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「コードネーム、イ.タ.バ.シ.を追え!」〜終戦直後の闇/CIA極東支部の暗躍。〜

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 東京都議会議員選挙告示の日が近づいた昨今、我が板橋区内が俄かにざわついてきた。今選挙の台風の目となった小池都知事が立ち上げた、「都民ファーストの会」に所属し、板橋区から立候補する平慶翔氏の周辺で、怪文書が飛び交っているのだ。平慶翔氏は、最近著名サッカー選手と結婚して話題となった元タレント、平愛梨さんの実弟で、愛梨さんは大山に置かれた選挙事務所開きにも駆けつけていた。

平氏は、板橋区選出で、現在一番中央権力に近い、衆議院議員・下村博文氏の元公設秘書を務めた人物であったのだが、それが、対立する小池都知事の”政党”から立候補するという「裏切り行為」をするわけで、怪文章はその中で流され、これから因縁の師弟対決という泥仕合いに発展しそうな様相を呈しているのである。

さてさて、板橋区民の審判はいかに。

てなことで、今回の本題も、機密文書絡みのだいぶ”怪しい”内容となっている。

‥では、始めましょう。


つい近年のこと、アメリカである極秘文書群の機密指定が解除された。それは、米中央情報局(CIA)が保管してきた約12万ページにも及ぶ文章で、今年1月からはNARA(米国国立公文書館)のネット上からも閲覧できるようになった。

その解禁文書群の中に、「タツミ・ファイル」という文章が存在していた。

”タツミ”とは日本人の名前で、旧陸軍軍人の辰巳栄一を指す。下に、”タツミ”の経歴を紹介する。

「辰巳栄一(たつみ えいいち、1895年-1988年)は、佐賀県出身の陸軍軍人で、終戦時の最終階級は陸軍中将だった。1915年陸軍士官学校(27期)、25年陸軍大学校(37期)を優等で卒業し、歩兵第 21連隊中隊長に就任。1926年教育総監部課員を経て28年臨時第 3 師団参謀を務め山東出兵に 出動、30年イギリス駐在歩兵少佐に昇進、イギリス大使館付武官補佐官、関東軍参謀兼満州 国大使館付武官補佐官、参謀本部員を歴任し34年歩兵中佐、35年第 5 師団参謀に就任しイギ リス大使館付武官、37年歩兵大佐、38年参謀本部課長を経て39年イギリス大使館付陸軍武官(当時の大使が吉田茂)。1940年陸軍少将、太平洋戦争開戦に伴い42年交換船でイギリスから帰国、42年東部軍参謀長、43年陸軍中将、45年第12方面軍参謀長・第 3 師団長で中国へ出征し、 鎮江で終戦を迎えた。1946年 5 月に復員する。」


「タツミ・ファイル」は、この辰巳元中将に関するものであるが、そのファイルの中に、「辰巳栄一はイタバシにある米軍保安司令部に秘密機関を構築した」との記述がなされているのが発見された。

「米軍保安司令部の秘密機関」、なんともぞくぞくする響きだが‥それはずばりCIAのことを指す。


CIAがなぜ、「イタバシ」に‥。


ここで話は、前回の記事である、晴れて国の史跡に認定された「旧陸軍第二造兵廠跡」が、関係してくる。

戦争が終わり進駐軍の占領が始まると、すぐに板橋の「二造」と、北区側にあった「一造」及び志村の兵器廠や隣の赤羽や王子に広がる軍事関連施設は、戦時賠償の対象となり差し押さえられた。
そののち、物資や工作機械などの処分が終わった建物などは、占領軍の施設として利用され、様々な機関が置かれるようになった。そして、それらの地域のことを、GHQでは”イタバシ”と総称していたらしい。

その地域の一つ、「ASA」と呼ばれた地区(正確な場所は不明)に「米軍保安司令部」は置かれた。後に「極東陸軍保安司令部」となり、「極東陸軍地図局」とともに、現在は北区立中央公園文化センターとして使われている白亜の建物に移ることになる。

さて、「米軍保安司令部の秘密機関」に関して、もう一人、重要な人物がいる。
それが、旧陸軍軍人の河辺虎四郎である。以下、人物紹介。

「河辺虎四郎(かわべ とらしろう、1890年-1960年)は、富山県出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校24期生、陸軍大学校33期を恩賜で卒業。1938年ドイツ駐在武 官、39年参謀本部付、40年第 7 飛行団長、41年防衛総参謀長・航空本部総務部長、43年第 2 飛行師団長・第 2 航空軍司令官、45年 4 月参謀次長で敗戦を迎え、連合国と会談するため主席代表としてマニラに赴く。」

河辺元中将は、日本が終戦を迎える時、最初に連合国側と直接接触した人間だ。

昭和20年8月17日、東久邇宮稔彦王を首班とする内閣が成立した。同日、ポツダム宣言受諾を前提に、停戦を実施するためアメリカ政府から日本政府に宛て、連合国最高司令官が作成する降伏文書を受理することに関し、十分な権限を有する使者(複数)を連合国最高司令官の許へ派遣することを命ずる通告文が伝達された。次いで同日、日本軍の戦闘の即時停止が命ぜられ、日本政府からの使者は、フィリピンマニラ市にある連合国最高司令部へ派遣するよう命じられた。

使節の代表者は、陸軍中将で陸軍参謀本部次長である河辺虎四郎に決まり、8月18日、「聯合軍最高指揮官ノ指定スル地點ニ出張スヘシ」とする命令が大本営から下される。それに伴い、随員として、外務省から岡崎勝男(調査局長)外1名、陸軍から天野正一(少将、参謀本部作戦課長)外6名、海軍から横山一郎(少将、軍令部出仕)外6名が命ぜられた。

こうして、マニラ使節を乗せた一式陸上攻撃機2機(無武装にして、白塗にした胴体と両翼に日の丸を塗りつぶして緑十字のマークを描く)は、8月19日午前7時18分に木更津飛行場を離陸し、沖縄の伊江島で米陸軍の輸送機に乗り換えて、同日午後5時54分(マニラ時間)にマニラに到着、午後8時30分マニラ市庁にあったマッカーサー司令部に出頭し、米軍の首席代表、参謀長のリチャード・サザランド中将と会議を行った。

この時、出会ったのがマッカーサーの情報参謀を務めていた、チャールズ・ウィロビー少将だった。ウィロビーはドイツ生まれのアメリカ帰化人で、駐独武官の経験がある河辺は、ウィロビーがドイツ語で話すのを知り、空港に向かう帰りの車で話しかけてみた。すると、ウィロビーは飛行機の中まで見送り、彼の方から握手を求めてきた。
終戦から1カ月余りたった9月、有末精三元中将とともに宿舎の帝国ホテルにウィロビーを訪ねて夕食を共にする。

間もなくして旧軍の参謀本部は解散され、陸軍の巨大組織は解体された。そして、軍籍のなくなった河辺を拾ったのがウィロビーだったのである。その時、彼はGHQの参謀第2部 (G2) 部長として諜報・保安・検閲を管轄していた。 

ウィロビーは、首相の吉田茂から紹介された辰巳(イギリス大使であった当時に陸軍武官を務め、戦後は吉田首相の軍事顧問をしていた。)を使い、全国から対敵諜報部隊(CIC)が集めた秘密情報の検証を続けてきた。ウィロビーは情報の吟味と所見を辰巳一人に頼っていた。辰巳はまた、吉田茂の要請により首相軍事顧問としてG2との連絡役も務めていた。

しかし、米軍が集める不穏分子に関する情報は日ごとに増えていき、とうとう辰巳一人では手に余るようになった。そこで、何らかの組織が必要であることを感じていたウィロビーは、G2直轄の情報機関をつくるよう辰巳に提案し、懇意であった河辺と合流させ、昭和22(1947)年の秋、「イタバシ」で”河辺機関”をスタートさせたのである。

”河辺機関”は、河辺を中心に元陸相の下村定、有末元中将、そして辰巳が主要幹部になり、有能な元将校に声をかけて組織を固めた。機密解除されたCIA文書によると、辰巳らはこの「イタバシ」に置かれた保安司令部で5つの部屋を使って活動を開始した。もちろん、活動資金も米軍から支給された。

河辺機関の存在は、ウィロビー少将の要請で一切極秘にされた。中軸となる辰巳に対して、少将はとくに「この機関については、吉田総理にも一切、話してくれるな」との注文がついた。辰巳は極秘とはいえ吉田の軍事顧問であり、同時に、河辺機関の一員として「2つの顔」を持つことになったのである。

秘密機関の任務は、全国の治安状況の把握とシベリアからの引き揚げ者による共産主義活動の情報収集である。もし、機関の存在が明るみに出ると、左右の不穏分子から非難、襲撃の標的になる可能性があった。冷戦の広がりは占領下の日本にも着実に忍び寄り、GHQはシベリア抑留者が洗脳されていないかに神経をとがらせていた。

ところが、河辺機関は、ウィロビーによる日本の”赤化”阻止のための機関として発足したが、辰巳の狙いは、実は他にあった。それは、占領国である日本を、再び独立国家として自立させることを目指し、さらに、日本の再軍備の推進機関となることを目論んでいたのである。

運良く?その機会は、すぐにやってきた。それが、「朝鮮戦争開戦」だった。

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争において、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させることとなった。その時点で日本駐留陸軍部隊は第8軍の4個師団であり、九州駐留の第24歩兵師団は直ちに移動を開始した。その後、7月上旬には第8軍全部隊が朝鮮半島に移動することとなり、日本における防衛兵力・治安維持兵力が存在しないこととなった。

辰巳は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国に CIA を通じて情報を流すことで、米国が吉田首相に軽武装路線から重武装化への転換を迫ることを密かに期待していた。

7月8日、マッカーサー元帥は吉田茂首相に対し、「日本警察力の増強に関する書簡」を提示した。この書簡においては、「事変・暴動等に備える治安警察隊」として、75,000名の「National Police Reserve」の創設が要望されていた。
これは、アメリカが第2次大戦前にフィリピンで創設していたフィリピン警察軍や、アメリカ軍政庁統治下の南朝鮮で創設していた南朝鮮国防警備隊のような対反乱作戦部隊と同等のものとして想定していた。1950年8月10日、警察予備隊令は公布される。

警察予備隊は、朝鮮半島に出動した在日米軍の任務を引き継ぐものとして創設されており、朝鮮戦争開戦時において在日米軍が行なっていた任務がほとんど治安維持のみであったことから、当初は軽装備の治安部隊に近いものとして構想されていた。しかし朝鮮戦争の戦況悪化、ことに11月25日の中国人民志願軍参戦を受けて、マッカーサーは、自由主義陣営が極東において共産主義陣営とまさに対峙しつつあるという危機感を強め、警察予備隊を重武装化する方針を示した。

吉田首相は、辰巳を信頼し、警察予備隊の幹部人選などを任せた。CIA は、1956年11月26日付文書で「CIA が使う上でおそらく最高で、最も安全で、最も信頼できる 人物の一人」と辰巳を評価していた。
河辺機関へのGHQからの援助は1952年で終了した。そこで、機関の要員たちは1952年10月15日に警察予備隊を改編して発足した保安隊(後の自衛隊)に潜り込まされたのである。

1951年9月、警察予備隊の第1連隊が久里浜の基地から、東京都内の練馬北町に新たに置かれた基地へ移動してきた。この場所は、かつて旧陸軍第一造兵廠の倉庫があった所である。
河辺機関の存在した「イタバシ」と関係する土地に基地が置かれたのは、決して偶然のことではないのかもしれない。


安倍晋三首相は憲法記念日の5月3日、平和主義を定めた憲法9条を2020年までに改正し、自衛隊の存在を明文化する考えを示した。

70年前、CIAが「イタバシ」に作った河辺機関が、その真の狙いとしていた独立国家建設への悲願として掲げた日本の再軍備への思いは、現在まで脈々と流れているのだろうか。

*この記事は、湯浅博著・「歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一」を参考/引用しております。

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コメント

まさかこの板橋区で旧西ドイツのゲーレン機関みたいなことをやっていたとは。しかしゲーレン機関はドイツ連邦情報局BNDに発展し、アメリカや英国にまで諜報網を持つシビアなことをやってますが、どうも日本はそうはいかなかったようで。

投稿: ブルー | 2017年6月28日 (水) 23時05分

>>ブルーさま
いつもコメントをありがとうございます。今回の話は、数年前に明らかになったことで驚きました。諜報機関「イ タ バ シ」は講和条約締結の際に消滅しましたが、この組織がもしどさくさに紛れて存続していたならば、どんな日本になっていたのか興味のあるところです。現在、参議院本会議審議入りで大騒ぎとなっている「組織的犯罪処罰法改正案(共謀罪)」はおろか「スパイ防止法」や「特定秘密保護法」なんて当たり前のことでしょう。

投稿: | 2017年6月29日 (木) 08時50分

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