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⭐️祝!!501回記念⭐️〜本田宗一郎と赤塚郷〜

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 前回、めでたく記事UP500回を迎えました。これからも精進を続けますので、どうぞご贔屓に願います。

さて、記念すべき501回目の記事は、あのHonda創業者、伝説の人・本田宗一郎を取り上げます。

”板橋は、清水かつらに続き本田宗一郎まで盗むのか?”

‥そんな声が埼玉の方から聞こえて来る。。

”特許とか、商標権とか取ってるんか?別にかまへんやろ。(なぜか関西弁)”

では、始めます。

「本田技研工業株式会社は、東京都港区に本社を置く日本の輸送機器及び機械工業メーカーであり、四輪車では、2015年度では、販売台数において世界第7位であり、二輪車では、販売台数、売上規模ともに世界首位であり、船外機では、販売台数において世界第4位である。

自動車部品等を製造する東海精機株式会社を創業者の本田 宗一郎が株式会社豊田自動織機に売却した。その資金を元手に1946年(昭和21年)本田技術研究所として開設され、内燃機関および各種工作機械の製造、ならびに研究を開始。1947年(昭和22年)にはA型自転車用補助動力エンジンを開発した。 1948年(昭和23年)に本田技研工業株式会社として設立する。1949年(昭和24年)に藤沢武夫を経営パートナーとして迎え、以降、技術の本田宗一郎と経営の藤沢武夫による2人3脚の経営が始まる。」(以上、ウィキペディアより引用)

ホンダ・カブ号F型は、1952(昭和27)年に発売された自転車用補助エンジンだ。1949年から発売しているホンダ・ドリーム号は好調に売れており、製造には十条の小さな工場だけでは手狭であった。そこで、1952年3月、埼玉県大和町白子(現在ニトリがある白子川対岸近く)にある、かつての軍需工場の購入を決めた。あちこちが傷み、天井から雨もりするほど老朽した建物だったが、手を入れればすぐに使えそうな機械も残っていたことが大きかった。

1952年5月、購入からわずか二か月後に、本田技研白子工場は稼動を開始した。翌6月には、カブF型千五百台を初出荷。追加注文が全国から続々と舞い込み、たちまち生産が追いつかない状態となった。そこで、1953年、現在の和光工場の敷地を購入した。

ところが、その直後から、全国の自転車販売店で人気を独占していたカブが、売れ行き不振となった。原因は市販の自転車が各々、規格の違うことから、後輪の脇にエンジンを取りつけてきた方法が、自転車によってはエンジンがずれるという欠陥が露呈した。その間隙をぬって、競争メーカーは自転車の三角パイプの中に置く新型エンジンを開発。しかも、ホンダの構築・整備した自転車販売店のネットワークに乗せて売り出したためである。それに追い打ちをかけたのが、スクーター「ジュノオ」の不振。これはエンジンをポリエステルで覆ったために、オーバーヒートしたこと。車輪が小さい割に、総重量が重く取り扱いに不便との悪評に拠った。そこへ、4億5千万円をかけた工作機械などの支払いや、膨大な新工場の建設費が待ちうけており、追い打ちかけるように、マスコミが"ホンダ"の危機説を書き立てた。ホンダは絶体絶命の危機に追い詰められていた。

1954年春、大和町のとある居酒屋で、本田宗一郎と専務の藤沢武夫はいくどとなく酒を酌み交わし、いかに倒産の危機を乗り越えるのかの相談を交わしていたと言う。このころの宗一郎は、大和町の新工場にかかりきりで、中央区に置いた本社にはほとんど顔を出さなかった。

‥ようやく長いフリが終わった。

当時、本田宗一郎が常宿としていたのが、成増のすずらん通りにあった「武蔵旅館」だったのだ。

「武蔵旅館」は、川越街道から成増駅南口ロータリーへ曲がる道に面した三井住友銀行の横道である、すずらん通りの入り口、銀行の裏側(現在、駐車場)の場所にあった。

戦前のこと、「武蔵旅館」は料理屋だったが、Mさんという方が買い取り、旅館の経営を始めた。全国から行商に来る種屋とか薬屋が常宿とし、賑わっていたという。戦時中になると、成増飛行場に駐屯する部隊の指定旅館となり、特攻隊の兵士たちの慰問場所にもなった。(この記事は以前、書きましたね。)

戦後は、グラントハイツ関係の人たちにも利用されたが、行商の人々の利用が減り、旅館はOさんという方へ譲渡された。その後、本田宗一郎が常宿していたことをきっかけに、本田製作所の指定旅館となり、たいそう繁盛したのだそうだ。

本田宗一郎氏は、きっと滞在していた成増でも、夜な夜な飲み歩いていたのではないだろうか。そして、常宿としていた「武蔵旅館」で寝床に入り、世界的な大企業となる夢を見ていたのだろう‥


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コメント

お久しぶりです。
この度は本田宗一郎氏の話で、興味深く読ませていただきました。
本田宗一郎氏といえば、私が小学生低学年の頃に会った事があります。

近所に本田宗一郎氏の社長秘書をやっていた女性の家があり(今もあります)、宗一郎氏が運転して、秘書のお姉さんを送ってきた事がありました。

西徳通りがまだ砂利道の頃、その白い外車は砂煙を上げて走って来ました。草野球をしていた近所の子供が、その外車に集まったのは、言うまでもありません。一人の子供が「オジサン、この車なに?」と言うと、運転席から降りてきた人は、「ジャガーと言うイギリスの車だよ。」「今度、オジサンのところでも自動車を作るんだ。大きくなったら買ってね。」
この人が本田宗一郎氏だったとは、半世紀近くの時間を経て、7年程前に知りました。
社長秘書だったお姉さんは、70歳を越えた頃にその話をして、数年前に他界いたしました。

宗一郎氏に二度目に会った時は、「朝霞に遊園地が出来たので、遊びにおいで。」と入場券をもらった記憶があります。

いまでは、遠い夏の日の懐かしい出来事です。

投稿: ひでぼう | 2017年5月25日 (木) 17時16分

>>ひでぼうさま
いつもコメントをありがとうございます。大変興味深い思い出話しですね。あの本田宗一郎氏が徳丸の砂利道をジャガーを運転して走っていた、なんてことがあったとは。
朝霞テックについてはいつか記事にしようと考えておりますので、しばしお持ちください。

投稿: | 2017年5月25日 (木) 22時22分

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