(もっと)あ ぶ な い 成増。〜南口の、その南〜
板橋区民の愛してやまない大分の温泉地帯の無事を祈ります‥
都議会議員選挙は終わりましたが、板橋区内はいまだくすぶってますね。こんなに連日全国ニュースで取りあげられるなんて記憶にない。それにしても、現職二人とも落ちるとは思わなかったなあ。いつからそうなったのかはわかりませんが、もともと11区は組織票に強い政党に牛耳られている感じはしていたけれど、今回の選挙で露骨にそれがわかりました。
弱者に優しい政党は批判しにくいけれど、福祉に回す予算が50パーセント以上とはすごい。財源である税収入をどうするのだろうか。区の活性化が叫ばれるけれど、これで活きの良い区民が定着するのだろうか。。
前回の資料を、子どもの頃から成増に住む70代の方に見せ、何か覚えていることはないかと尋ねてみた。
その方の記憶によれば、昭和40年代始め頃まで、川越街道の南側界隈は飲み歩く外人の姿が目立ったという。さすがにパンパンはもう見かけなかったそうだが、巡回するMPとはよく遭遇したのだとか。パンパンはいなかったけれど、ある旅荘を拠点に川越街道の裏の道で客引きをする、トウのたった女性たちの姿は日常的に見かけられたとの事。
私が成増に行き始めたのは昭和40年代半ばからで、踏切の側にあった本屋へマンガ・コミックを買いに通っていた。当時、赤塚郷でコミックの新刊本を揃えていた店はそこくらいしかなかったと記憶する。大きな本屋は池袋東武まで行くしかなかった。徳丸から成増へは松月院通りを自転車で行ったが、高島平建設工事のダンプカーがバンバン走って危なかったので、”今の松月院通り”を走った。あの頃は、畑の畦道だったのですよ。帰りももちろん同じ道を通ったので川越街道まで出ることはなく、あやしい時代の成増を実見できなかったのは残念だ。
冒頭の住宅地図はその当時のもので、50年以上前の情報ですが、現在に差し障りがある可能性もあるので詳しい説明は避けます。この界隈のリアルな写真を見たことがありませんが、どんな雰囲気だったのか興味がありますね。
本田宗一郎のことを聞いてみると、その頃、本田氏は一家で成増に住んでいて、お子さんと歩いている姿を見かけたそうで、たまに旅荘の前にホンダの車がずらりと並び、会合だか宴会が行われていたのを憶えておられるとか。
う〜ん、当時の話をもっと集めたい‥
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