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2017年7月

「あ ぶ な い 成増。」〜アウトローな南口〜

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 いや〜7月っすか。まいったなあぁ・・


と、意味不明なつぶやきから始まりましたが、今回は「あぶない」シリーズを。

板橋区も雑多な人間が暮らしているわけだし、旧石器時代から様々な歴史を重ねて今日まで続いているから、いろんなことがある。中には記録としては残らないような”裏面史”も数多く存在する。

「残らないものは残らないでいいじゃないか、そのことで傷つく人もいるのだろうから。」

歴史を探求していると、時にそんな葛藤を抱える場面に出会うことがある。

‥そんな葛藤を抱えつつ、良心の呵責と戦いながら自分の興味本位を記事にする。それが当ブログの使命なのである。

なんて、ね。

さて、今回は我が赤塚郷の戦後混乱期裏面史の続き、前回(2015年3月)では、連合軍の進駐を前に、日本政府の”忖度”で設けられた進駐兵士相手の「特殊慰安施設」の場所の一つであった成増の記事を書いた。なんで成増かというと、それは成増陸軍飛行場がまっ先に接収され、進駐軍がやって来るだろうと予想されたからである。

慰安所は進駐軍先遣部隊が上陸した、昭和20年8月28日から営業を開始したけれど、軍の風紀の乱れや衛生上の懸念から、GHQは早々に売春施設への出入りを禁止、MPによる取締りを強化し、昭和21年1月7日以降、GHQの「廃娼」指示により、RAA(Recreation Amusement Association・特殊慰安施設協会)により置かれた占領軍用慰安所は、すべて閉鎖、解散させられた。

しかし、RAAに組織された5万人以上の売春婦は街娼や赤線に散り、また基地周辺のパンパンと呼ばれる女性に姿を変えたという。

では、その後の成増はどうなったのか。当時の新聞記事を追うと、売春婦達は近隣の下赤塚や東武練馬にも分散し、頻繁に街娼の検挙が行われていたらしい。それで成増が浄化されたかというとそうでもないようで、昭和22年春からグラント・ハイツの建設が始まり、全国から労働者が集まり、ハイツ完成後は進駐軍兵士がやってきて需要は増すばかりであった。


冒頭写真の雑誌は、終戦後の退廃から生まれたエログロ本、いわゆる「カストリ雑誌」だ。

昭和27年7月に出版された「人間探求 27号」に、”東京街娼分布図”という潜入レポートが掲載されている。そこでは、街娼始まりの地とされた有楽町界隈を始め、新橋、上野、浅草、新宿、渋谷、そして池袋が、街娼やポン引きのいる場所を示した分布地図とともに紹介されている。

上にある地域は、まあ、そうだろうなと想像ができる。それらは戦前戦中でも三業地だったわけで、いわばメジャーな繁華街だ。しかしである。そこに、我が赤塚郷の成増も紹介されていたのである。

当ブログは、板橋区アゲ、を基本としているのでいささか記事を盛り誇張する部分もないわけではないのだが、都心地域に比べれば地味でマイナーな地域との認識は頭の隅にある。あまり誇れる内容ではないが、メジャー繁華街に匹敵するほどの時代が、赤塚郷にもあったのは感慨深い。

さて、潜入レポートの記事を紹介しよう。

「ここは、極く最近に、発展しはじめた新興誘客地である。朝霞町がオフ・リミットとなったので、基地の洋娼たちが、ここにドッと移動してきたわけだ。
東上線成増駅周辺に、GI目当てポン引が二十人ほども待機している。ポン引は主としてメータクの運転手、或は素手で立っているのもいる。
も一つは、駅前道路を真直ぐに約一丁、突当った川越街道を、下赤塚に向かって、七、八十人もの洋パンが、歩道に点々と立っている。
彼女らの売春場所は、この町にある第三国人部落のシモタ家である。ポン引も洋娼も、そこへ客を伴れていく。殆どがショートで、料金は千円が相場だ。」

用語解説;洋娼・洋パン=外国人相手の娼婦  メータク=メーターのついた距離制料金のタクシー  GI=兵士

地図上の記号、三角で示しているのはポン引の分布、丸にバツ印は洋パンのいる場所だ。当時の成増駅はスキップ村の突き当たりにあったので、左の太い道がスキップ村の道で右斜めの道がダイエーの裏の道と思われる。取材時期が明確ではないけれど、朝鮮戦争時の一番活発であった時期だろうか。

当時は、朝霞の方が兵士で賑わっていたのだろうと思うけれど、本文にあるように、風紀の乱れを防ぐため禁止令が出たので成増が賑わっていたのかもしれない。いつまでこの状態が続いたのかはわからないけれど、そんなに長い期間ではなかったのだろうと思う。「彼女らの売春場所は、この町にある第三国人部落のシモタ家である。」が気になるけれど、そこが具体的にどこの場所を指すのかはわからない。

一般に”シモタ家”とは土地持ちが貸す普通の住宅を指すけれど、いったい何処なのか‥なんとなく、想像がつくけれど、もちろんここに書くことは出来ない。興味本位で書くのはいけませんからねっ。

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(もっと)あ ぶ な い 成増。〜南口の、その南〜

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 板橋区民の愛してやまない大分の温泉地帯の無事を祈ります‥


都議会議員選挙は終わりましたが、板橋区内はいまだくすぶってますね。こんなに連日全国ニュースで取りあげられるなんて記憶にない。それにしても、現職二人とも落ちるとは思わなかったなあ。いつからそうなったのかはわかりませんが、もともと11区は組織票に強い政党に牛耳られている感じはしていたけれど、今回の選挙で露骨にそれがわかりました。
弱者に優しい政党は批判しにくいけれど、福祉に回す予算が50パーセント以上とはすごい。財源である税収入をどうするのだろうか。区の活性化が叫ばれるけれど、これで活きの良い区民が定着するのだろうか。。


前回の資料を、子どもの頃から成増に住む70代の方に見せ、何か覚えていることはないかと尋ねてみた。

その方の記憶によれば、昭和40年代始め頃まで、川越街道の南側界隈は飲み歩く外人の姿が目立ったという。さすがにパンパンはもう見かけなかったそうだが、巡回するMPとはよく遭遇したのだとか。パンパンはいなかったけれど、ある旅荘を拠点に川越街道の裏の道で客引きをする、トウのたった女性たちの姿は日常的に見かけられたとの事。

私が成増に行き始めたのは昭和40年代半ばからで、踏切の側にあった本屋へマンガ・コミックを買いに通っていた。当時、赤塚郷でコミックの新刊本を揃えていた店はそこくらいしかなかったと記憶する。大きな本屋は池袋東武まで行くしかなかった。徳丸から成増へは松月院通りを自転車で行ったが、高島平建設工事のダンプカーがバンバン走って危なかったので、”今の松月院通り”を走った。あの頃は、畑の畦道だったのですよ。帰りももちろん同じ道を通ったので川越街道まで出ることはなく、あやしい時代の成増を実見できなかったのは残念だ。

冒頭の住宅地図はその当時のもので、50年以上前の情報ですが、現在に差し障りがある可能性もあるので詳しい説明は避けます。この界隈のリアルな写真を見たことがありませんが、どんな雰囲気だったのか興味がありますね。

本田宗一郎のことを聞いてみると、その頃、本田氏は一家で成増に住んでいて、お子さんと歩いている姿を見かけたそうで、たまに旅荘の前にホンダの車がずらりと並び、会合だか宴会が行われていたのを憶えておられるとか。


う〜ん、当時の話をもっと集めたい‥

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敗軍の将、ひっそりと手をふる。〜早朝の赤塚郷にて〜

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 ホンマ暑い。いや熱いっす。

足を衰えさせないため、板橋区民は極力散歩をするように努めている。しかし、雨の日と夏はどうにもいけない。天候が悪い日はしかたがないけれど、夏は早朝か日が落ちてから歩くようにしている。

そんな夏の早朝(今朝のこと)、今年最高の気温が出るだろうと予報されている中、すこしでも涼しい時にと散歩に出た帰り道、人気のない赤塚中央通りのコインパーキングに、見慣れない黒塗りの高級車が停車していた。車の先には観光バスが止まり、歩道にスーツ姿の二人組の男が佇んでいた。

この暑い日曜日の朝にスーツ姿ですか、ご苦労様。と思いつつ二人組の前を通り過ぎ際、上着を脱いだやけに色黒の男性の顔をちらりと見ると、なんとそれは我が板橋区選出の大物衆議院議員、下村博文先生ではないか。

今まさに出発しようとする観光バスの掲示板を見ると、それは下赤塚駅近くに居を構える区議会議員さん主催のツアーで、支援者の団体さんが乗ったバスであった。


先の都議会議員選挙の投票が行われたのは一週間前のことだった。

与党自民党は歴史的大惨敗を喫し、11区の現職議員は二人とも落選の憂き目にあってしまった。下村博文先生は自民党東京都連の会長を務めていたのだからその責任は重く、会長辞任の表明をしている。それにも増し、選挙中からマスコミでは元秘書が火元とされるスキャンダル報道が大きく取り上げられ、いまだ騒動は続いている。

その騒動も、ここ数日は某大物芸能人のYouTubeを使った暴露スキャンダルや九州地方の大雨災害報道で目立たなくなっているけれど、日にちが経てばまたぞろ表立った動きが出てくるんだろう。

‥それにしても、選挙も終わったし、疲れたからちょっと休養しに旅行でもするか、なんてことも許されず、間髪を容れず暑かろうが日曜早朝だろうが次の選挙へ向け支持者回りを続ける。いやはや自分には絶対に議員は務まらないな、とつくづく思う次第である。これが、底力に繋がるんだろうなあ。。

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赤塚郷民が見た地域ドラマ「ハロー張りネズミ」、高速感想。

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 先日のアマゾン・プライムセールには参加しましたか?板橋区民は、かき氷機を購入しました。
アイスクリームは一年中食べますが、夏はやっぱりかき氷タイプですね。消費が激しく冷凍庫に補充するのが面倒くさくなって、とうとう製造機を買ってしまった。かき氷機を使うなんて、小学生の時以来だろう。昔は文字通り氷を掻いたシャリシャリ氷がメインだったけど、最近は口触りの良いフワフワ氷が好まれているようで、機械の設定もそうなっているものが多い。でも、やっぱりかき氷はシャリシャリで頭がキーンとなるやつがいいなあ。ええ、どうせ昭和舌ですよ。

そんなかき氷をデザートにしながら、満を持して始まったTBS連続ドラマ「ハロー張りネズミ」を視聴した。
原作は昭和時代の1980年から1989年までヤングマガジンに連載された弘兼憲史のヒット作で、当時、漫画スタジオを構えていた成増で執筆されていたことから、舞台はお隣の駅、我が下赤塚駅の商店街に設定されていた。

今回のドラマも、そこは変更されることはなく、主人公たちが出入りする「あかつか探偵事務所」は、よくテレビで取り上げられる激安衣料品店、のとや先の、一階にマイバスケットの入ったSHIBATATUセンタービルに置かれ、事務所の張り紙は今日現在まだ窓に貼られているのが確認出来る。

さて記念すべき第1話、つかみはどうだろうか。ストーリーはこんな展開だ。

金曜ドラマ「ハロー張りネズミ」~FILE No.1「代理娘」
人情とおせっかいがモットーの探偵事務所を舞台に、誰もやりたがらない面倒な依頼や事件を、一風変わった探偵たちが解決する新感覚・探偵ドラマがスタート!

2017年・東京都板橋区下赤塚ー。五郎(瑛太)とグレ(森田剛)は、所長の風かほる(山口智子)が営む「あかつか探偵事務所」のお気楽所員。ある日事務所を訪れてきた川田(伊藤淳史)からの依頼は、なんと、一ヶ月前に亡くした娘を探してほしいというものだった-。「そんなの探偵の仕事じゃない」と反対されながら、人情をモットーとする五郎とグレは、川田からの依頼を叶えるため、亡くなった「娘」を探すのだが・・・。

う〜ん、普段あまりドラマは見ないので、どんな”見方”をしたら良いのかわからなく、高尚な感想は書けないけれど、ちょっとテンポが緩慢かなあ‥なんだろう、人情物なんだけどねえ。いわゆる犯人とか悪人が出てきたりアクションシーンがなかったから物足りなく感じたのか、う〜んうまく表せないのがもどかしい。。

でも、ジモピー目線で見ると冒頭の、ドローンで撮影した商店街のシーンは新鮮だったかな。これは撮影目撃情報がネットで書かれていた。しかしドラマ自体に下赤塚が映るのはほんの数カットで、あとは常盤台のバレエ教室くらいかな。ほかは千葉の流山や参宮橋駅とか他所で撮られたシーンばかりだったのは、仕方が無いか。でも、もっと板橋区内で撮影されていてもいいのになあ。

あっ、でもドラマ最後に流れる、スタイリッシュなタイトルバックとエンドロールは、ちゃんと事務所のあるSHIBATATUセンタービル屋上で撮影されていて、これは良い。しかし、光が丘の清掃工場の煙突はまだしも、「赤塚ホール」とか「仏壇」の看板はなあ‥カメラは南方向、川越街道沿いの赤塚新町を映している。

基本的な物語は1話で終わるが、それに深キョンがからむストーリーが最終話まで続くような形で進んでいる。今回のメインゲストは伊藤淳史君が務めた。実直な父親役を素晴らしく演じていたが、あの伊藤君が小学生の父親役ねえ、と感慨を覚えた。

1伊藤君、とまるで知り会いのように呼ぶけれど、彼とは昔あったことがある。それは、彼の実質デビューで出世作、「電車男」の撮影の時だ。それ以来10年以上が過ぎたけれど、今もあの時の印象そのままだ。
その時、デビューしてまだ半年くらいのAKB48にも遭遇したけれど、以前、悪意も持たずに当ブログの記事にしたつもりだったが、コメント欄にAKBオタク、いや、ファンからなんだかわけのわからない攻撃的な書き込みをされてしまった。先日も握手会でナイフを持ち込み発煙筒をたいた事件を起こしていたが、思い込みの激しいファンを作ってしまう存在のことは、うかつに記事にできないなあと悟った。

さて、来週、第2話のあらすじはこうだ。

ある日、「あかつか探偵事務所」を一人の女性が訪ねてきた。ゴロー(瑛太)とグレ(森田剛)が依頼内容を聞くと、
四俵蘭子(深田恭子)と名乗る女性は、25年前の新聞記事を手渡した。そこには「サンダー貿易副社長・自殺」の
記事が。
副社長が飛び降り自殺したという報道だが、本当は殺されたと主張する蘭子は、殺された四俵乙吉(平田満)は自分
の父だという。ただならない依頼だと感じ取ったかほる(山口智子)は、全てを聞かずに蘭子の話を遮り断ってしまう。
失意に暮れて商店街を駅へと戻る蘭子だったが、その蘭子をゴローが呼び止める。「困っている美人は放っておけな
い」というゴローは、蘭子から25年前に起こった事件のあらましを聞く。それは、サンダー貿易の贈収賄および詐欺事
件に関することだった。なぜ蘭子の父・乙吉は殺されなければならなかったのか!? そんな中、ゴローと蘭子は南
(リリー・フランキー)という男と接触する……。


次回予告映像を見ると、今後はアクションやCGなど動きのあるシーンが盛られるようで、メリハリを持ってドラマが進むことが期待できる。しかしその分、我が赤塚郷や板橋区内での撮影は少ないままなのだろうけど、原作でも赤塚のシーンは少ないので仕方がないかな。まあ、あのスタイリッシュな屋上シーンがあるなら良しとするか‥

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板橋区民、夏を感じる。2017。

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 梅雨が明けたと宣言されましたが、今年は梅雨ってありましたっけ?


夏の楽しみといえば、枝豆につきる。
板橋区民は枝豆が大好きだ。サルと同じで、あればあるだけ食べてしまう。もう誰にも止められない。

いまは冷凍物があたりまえに流通しているので一年中食べられるが、旬の物にはかなわない。最近は産地種類も豊富だけれど、枝豆はすぐに鮮度が落ちるので、都会で新鮮な物を手に入れる機会はきわめて少ないのだ。

そこで、本当においしいものを手に入れる唯一の手段が、無人販売所なのだ。確か以前にも書いたけれど、板橋区民は、和光市白子の無人販売所を利用している。以前は徳丸でも手に入ったのだが、最近は板橋区内では見かけなくなってしまった。
残念なのは和光市ももはや都会であり、畑も大規模ではないので、その販売所では2週間ほどで販売終了となってしまうことだ。

しか〜し、見事にプリプリの新鮮な枝豆でしょ!濡れた産毛がセクシーじゃないですかっ!さっそくフクフクに茹で上げ、全国各地で買い集めた天然塩を振って食べればもう天国。ああ、あと何年生きて枝豆を食べられるのかと悲しくなるほどのうまさなのである。

それにしても昨日の一瞬の豪雨、驚きましたね。あんなに激しい霰交じりの雨は過去記憶にない。ちょうどそのころ板橋区民は、赤塚新町のおふろの王様で寛いでいたのだが、あまりに激しい豪雨に天井が耐えられず、隙間から雨がシャワーのように降り注ぎ、浴場内は大パニックに陥った。なにせ冷水がミストシャワーなんてもんじゃなく容赦無くブワーッとかかるもんだからたまらない。湯船に飛び込む者、脱衣所に逃げ込む者、何を思ったのか露天に飛び出す人がいて大混乱だった。

その雨も15分ぐらいで雲が去り、表へ出てみるとびっくり。道路は所々水没、街路樹の葉っぱが千切れて道路に散乱し、大粒の霰がそこここに積み上がっていた。道路の排水を整備しても、こんなに瞬間的な豪雨や、さらには霰で落ちた枝葉で排水溝を塞ぐ事態には対処しきれないのだ。

さて、夏といえば戦争の思い出である。

板橋区民は、戦争のことは一年中、心にあるけれど、世間、というかマスコミや公共の施設や資料館などでは、風物詩のように夏になると戦争の話題を取り上げてくる。(最近はめっきり減ってしまった感はありますが。)

すでに日本は平和を得てから72年の時が過ぎ、当時をリアルに体験し記憶が鮮明な人々も稀有な存在となった。そこで、当時の方々から直接話を伺い、多少は調べてきた人間が取材対象となる機会が増えた。先日も、問い合わせてきたM日新聞の取材に協力することにした。

今回お会いしたK記者は戦争取材のベテランで、戦艦大和の元乗組員のインタビューをしたり、ここ10年は戦没者の遺骨収集に同行取材し、シベリアからフィリピン、ガダルカナル島他南方の島、硫黄島を回り、日本国内でも東京大空襲や広島長崎の原爆の際の埋葬地を取材し、最近、岩波新書から著作本も出版されている。

K記者はM日新聞紙上で月に一回の連載を担当しており、来月載せる記事の取材を進めているところだという。

そのヴェテラン記者さんの取材趣旨(ファーストコンタクト)はこうであった。
”この度、「グランハイツ」と練馬飛行場のことを取り上げたいと考えた次第です。”

はいはいそうですか、なにも知らない方々に紹介する記事なのですね、それならばこちらも一からと言うことで、ある程度資料も揃うし、現場でもある光ヶ丘図書館横の平和記念碑で待ち合わせをしましょう。とのことでお会いしたのである。

驚いたことに、ヴェテラン記者のK氏は大山の出身だった。

そうですか、同じ板橋区出身、同郷のよしみもあるので、懇切丁寧に解説を行うことにした。大きな取材を長年されてきたのに、灯台下暗しとはこのこと、成増飛行場が大きく二つに分け「帝都防空の要として空対空の特攻隊がいた」「沖縄特攻隊の訓練基地だった」という役割があったことを話すと大変に驚かれ、これは一回の記事では済みませんね‥と深く頷かれたのであった。


さて、K記者氏は現在独自に調査取材を続けているはずである。一体どんな形の記事になるのか、または、今回は趣旨に合わずまたいつかの機会に考えます、となるのかわからないけれど、気にしつつ待つことにします。

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板橋区民、謎の写真を貼って去る。

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 えっと、もうすぐ8月なのにまだ梅雨は明けてないようですね。あれっ明けてましたっけ?

なんて錯乱したことを書いておりますが、板橋区民は近年引いたこともない夏風邪にかかりまして、苦しんでおります。おかげでやる気スイッチがoffになっており、ブログの更新もままならない状態です。

冬ならば暖かく養生できるのですが、猛暑の時期では、冷房をつけると鼻水が止まらず、余計調子が悪くなりそうでどうしょうもない‥みなさんもくれぐれもサーキュレータを体に当てて寝ることに注意しましょう。。


とりあえず、生存確認も兼ねて、古写真を貼っておきますので、病から復活するまで謎解きをお楽しみください。

‥って、これだけじゃなんだかわかりませんね。

このシリーズは今まで何度か貼っておりますが、過去記事を辿るのは大変なのでヒントを置いておきます。

写真は、板橋イオン裏にある「板橋有徳高等学校」の前身の北野高校のさらに前身の東京府立第十二高等女学校の校舎建設当時、1941年に撮影されたものだ。

東京府立第十二高等女学校は1939年に青山で創立されたけれど、それが何故、板橋区徳丸なんて場末の地に来たのかは謎の一つだ。おそらく最初から青山にではなく、どこか東京市内(この時すでに板橋区も東京市内であった。)の自然が豊かな地に校舎敷地を持つことに決まっていたことは確かだろう。

写真は、敷地造成が終わり、校舎の上棟式に参加するために、全校生徒が揃って遠足気分でやってきたときのスナップと思われる。校舎敷地は現在と同じ場所なのだけれど、周りの景観が今とはあまりに異なり、撮影地点がまったくもってわからないのだ。

おそらくは東上線の線路側をバックにして撮っているのかなあ、と思うのだが‥校舎の骨組みの下が崖の傾斜になっているので、まきば幼稚園から不動通りへ下る辺りかとも想像するけれど、ひょっとすると不動通りから撮影しているのかもしれない。

にしても、生徒たちの散開している土手はなんなんだろう。かつて不動通りには川が流れ、小規模な田んぼがあったと聞いた記憶はあるけれども‥


なんだか風邪を引いてうつらうつらとしながら夢を見ているような風景ですね。。

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