられたり、近年公開解禁されたCIA機密文章の紹介で、極東にあったCIAのことにチラッと触れたりしていた。ただ、それらには共産主義との軋轢がからんでいることにもっと突っ込んでほしかったけれども。
他にもインパール作戦とか731部隊とか樺太地上戦や原爆などを取り上げていたが、期待をしていた「本土空襲 全記録」、これは地上波とBSで編集を変えて放送され、最近発掘された新映像公開!などと煽っていたけれど、概視感を持ってしまった。
期待のあまり、つい文句を書いてしまったけれど、東京空襲について知らない層に向けては、とても良い番組だったと思う。特に、東京空襲の攻撃目標の中心だった三鷹の中島飛行機エンジン工場爆撃についての作りが良かった。
ただ、新たに発掘された資料や映像も、これまで伝えられていたことの事実を補強したり再確認したりするものであり、新たな驚きと衝撃をもたらすほどのものではなかったなあという贅沢な感想に過ぎない。
BSの本土空襲では、あの鬼畜ルメイ将軍の孫が初めて日本のテレビのインタビューに応じたとの触れ込みだったけれど、想像通り、「祖父は自分の任務を誠実に果たしただけ。」とのコメントだけであった。1978年放映のNHKスペシャル「東京大空襲」をリアルで観ていたが、その時、番組では、存命であった老いたルメイへの突撃インタビューを敢行し、その不機嫌で傲岸な態度や、日本政府から貰った勲章を見せびらかす様は、今でもはっきり覚えている。
戦争のことは、伝統芸能と同じで、あきることなく根気よく繰り返し伝えていかなければいけないと思う。NHKには頑張っていただきたい。
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今回は息抜き回ということで。
昨夜放映されたNHK総合「SONGS」、ご覧になりましたか?朝ドラ「ひよっこ」と桑田佳祐さんのコラボ、良かったですね。23日に新しいソロアルバムをリリースしたばかりで、メディアに出まくりの日々だ。
桑田佳祐さんは1956年2月生まれ、青学在学中にバンド活動を始め、1976年頃から自身のバンドに“サザンオールスターズ”の名を使用し、1978年6月25日、サザンオールスターズとして「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューした。以来、常に第一線で活躍し、数多くのヒット曲を世に送り出し、現在もそれは続いている。
奥さんの原由子さんが妊娠中の1986年に、1年限定で結成されたKUWATA BANDで同時リリースした2ndシングル『スキップ・ビート (SKIPPED BEAT)』、3rdシングル『MERRY X'MAS IN SUMMER』は大ヒットを飛ばした。その後1987年に言葉通りバンドは解散し、桑田さんは単身ニューヨークへ渡りソロアルバムの制作に取り掛かった。
そんな1987年、板橋区民はN.Y.で桑田さんとひょんなことから出会っていた。ちょうど日本ではバブル時代の鐘が鳴るころだった。写真は当時撮ったもので、確かシカゴ・ジャズの店に行った時だったかな。
実は板橋区民はバブルを知らない。それは、バブル直前から弾けるまでの数年間、アメリカにいたからだ。昭和の終わる瞬間も、N.Y.で迎えた。
アメリカ時代の話は、懐かしいけれどほろ苦いことも多く、思い出はずっと封印してきた。まあ、そろそろあの時代の話も気持ちの中で枯れてきたので、書き残しても良いのかなあと感じつつあり、その時は別にブログを立ち上げて書き進めていこうかと思っている。
今でも思い出すのは、仕事の時に毎日通ったウオールストリート街やワールドトレードセンターで、W.T.Cビルがあの911で崩壊した時は本当に驚いた。あんな巨大な建造物があんな脆くあっけなく崩れ落ちるなんていまでも信じられない気持ちだ。7年前くらい前に現場を再訪したけれど、改めて本当のことだったのだと納得せざるを得なかったのである。
あれから30年、変わらず素晴らしいアルバムを世に送り続けている桑田佳祐さんに乾杯!
そうそう、先月だったか赤塚商店街で見かけた「ハロー張りネズミ」のロケ風景の回、本日放映されるようです。商店街の道に佇む深キョン、八百屋の中にいた橋本マナミ嬢、キレイだったなあ‥
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もう夏も終わりかぁ‥ってあと4ヶ月後はもうクリスマスも過ぎてんじゃん。
8月最終日曜日といえば、御殿場の自衛隊演習場で「富士総合火力演習」が行われることは、それなりに知られている。今年、板橋区民はついに演習見学に当選した。応募し続けて10数年の努力が報われた瞬間だった。今回の当選倍率はなんと29倍!過去最高の狭き門であった。
総火演では、戦闘車両や火砲などによる実弾射撃(実弾の他に演習弾も使用)や、航空自衛隊戦闘機による対地爆撃(安全上、地上設置の爆薬による模擬爆撃で実弾投下は行わない)、輸送機からの空挺降下やヘリコプターからのヘリボーンなどが実演される。
普段、我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会が行う火縄銃による黒色火薬の空砲発砲演武にて、発砲音の凄さは体感しているが、総火演での発砲音に比べれば天と地ほどの違いがあるらしい。
演習開始時間は27日の午前10時からだが、当選倍率29倍であっても数万人の見学者が押し寄せるため、当日の朝はやく赤塚郷を出発しても、観覧場所の後方となり音しか聞こえないとのことで、そろそろ出発することにする。今夜は秦野に住む友人宅にお世話になり、明日早朝演習地へ向かう予定だ。
久々に手持ちのiPhoneから実況ブログ報告をするつもりだけれど、現地は電波状況が弱く、さらに数万人が集まるので演習中の実況は無理かもしれない。
それにしてもこの夏は、ポケモンGoの横浜イベントで、これまた高倍率を勝ち抜きミューツーを手にいれた。これで今年の運も使い果たしてしまったかもしれない‥
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おはようございます。
いま、御殿場のセブンイレブンにいる。これから総火演会場へ向かうがさてスムーズに着けるかな。
午前3時50分、現地到着。いや〜聞きしに勝るがすでに沢山の人が集まっている。取り敢えずEスタンド席の列に並べたが本当に座れるのかどうか心配だ。
現在、午前4時45分、空が白み始めて来た。風が寒いくらいだ。会場はますますカオス状態へ。
午前5時、行列整理のため一斉に移動を始めたが列が一気に乱れますますますますカオス状態へ。
午前5時45分、当選ハガキをチケットに交換。本当にスタンド席に座れるのかなあ。。
午前6時30分、会場席への移動が始まった。わくわく。
午前7時、シート席に無事着弾。ヨカッタ。演習開始まであと3時間か
書き込み忘れたけど、午前6時半過ぎから試射が始まっている。ものすご〜い爆裂音だ。
富士山も顔を見せ始めた。
午前8時45分、いい感じになってきたゾ
開演まであと30分!シート席もぎっしり満員だ。
10分前、スタンバイよし!
いざ出陣‼︎
弾着〜〜〜〜
弾着〜〜〜〜
富士山をバックにして飛ぶアパ〜〜ッチ‼︎
空挺隊着地で前段終了!
詳細は後に、後段終了ー
いや〜凄かったー
ってなことで、無事演習見学を終え昼食を食べに寄ったのは、ハンバーグ好きなら一度は訪れたい静岡県内しかないハンバーグチェーン「炭火焼レストランさわやか」ただでさえ混む日曜日の午後、なんと3時間以上の待ち時間。せっかく此処まで来たのだ、総火演の待ち時間6時間の半分じゃまいか。今日はほとんど仮眠しかしていなかったので車の中で休むかと駐車場で待つことに。
ってなことでマジで3時間待ちでありついた名物の「げんこつハンバーグ」。んっもうとても美味しゅうございました。
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いや〜今朝テレビをつけたらびっくりしましたね、Jアラートって呼ぶんですか、ようするに72年ぶりの日本本土での空襲警戒警報発令ってことですね。こんな時代が再び来るとは‥
27日の富士総合火力演習視察の興奮いまだ冷めやらず、本物の砲撃音の衝撃はまだ体に残っている。当日は臨時の携帯基地局が設置されていたので、ブログへの書き込みはできましたが、なにせ2時間の本番中、前段と後段の間休憩20分を挟んだ以外は次から次へとプログラムが展開してゆくので、全然文章の書き込みが追いつかず。。
そこで、改めて総火演の様子を振り返ってみますね。
富士総合火力演習は、陸上自衛隊の演習の一つで、静岡県御殿場市の東富士演習場畑岡地区で実施される。陸上自衛隊富士学校の学生に火力戦闘の様相を認識させる目的で1961年(昭和36年)から開始された。1966年(昭和41年)以降は自衛隊に対する国民の理解を深める目的で一般公開を行っている。
演習は、富士学校主催の一般非公開の演習(団予行、学校予行、教育演習)と、陸上幕僚監部主催の一般公開の演習(公開演習)があり、本来の目的は前者であり、公開演習は、陸上自衛隊の広報活動の一環だ。27日に行われたのは一般公開なので、一般公募当選者や自衛隊協力団体、大使館間関係者、武官などが招待される。いわゆるお客様へのお披露目の日なので、先日就任したばかりの小野寺防衛大臣もやってきた。演習開始の午前10時には約3万人の観衆で会場はぎっしりだ。
昨今の北の脅威や、尖閣周辺の蠢きを目にしている国民としては、どのような防衛の準備が行われているのかを確認しなくてはならない。自分達の税金が使われているわけですし。
開始時間は10時からだが、午前6時半ころから演習のための試射が行われたり、自衛隊広報ビデオの上映、音楽隊による演奏が行われるので、あきることはない。演習は前段と後段の二部構成で、前段では陸上自衛隊の主要装備品の紹介が行われる。最初は顔見せの99式自走155ミリ榴弾砲、203ミリ自走榴弾砲、155ミリ榴弾砲(FH70)など。
すんません、あてくしは軍装備には疎いもんで間違いがあるかもしれませんがご容赦を。左は99式自走155mm榴弾砲。右は203ミリ自走榴弾砲。緑の旗は射撃準備前の意味、射撃準備が完了すると赤旗が立つ。
榴弾砲の射撃と着弾の様子。的は富士山方向に3000メートル離れた二段山、三段山。着弾の音は煙が上がってから2〜3秒後にドカーン!と腹に響く。
近年は災害時に孤立した被災者を輸送するために使われるのでよく見かける輸送ヘリCH-47(チヌーク)。本来の使い方が写真の通りで、機体後部から87式偵察警戒車等を排出する。
120ミリ迫撃砲RT、ご先祖は我が高島流モルチール砲だ。右は中距離多目的誘導弾。対舟艇・対戦車ミサイルで、誘導方式は、2種類の光波ホーミング誘導(赤外線画像(IIR)及びセミアクティブ・レーザー・ホーミング(SALH))の併用による第3世代方式で、照準は赤外線画像(IIR)またはミリ波レーダーで行なう。
87式偵察警戒車の発砲シーン、89式5.56ミリ小銃で射撃する隊員、84ミリ無反動砲(B)の発砲シーン。
戦闘ヘリコプターAH-64D(アパッチ)。こんなのに狙われたら逃げられない。
87式自走高射機関砲、砲塔の左右にスイスのエリコン社製35mm対空機関砲KDAを1門ずつ、2門装備し、砲塔上部の後方にパルス・ドップラー方式の索敵レーダーと、追尾レーダーが配置されている。後上方の水平棒状のものが索敵レーダーのアンテナ、前を向いた皿状のものが追尾レーダーのアンテナである。バックアップ用に、映像システム、TVカメラ、低光度TVカメラ、赤外線映像装置、レーザー測遠機などの光学照準システムが搭載されている。車体は74式戦車を流用している。右は90式戦車と74式戦車。
74式戦車は開発から50年経つがまだまだ現役だ。右は90式の発砲シーン。とにかく戦車の発砲は音もすごいが衝撃波が衝撃的だ。総毛立つと言うか全身の毛穴がざわつく感覚だ。現場の隊員はよく耐えられるなあと感心する。
一番人気の最新型10式戦車の走行シーンと後退しながら射撃を行うシーン。とにかく機動がすごい。右は最新配備の水陸両用車 AAV SU。今後は島嶼防衛で活躍すると言う。
チヌークから降下する空挺隊員。みごと発煙筒の焚かれた降下目標に着地、観客の拍手喝さいを浴びて前段終了。
20分間の休息を挟み後段開始。後段では、島嶼部に対する作戦行動を展開するストーリーを見せる。まず、空自のF-2戦闘機による爆撃。轟音とともに飛来し、目標地点に爆弾を投下。総火演では万が一のことを考慮し、あらかじめ地上に仕掛けた爆薬をタイミングを合わせて爆破。キノコ雲型の爆発って初めて生で見た。
多用途ヘリコプターUH-60(ブラックホーク)から降下する隊員。右は装備を降ろすチヌークを援護する観測ヘリコプターOH-6とAH-64Dアパッチ。
島嶼部機動展開した部隊による奪回作戦。偵察部隊による射撃による偵察。バイクはカワサキのKLX250。
フィナーレは、参加装備機材のデモンストレーション走行と派手な爆破シーンで終わる。
いや〜初めての総火演視察でしたが、迫力は感じました。ですがあくまでも予定調和な訓練場での演習なので、本番有事で起こるであろう様々なシーンに対処できるかは、練度を上げる訓練が繰り返し必要なのは言うまでもないですね。本番なんて起きないことを願いますが。
いやな人にはお勧めしませんが、ノンポリ程度の人は是非、見学することをすすめます。倍率は高いですが、それは招待客の割合が多いからで、招待されるのも地域との関わりがあれば方法はあるかと思います。
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