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板橋区民、その後の人生を語る。〜グラント・ハイツ黎明期番外編〜

 今年のG.W.も終わってしまいました。なんだかもう夏といった感じですね。いまから176年前は、高島秋帆先生が赤塚郷の松月院に本陣を置いて、徳丸原調練お披露目の準備をしていたころですか。(現代の暦では6月下旬ですが。)

さて、グラント・ハイツ黎明期についての持ちネタは、前回まででほぼ出し尽くしてしまった。
そこで今回は、これまでに登場した、ヒュー John ケーシー少将、ヒュー Boyd ケーシー中尉、TMGCのウィリアム J. ヒーサー Jr. 中尉それぞれの、G.H.にかかわった後の人生について語ってみる。


まずはケーシー少将から。


254117_2ケーシー少将は、日本が降伏した後、マッカーサー元帥とともにGHQ本部がある第一生命ビルに入り、工兵隊のChief Engineer(技師長)を務めていた。オフィスは、1946年4月に三菱商事ビルへ移動している。彼は、GHQ参謀本部の工兵隊トップではあったが、米国陸軍工兵隊のトップではなかった。前任者のユージン・レイボルド中将が1949年2月28日に退役すると、トップの座に立候補するが、マッカーサーを好まなかったトルーマン大統領は、マ元帥の副官であったケーシー少将を退け、ホイーラー中将を後任に指名した。出世の道を閉ざされたケーシー少将は、この年、12月31日をもって陸軍を退役し、日本を去った。
帰国したケーシー少将は、1953年から1955年までニューヨーク市交通局の会長を務め、1951年から1965年にかけて、アルコールメーカーのシェンレイ・インダストリー社に勤めた。1981年8月30日、バーモント州のホワイト・リバー・ジャンクションの退役軍人病院にて、心臓発作で死去した。


ヒュー Boyd ケーシー中尉その後。


Camp_casey_2ここでは、ケーシー中尉がケーシー少将の息子であるとの前提で話を進めます。
ケーシー中尉の存在が進駐軍電話帳上に認められるのは1947年2月号からだ。所属は第584建設部隊。電話帳では1948年7月1日号まで確認出来るが、同年10月1日号以降は不明である。グラント・ハイツの竣工は48年6月であり、その後は朝鮮内に置かれた占領軍家族住宅の建設に携わった可能性がある。朝鮮戦争時、戦後を見通して北朝鮮に置く予定であった極東司令部の任務を遂行するため、日本経由で派遣された第3歩兵師団第7歩兵連隊に所属し、北朝鮮の元山に移動。1952年1月11日、韓国38度線近くの東豆川市(トン・ドゥ・チョン)付近にて、搭乗していた陸軍機が墜落して死亡した。その後、亡くなった地点に近い米軍基地は、ケーシー大佐(死後昇進)の名を冠し、Camp Caseyと命名され今も存在している。アーリントン墓地にてケーシ少将の墓と並んで眠っている。

ウィリアム j.ヒーサー中尉その後。


Wheaserヒーサー中尉は、最近まで存命であったが、2014年12月28日にウィスコンシン州で脳卒中にて亡くなった。

日本進駐後は第八軍の軍政府で司令官の副官や、民間情報教育局で教育責任者を務めていた。電話帳には1947年5月&6月号から記載が認められ、1948年7月以降はグラント・ハイツに居住していた。日本滞在は2年ほどだったようで、その後、カナダのフィートン砲兵学校でミサイルの研究を行い、パトリオットミサイルを開発した米陸軍研究開発司令部のミサイル局長を務めた。1953年には国連司令官として朝鮮戦争停戦の実施に努めた。また、キューバミサイル危機の際は陸軍のアドバイザーとして、ロバート・ケネディ司法長官にしばしば助言をした。
1974年に大佐で米軍を退役し、故郷のミネソタ州ミネイスカ市に戻り市議会議員となり、後には市長となった。

こうして、三者三様の人生を全うされたわけだけれど、職業軍人であったがための人生だなあと感じる。朝鮮戦争で戦死した士官クラスは大勢いるけれど、なぜケーシー中尉の名がキャンプ名に冠されたのか、父親の影響なのであろうか。。
意外だったのはヒーサー中尉が数年前までご存命であったことで、存命中に気がついていればお会いできる機会もあったかもしれず、残念なことでした。


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コメント

ゴールデンウィーク誕生がなんと下赤塚に関係していた、という驚愕の事実を知ったのはこのブログでしたが、グラントハイツと啓志線をめぐるヒュー・ジョン・ケーシー工兵少将の記述からマッカーサー元帥が朝鮮戦争が始まる前から既にトルーマン大統領から疎まれていた、という事実(歴史を知ってる人なら常識なのかも知れませんが)に触れることになるとは思いませんでした。このブログの板橋とその周辺地域から出発した壮大なクロニクル、となるダイナミックな展開には毎度驚かされます。
自分の住んでる場所が、そんな大きな構図の中の一点に含まれる、と指摘されると景色を見る目も変わってくるのが不思議です。
登場人物のその後、というのがなんだか映画アメリカングラフティのラストのようです。

投稿: ブルー | 2017年5月10日 (水) 10時09分

>>ブルーさま
いつもコメントをありがとうございます。
ケーシー少将退役の話は、他にもいろいろな要因があったことと思います。G.H.建設にも関わってはおりましたが、それも彼の膨大な仕事の案件のうちの一つであったにすぎないでしょう。それぞれの人物が、自分に課せられた責任を果した人生であったのだと、あらためて感じております。

投稿: | 2017年5月10日 (水) 22時25分

いつも凄いです。

投稿: 三郎太 | 2017年5月16日 (火) 23時18分

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