板橋区民、謎の写真を貼って去る。
えっと、もうすぐ8月なのにまだ梅雨は明けてないようですね。あれっ明けてましたっけ?
なんて錯乱したことを書いておりますが、板橋区民は近年引いたこともない夏風邪にかかりまして、苦しんでおります。おかげでやる気スイッチがoffになっており、ブログの更新もままならない状態です。
冬ならば暖かく養生できるのですが、猛暑の時期では、冷房をつけると鼻水が止まらず、余計調子が悪くなりそうでどうしょうもない‥みなさんもくれぐれもサーキュレータを体に当てて寝ることに注意しましょう。。
とりあえず、生存確認も兼ねて、古写真を貼っておきますので、病から復活するまで謎解きをお楽しみください。
‥って、これだけじゃなんだかわかりませんね。
このシリーズは今まで何度か貼っておりますが、過去記事を辿るのは大変なのでヒントを置いておきます。
写真は、板橋イオン裏にある「板橋有徳高等学校」の前身の北野高校のさらに前身の東京府立第十二高等女学校の校舎建設当時、1941年に撮影されたものだ。
東京府立第十二高等女学校は1939年に青山で創立されたけれど、それが何故、板橋区徳丸なんて場末の地に来たのかは謎の一つだ。おそらく最初から青山にではなく、どこか東京市内(この時すでに板橋区も東京市内であった。)の自然が豊かな地に校舎敷地を持つことに決まっていたことは確かだろう。
写真は、敷地造成が終わり、校舎の上棟式に参加するために、全校生徒が揃って遠足気分でやってきたときのスナップと思われる。校舎敷地は現在と同じ場所なのだけれど、周りの景観が今とはあまりに異なり、撮影地点がまったくもってわからないのだ。
おそらくは東上線の線路側をバックにして撮っているのかなあ、と思うのだが‥校舎の骨組みの下が崖の傾斜になっているので、まきば幼稚園から不動通りへ下る辺りかとも想像するけれど、ひょっとすると不動通りから撮影しているのかもしれない。
にしても、生徒たちの散開している土手はなんなんだろう。かつて不動通りには川が流れ、小規模な田んぼがあったと聞いた記憶はあるけれども‥
なんだか風邪を引いてうつらうつらとしながら夢を見ているような風景ですね。。
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コメント
オークさんは夏風邪ですか。今年の猛暑では養生する事も大変です。一日も早い復活をお祈りします。
さて、謎解き写真の場所ですが、旧北野高校北側にあったテニスコート方向からの撮影と思われます。
その根拠は。
第十二高等女学校の校舎をそのまま、北野高校が引き継いでいた昭和40年代の校舎と比較すると、正門から入ると左手に体育館、中央に400メートルトラックがあり、その正面にトラックを囲む様に、コの字型に校舎がありました。
謎写真では校舎の骨組みの近くに崖があり、トラックの造成は困難と考えられます。
そして、旧北野校舎は、コの字型校舎の北側(コの字の裏側)にLの字の校舎が繋がっていました。
謎写真の校舎骨組みがLの字の校舎の建築途中なら、崖のあたりは旧テニスコート付近を推測されます。
また、第十二高等女学校建設に際し、造成した土を現在の6丁目にあった沼の埋め立てに使ったと聞いた事があります。
投稿: ひでぼう | 2017年7月31日 (月) 23時41分
オークさんお身体大丈夫でしょうか。
あれから、謎解きに夢中になり、再度考察するに、第十二高等女学校の北側斜面では、中尾観音堂があるはずで、前の推測は間違いである事に気が付きました。
大体、駅を降り立った女学生が、何も無い徳丸の田舎道を北側まで歩き回るとは考えらず、東武練馬の近くではないかと考えられます。
女学生が屯している緩やかな坂が「不動通り」だ、と言われても違和感はないでしょう。
投稿: ひでぼう | 2017年8月 2日 (水) 18時45分
>>ひでぼうさま
いつもコメントをありがとうございます。ここ最近過ごしやすい気温になり、しつこい風邪も治ってきました。写真の推測、いろいろとありがとうございます。十二高女完成後の資料が手許にないので、場所の特定は難しいですね。近々さらに写真を追加しますのでお楽しみに。
投稿: | 2017年8月 3日 (木) 18時14分