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2017年6月

独立の旗の下に。〜赤塚郷民総決起ス。〜

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なんと!今年ももう半分まできてしまった‥

先週、板橋区内に住む親族に不幸があり、父親の葬儀以来、久しぶりに戸田の斎場へ出向いた。本日の案内を示す液晶板はびっしりと予定が埋まっており、こんなにも大勢の区内及び近隣の方々が毎日旅立っているのかとあらためて驚く。合掌。


いよいよ今月、6月24日(土)から8月15日(火)までの会期で、お隣練馬区の企画展、「独立70周年-練馬区誕生への軌跡」が開催される。

前回、この企画展にちなんで、板橋区民側からの視点で毒を吐いた記事をUPしましたが、その中で、我が赤塚郷も実は板橋区に含まれることに反対していた、と書いた。

その時は勢いにまかせて記憶のみで書いてしまったので、もう少し解説してみる。

赤塚郷は、おおよそ現在の成増三園赤塚赤塚新町大門四つ葉徳丸高島平一帯のことを指す。文化圏は和光市を含んだ近隣地域と考えられおり、一番近い力のある宿場が板橋宿だったので、何かと板橋宿に協力を強いられていた。(幕府の支配にまで触れると話が大きくなるのでざっくりですが。)

1889年(明治22年)、赤塚郷の各村が統合され赤塚村は誕生した。そして、村役場が松月院の門前に置かれた。現在、松月院通りに面した交番のとなり、赤塚八丁目のバス停の所に記念碑が建てられているが、その場所にはかつて”赤塚”の名前の発祥との説がある古墳時代の円墳があったそうだ。

東京府北豊島郡に属していた赤塚村は、1922年(大正11年)4月24日に旧都市計画法に基づき、東京市及び近隣の郡、ほか84町村とともに「東京都市計画区域」として定められた。そしてこれらの地域は、1932年(昭和7年)10月1日、旧東京市15区に加わり東京35区を形成することとなった。その際、現在の練馬区域が板橋区に組み込まれてしまったことが、独立騒動の遠因となったのである。

ここからが問題だ。

実はこの時、練馬区の各村は、板橋区に含まれることに反対をしていなかったのだ。

東京都の公文書館には、当時の各村の決議文が保管されている。下に幾つかサンプルを挙げてみる。


昭和七年六月二十八日
板橋区役所位置設定期成同盟会

一、僻在セル板橋町ニ区役所ヲ設置セントスルカ如キハ区民大衆ノ利便ヲ無視シ将来ノ発展ヲ阻止シ大都市建設ノ根本趣旨ニ相背スルコト甚ダシキモノト認ム

一、板橋区役所ハ区ノ中央部ノ交通至便ノ地点ニ設置スルヲ至当ト認ム

右決議ス

昭和七年七月八日
板橋区役所位置設定期成同盟会
練馬町民大会

僻在セル板橋町ニ区役所ヲ設置セントスルカ如キハ区民大衆ノ利便ヲ無視シ将来ノ発展ヲ阻止シ大都市建設ノ根本趣旨ニ相背スルコト甚ダシキモノト認ム

板橋区役所ハ区ノ中央部ノ交通至便ノ地点ニ設置スルヲ至当ト認ム

右決議ス

昭和七年七月八日
板橋区役所位置設定期成同盟会
中新井村民大会

一、僻在セル板橋町ニ区役所ヲ設置セントスルカ如キハ区民大衆ノ利便ヲ無視シ将来ノ発展ヲ阻止シ大都市建設ノ根本趣旨ニ相背スルコト甚ダシキモノト認ム

二、板橋区役所ハ須ラク区ノ中央部ノ交通至便ノ地点ニ設置スベシ

三、吾人ハ万難ヲ排シ一致結束シテ此ノ目的ノ貫徹ヲ期ス

右決議ス


昭和七年七月八日
板橋区役所位置設定期成同盟会
赤塚村民大会

一、僻在セル板橋町ニ区役所ヲ設置セントスルカ如キハ区民大衆ノ利便ヲ無視シ将来ノ発展ヲ阻止シ大都市建設ノ根本趣旨ニ相背スルコト甚ダシキモノト認ム

一、板橋区役所ハ区ノ中央部ノ交通至便ノ地点ニ設置スルヲ至当ト認ム

右決議ス


以上にて、大泉村など他の地域のものもありますが、割愛いたしました。我が赤塚村もこの時に練馬区域の町や村と歩調を合わせ、同様の決議文を提出していますね。

さて、この決議文はようするに”板橋区役所を板橋町に置くな。”と言ってるんですね。板橋区に含まれることに反対しているわけではない。交通網の発達した今だって板橋区役所に行くのは面倒臭いのだから、赤塚郷民からしても当然の決議だ。気持ちはわかるぞ練馬区民。

しかしである。

今日、練馬区は独立の旗の下に練馬区民は立ち上がり、悪の枢軸、大板橋区帝国の植民地支配からついに独立を勝ち取った。なんて論調で独立記念日を祝おうと様々な行事を行っているわけだが、もともと”練馬区”なんて概念は無かったんじゃないの?いわゆる”練馬郷”なんてものが存在していたのか?

そんなこんなの疑問を、今回の企画展、「独立70周年-練馬区誕生への軌跡」で晴らしてもらえるのか、楽しみである。


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🌟祝!旧陸軍第二造兵廠板橋火薬製造所跡、国の史跡認定!🌟

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 梅雨‥なのか‥?

クリーニング屋へ行く途中、下赤の商店街で7月から始まるTBSドラマ「ハロー張りねずみ」のロケに出くわした。瑛太クンは思ったよりガタイが大きい人なんだなあ。しかし、生の深キョン嬢を拝顔できるとは眼福でした。ありがたやありがたや‥

目出度い!

きのう16日、文化庁は、文化審議会にて旧陸軍板橋火薬製造所跡(板橋区加賀1)を史跡に指定するよう答申した。こんな晴れのニュースが日本中を駆け巡っても良いのだが、ヤフーニュースのトピックにすら記事が上がっていないではないか。これは世界遺産認定やモンドセレクション金賞受賞に匹敵する出来事ではないのか?

旧陸軍板橋火薬製造所は、明治政府が国内で初めて建設した火薬工場だ。加賀藩前田家下屋敷跡に1876年に開所し、1945年8月の終戦まで稼働した。明治から昭和にかけての火薬の研究、実験、製造、貯蔵など一連の工程を示す遺構が残っている。

特に貴重なのは、旧野口研究所裏にある射撃弾道管だ。射撃場は1877(明治10)年にできた。小銃などの弾の速さを計測する弾道管が火薬の燃焼実験室から延び、50メートルあったうち30メートルが今も残っている。現在は区立加賀公園として使われている場所の築山には、射撃場から弾を撃ち込んだレンガ積みの標的がある。
 
また、敷地の一部は戦後の一時期、理化学研究所(理研)板橋分所として使われた。共にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎が研究室を構えた、一部レンガ造りの物理試験室が残っている。

遺構のある地域は面積が約一万三千平方メートルあり、今後、史跡公園として整備され、2020年、旧理研分所に湯川や朝永の研究室を再現し、区の産業史を学べる博物館を開館し、23年には射撃場の復元が予定されている。

板橋区民が耳にした噂では、調査の過程で、遺された建物の地下から旧陸軍の秘密地下室が発見された‥なんて話も。

それにしても、今回の史跡指定は「火薬製造所跡は軍事研究の先駆けとなった場所で、欧米の最先端の技術を導入した日本の近代工業発祥の地。」と位置付けられているのだから、この際、武器ではあるけれど、閉ざされた農業国だった日本が、世界屈指の工業国へと発展した証を展示する、本格的な博物館の誕生を望むところではある。

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「コードネーム、イ.タ.バ.シ.を追え!」〜終戦直後の闇/CIA極東支部の暗躍。〜

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 東京都議会議員選挙告示の日が近づいた昨今、我が板橋区内が俄かにざわついてきた。今選挙の台風の目となった小池都知事が立ち上げた、「都民ファーストの会」に所属し、板橋区から立候補する平慶翔氏の周辺で、怪文書が飛び交っているのだ。平慶翔氏は、最近著名サッカー選手と結婚して話題となった元タレント、平愛梨さんの実弟で、愛梨さんは大山に置かれた選挙事務所開きにも駆けつけていた。

平氏は、板橋区選出で、現在一番中央権力に近い、衆議院議員・下村博文氏の元公設秘書を務めた人物であったのだが、それが、対立する小池都知事の”政党”から立候補するという「裏切り行為」をするわけで、怪文章はその中で流され、これから因縁の師弟対決という泥仕合いに発展しそうな様相を呈しているのである。

さてさて、板橋区民の審判はいかに。

てなことで、今回の本題も、機密文書絡みのだいぶ”怪しい”内容となっている。

‥では、始めましょう。


つい近年のこと、アメリカである極秘文書群の機密指定が解除された。それは、米中央情報局(CIA)が保管してきた約12万ページにも及ぶ文章で、今年1月からはNARA(米国国立公文書館)のネット上からも閲覧できるようになった。

その解禁文書群の中に、「タツミ・ファイル」という文章が存在していた。

”タツミ”とは日本人の名前で、旧陸軍軍人の辰巳栄一を指す。下に、”タツミ”の経歴を紹介する。

「辰巳栄一(たつみ えいいち、1895年-1988年)は、佐賀県出身の陸軍軍人で、終戦時の最終階級は陸軍中将だった。1915年陸軍士官学校(27期)、25年陸軍大学校(37期)を優等で卒業し、歩兵第 21連隊中隊長に就任。1926年教育総監部課員を経て28年臨時第 3 師団参謀を務め山東出兵に 出動、30年イギリス駐在歩兵少佐に昇進、イギリス大使館付武官補佐官、関東軍参謀兼満州 国大使館付武官補佐官、参謀本部員を歴任し34年歩兵中佐、35年第 5 師団参謀に就任しイギ リス大使館付武官、37年歩兵大佐、38年参謀本部課長を経て39年イギリス大使館付陸軍武官(当時の大使が吉田茂)。1940年陸軍少将、太平洋戦争開戦に伴い42年交換船でイギリスから帰国、42年東部軍参謀長、43年陸軍中将、45年第12方面軍参謀長・第 3 師団長で中国へ出征し、 鎮江で終戦を迎えた。1946年 5 月に復員する。」


「タツミ・ファイル」は、この辰巳元中将に関するものであるが、そのファイルの中に、「辰巳栄一はイタバシにある米軍保安司令部に秘密機関を構築した」との記述がなされているのが発見された。

「米軍保安司令部の秘密機関」、なんともぞくぞくする響きだが‥それはずばりCIAのことを指す。


CIAがなぜ、「イタバシ」に‥。


ここで話は、前回の記事である、晴れて国の史跡に認定された「旧陸軍第二造兵廠跡」が、関係してくる。

戦争が終わり進駐軍の占領が始まると、すぐに板橋の「二造」と、北区側にあった「一造」及び志村の兵器廠や隣の赤羽や王子に広がる軍事関連施設は、戦時賠償の対象となり差し押さえられた。
そののち、物資や工作機械などの処分が終わった建物などは、占領軍の施設として利用され、様々な機関が置かれるようになった。そして、それらの地域のことを、GHQでは”イタバシ”と総称していたらしい。

その地域の一つ、「ASA」と呼ばれた地区(正確な場所は不明)に「米軍保安司令部」は置かれた。後に「極東陸軍保安司令部」となり、「極東陸軍地図局」とともに、現在は北区立中央公園文化センターとして使われている白亜の建物に移ることになる。

さて、「米軍保安司令部の秘密機関」に関して、もう一人、重要な人物がいる。
それが、旧陸軍軍人の河辺虎四郎である。以下、人物紹介。

「河辺虎四郎(かわべ とらしろう、1890年-1960年)は、富山県出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校24期生、陸軍大学校33期を恩賜で卒業。1938年ドイツ駐在武 官、39年参謀本部付、40年第 7 飛行団長、41年防衛総参謀長・航空本部総務部長、43年第 2 飛行師団長・第 2 航空軍司令官、45年 4 月参謀次長で敗戦を迎え、連合国と会談するため主席代表としてマニラに赴く。」

河辺元中将は、日本が終戦を迎える時、最初に連合国側と直接接触した人間だ。

昭和20年8月17日、東久邇宮稔彦王を首班とする内閣が成立した。同日、ポツダム宣言受諾を前提に、停戦を実施するためアメリカ政府から日本政府に宛て、連合国最高司令官が作成する降伏文書を受理することに関し、十分な権限を有する使者(複数)を連合国最高司令官の許へ派遣することを命ずる通告文が伝達された。次いで同日、日本軍の戦闘の即時停止が命ぜられ、日本政府からの使者は、フィリピンマニラ市にある連合国最高司令部へ派遣するよう命じられた。

使節の代表者は、陸軍中将で陸軍参謀本部次長である河辺虎四郎に決まり、8月18日、「聯合軍最高指揮官ノ指定スル地點ニ出張スヘシ」とする命令が大本営から下される。それに伴い、随員として、外務省から岡崎勝男(調査局長)外1名、陸軍から天野正一(少将、参謀本部作戦課長)外6名、海軍から横山一郎(少将、軍令部出仕)外6名が命ぜられた。

こうして、マニラ使節を乗せた一式陸上攻撃機2機(無武装にして、白塗にした胴体と両翼に日の丸を塗りつぶして緑十字のマークを描く)は、8月19日午前7時18分に木更津飛行場を離陸し、沖縄の伊江島で米陸軍の輸送機に乗り換えて、同日午後5時54分(マニラ時間)にマニラに到着、午後8時30分マニラ市庁にあったマッカーサー司令部に出頭し、米軍の首席代表、参謀長のリチャード・サザランド中将と会議を行った。

この時、出会ったのがマッカーサーの情報参謀を務めていた、チャールズ・ウィロビー少将だった。ウィロビーはドイツ生まれのアメリカ帰化人で、駐独武官の経験がある河辺は、ウィロビーがドイツ語で話すのを知り、空港に向かう帰りの車で話しかけてみた。すると、ウィロビーは飛行機の中まで見送り、彼の方から握手を求めてきた。
終戦から1カ月余りたった9月、有末精三元中将とともに宿舎の帝国ホテルにウィロビーを訪ねて夕食を共にする。

間もなくして旧軍の参謀本部は解散され、陸軍の巨大組織は解体された。そして、軍籍のなくなった河辺を拾ったのがウィロビーだったのである。その時、彼はGHQの参謀第2部 (G2) 部長として諜報・保安・検閲を管轄していた。 

ウィロビーは、首相の吉田茂から紹介された辰巳(イギリス大使であった当時に陸軍武官を務め、戦後は吉田首相の軍事顧問をしていた。)を使い、全国から対敵諜報部隊(CIC)が集めた秘密情報の検証を続けてきた。ウィロビーは情報の吟味と所見を辰巳一人に頼っていた。辰巳はまた、吉田茂の要請により首相軍事顧問としてG2との連絡役も務めていた。

しかし、米軍が集める不穏分子に関する情報は日ごとに増えていき、とうとう辰巳一人では手に余るようになった。そこで、何らかの組織が必要であることを感じていたウィロビーは、G2直轄の情報機関をつくるよう辰巳に提案し、懇意であった河辺と合流させ、昭和22(1947)年の秋、「イタバシ」で”河辺機関”をスタートさせたのである。

”河辺機関”は、河辺を中心に元陸相の下村定、有末元中将、そして辰巳が主要幹部になり、有能な元将校に声をかけて組織を固めた。機密解除されたCIA文書によると、辰巳らはこの「イタバシ」に置かれた保安司令部で5つの部屋を使って活動を開始した。もちろん、活動資金も米軍から支給された。

河辺機関の存在は、ウィロビー少将の要請で一切極秘にされた。中軸となる辰巳に対して、少将はとくに「この機関については、吉田総理にも一切、話してくれるな」との注文がついた。辰巳は極秘とはいえ吉田の軍事顧問であり、同時に、河辺機関の一員として「2つの顔」を持つことになったのである。

秘密機関の任務は、全国の治安状況の把握とシベリアからの引き揚げ者による共産主義活動の情報収集である。もし、機関の存在が明るみに出ると、左右の不穏分子から非難、襲撃の標的になる可能性があった。冷戦の広がりは占領下の日本にも着実に忍び寄り、GHQはシベリア抑留者が洗脳されていないかに神経をとがらせていた。

ところが、河辺機関は、ウィロビーによる日本の”赤化”阻止のための機関として発足したが、辰巳の狙いは、実は他にあった。それは、占領国である日本を、再び独立国家として自立させることを目指し、さらに、日本の再軍備の推進機関となることを目論んでいたのである。

運良く?その機会は、すぐにやってきた。それが、「朝鮮戦争開戦」だった。

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争において、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させることとなった。その時点で日本駐留陸軍部隊は第8軍の4個師団であり、九州駐留の第24歩兵師団は直ちに移動を開始した。その後、7月上旬には第8軍全部隊が朝鮮半島に移動することとなり、日本における防衛兵力・治安維持兵力が存在しないこととなった。

辰巳は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国に CIA を通じて情報を流すことで、米国が吉田首相に軽武装路線から重武装化への転換を迫ることを密かに期待していた。

7月8日、マッカーサー元帥は吉田茂首相に対し、「日本警察力の増強に関する書簡」を提示した。この書簡においては、「事変・暴動等に備える治安警察隊」として、75,000名の「National Police Reserve」の創設が要望されていた。
これは、アメリカが第2次大戦前にフィリピンで創設していたフィリピン警察軍や、アメリカ軍政庁統治下の南朝鮮で創設していた南朝鮮国防警備隊のような対反乱作戦部隊と同等のものとして想定していた。1950年8月10日、警察予備隊令は公布される。

警察予備隊は、朝鮮半島に出動した在日米軍の任務を引き継ぐものとして創設されており、朝鮮戦争開戦時において在日米軍が行なっていた任務がほとんど治安維持のみであったことから、当初は軽装備の治安部隊に近いものとして構想されていた。しかし朝鮮戦争の戦況悪化、ことに11月25日の中国人民志願軍参戦を受けて、マッカーサーは、自由主義陣営が極東において共産主義陣営とまさに対峙しつつあるという危機感を強め、警察予備隊を重武装化する方針を示した。

吉田首相は、辰巳を信頼し、警察予備隊の幹部人選などを任せた。CIA は、1956年11月26日付文書で「CIA が使う上でおそらく最高で、最も安全で、最も信頼できる 人物の一人」と辰巳を評価していた。
河辺機関へのGHQからの援助は1952年で終了した。そこで、機関の要員たちは1952年10月15日に警察予備隊を改編して発足した保安隊(後の自衛隊)に潜り込まされたのである。

1951年9月、警察予備隊の第1連隊が久里浜の基地から、東京都内の練馬北町に新たに置かれた基地へ移動してきた。この場所は、かつて旧陸軍第一造兵廠の倉庫があった所である。
河辺機関の存在した「イタバシ」と関係する土地に基地が置かれたのは、決して偶然のことではないのかもしれない。


安倍晋三首相は憲法記念日の5月3日、平和主義を定めた憲法9条を2020年までに改正し、自衛隊の存在を明文化する考えを示した。

70年前、CIAが「イタバシ」に作った河辺機関が、その真の狙いとしていた独立国家建設への悲願として掲げた日本の再軍備への思いは、現在まで脈々と流れているのだろうか。

*この記事は、湯浅博著・「歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一」を参考/引用しております。

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板橋区民、映画「ハクソー・リッジ」を鑑賞する。

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 いけない。
「このハゲーーーーーーッ!!ちーがーうーだーろー!!」のトランス状フレーズが頭から離れない‥

なんかこの雌叫びが近くから聞こえてくる気がする‥と思ったら、当の豊田議員は我が赤塚郷のお隣、新座郡を本拠地とする議員さんではないか。新座といえば最近でも、練馬区に居住しながら新座に虚偽居住して総バッシングを受けたタレント出身女性議員がいましたね。新座は歴史ある土地なのだが、なんで強力なジモピー議員とかいないのかなあ、と思うのだが急激な開発で新住民が圧倒的な勢力になっているのかな。

6月23日は、「沖縄戦慰霊の日」だ。1945年のこの日、沖縄において行われていた日本軍による組織的戦闘が終了した。もう少し正確に書くと、「日本の沖縄守備軍最高指揮官たる第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将が、摩文仁の軍司令部で自決。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。」という日である。

板橋区から出征した兵士のうち、どのくらいの人たちが沖縄戦に参加したのかは不明だが、我が赤塚郷徳丸にある、板橋区指定の文化財「粕谷家住宅」の跡取りになるはずであった粕谷正三大尉が出征し、海軍司令部壕の近くで壮烈な戦死を遂げている。(当ブログ記事・イタバシクミンカクタタカエリ。〜かふして古民家は残った〜 参照)


さて、昨日24日から、沖縄戦を描いた映画「ハクソー・リッジ」が全国で公開された。これは、米軍側がハクソー・リッジと呼んだ、那覇近くの首里地区防衛に関して特に重要な地位を占めていた、断崖絶壁の前田高地をめぐる戦いを描いた戦争娯楽映画だ。

映画は、太平洋戦争の沖縄戦に衛生兵として従軍したデズモンド・T・ドスの実体験を描いており、デズモンドは敬虔なキリスト教徒であり、沖縄戦で多くの人命を救ったことから、「良心的兵役拒否者」として初めて名誉勲章が与えられた人物である。

監督はメル・ギブソンだし、全世界公開の娯楽映画なので期待はせずに、それでも今年の第89回アカデミー賞において録音賞と編集賞を受賞したし、楽しみに初日の板橋イオンシネマ2番スクリーンへ出向いた。

わかっていたことだが、我が日本兵はただのゾンビ描写で、後から後から湧いてくる不気味な異星人であり、主人公らを英雄化するため、殺戮しても良心の呵責を生まない、ものすごく強力な化け物として描かれている。(戦闘シーンの迫力は認めますが。)

こう書くとなんでしたが、本映画の狙いは、「汝、殺すことなかれ」という教えを大切にしてきた主人公が、「衛生兵であれば自分も国に尽くすことができる」と陸軍に志願するが、自分の信仰心に基づき絶対に銃を持たない、人を殺さない、という信念を曲げず、それが「人を殺すことを目的とした軍隊」に参加するという矛盾を描いており、映画の大半はこの問題の描写に費やされている。

そんな理想だけで現実の過酷な戦場へやってきた主人公が、まさに超人的な働きをするのが後半の前田高地攻防戦のシーンなのだが、まあ、なかなかがんばっている。衛生兵は武器を持っていない、という先入観があるので、主人公の行動がキテレツな感じには見えないのだ。(ただし、主人公の超人な体力と弾除け能力の高さが映画的だけど。)

まっ、ラスト近くで不覚にも少し感動しましたので、鑑賞しても損した気持ちにはならないと思います。戦闘の迫力はありますが、兵器や戦場のあれこれを楽しみたいマニアには物足りないかも、です。


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衝撃!赤塚郷は練馬区だった。(かも)〜練馬区独立展始まる〜

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 知り合いの板橋区の重鎮から、都議会議員選挙の直筆メッセージ付き支援依頼ハガキが届いた。こんなことは以前にはなかったことなので、今回はよほど危機感を抱いているのだろう。

思えば、選挙権を得てから初めて投票に行ったのは、自民党を飛び出て新自由クラブを立ち上げた人へ投票した時だったかな。。あろうことかその勇ましい議員は舌の根も乾かぬうちに元の鞘に戻り、大いに失望したものだ。その時以来、政治家は心からは信じられないと思うようになった。理由はあるにせよ。

今回の選挙も、自民党もちょっとなーだが都民ファーストもなーといった感じだ。例の怪文書氏も出馬の”スジ”が悪いような気がするし、他の政党は言わずもながですが、さてどうするか。


ちょっと日にちが経ってしまいましたが、先週末24日から石神井ふるさと文化館にて始まった「独立70周年 練馬区誕生への軌跡」特別展を見てきた。

館内には練馬区の独立旗や独立を祝う横断幕が立ち並び、巨大な凱旋門をくぐって会場に入ると、ひな壇では音楽隊がファンファーレを高らかに鳴らし、手に手に”祝!独立”の文字を染めた提灯をもった老若男女の行列が闊歩している。そんな風景を想像していたが、‥そんなこともありませんでした。

いささか拍子抜けしながら粛々と会場内へ進むと、まずは、現況の練馬区の各地域の有史以来の歴史解説から始まっていた。
村の起こり、神社仏閣、支配の変遷、農村のありよう、維新後の教育、産業の発展などなど練馬区の”歴史を振り返る”展示が続く。

明治に入って北豊島郡が誕生し、さて1932年(昭和7年)、独立騒動の発端となった「大板橋区」が誕生する。

本題の展示の性質上、どうしても”紙”資料が多く、一見地味なのだがさにあらず、東京都公文書館が厳重に所蔵保管している重要文化財に指定されている東京都の公文書の原本が、ずらりと並べられており、それはもう圧巻だ。これぞ”ザ・一次資料”ってやつだ。幾多の災害や戦火から逃れ、よくぞ今日まで残ったものだと感動する。


さて、「大板橋区帝国」の誕生だけれど、帝国誕生に反対する檄文は、前回紹介した「板橋区役所位置設定期成同盟会」を開いた町村の大会における決議文のみで、そもそも、そもそも(二度繰り返すが)板橋区に所属すること自体は反対ではなく、”単に区役所の位置が気に入らない”、とのことでしかないようだ。今回の展示で「板橋区編入反対」の公文書が出てくるのかと思ったが、拍子抜けであった。

この区役所位置反対決議文を提出した町村の地図が展示してあったが、現況の板橋区で決議文を提出したのは、我が赤塚郷と上板橋村のみだった。まっ、距離的な不便さは練馬区とは変わらないと言うことですね。

結論を書いてしまうと、他の区と比べて「大板橋区」の面積が大きかったのは”人口”のバランスの問題であり、板橋町を除いて他は純農村地帯で極端に人口が少なかったせいもあったようだ。それが戦争を挟み、郊外への人口の移動が進み行政上の不便が生じたために独立へ向かった、とのオチとなるようです。


それにしても、決議文に参加した赤塚郷と上板橋村はなぜこの時、練馬区に入らず板橋区に残ったのか。この謎は解明されていない。
昨年末、人気グループだったSMAPが解散し、各メンバーの去就が注目されていたが、最初からジャニーズ事務所に残るキムタクは別とし、稲垣、草薙、香取各人は事務所を離れることになった。しかし、リーダーであった中居クンは批判されることを覚悟で、結局は事務所に残る決断をしたと噂されている。それがどう上のことと関係があるのか説明できないが、ふとそのことが浮かんだのである。

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