第三の男、ウィリアム J. ヒーサー Jr. feat. 584th E.C.G.。~グラント・ハイツ黎明期探訪 #5~
さて前回は‥「運輸省 東京地方施設部」が昭和22年8月27日〜昭和22年12月15日の間、成増工事区を置いていた、という話で終わりましたね。
この「成増工事区」が啓志線と関わりがあるか?なぜこの期間なのか?それが疑問な点でした。
丁度その時期に、GHQと日本側グラント・ハイツ建設当局とのやりとりを示した公文書が見つかっている。それが冒頭の画像だ。
公文書のタイトルは「Narimasu Railroad Spur」とある。
差出人は、ウィリアム J. ヒーサー Jr 中尉。この人物は、一体どういう立場の人なのだろうか。
そこで、進駐軍電話帳(1947年10月&12月号)を調べると、Heaser,W.J. Jr. Lt. MGと載っている。
MGはMILITARY GOVERNMENT(第八軍・軍団軍政部)を指す。そこで軍組織の電話帳を調べると、東京軍政部の民間情報教育局に在籍していることがわかった。
今度は、ヒーサー中尉がどんな経歴の持ち主なのかを調べてみた。
William J. Heaser、Jr. は、1920年8月29日、ミネソタ州ミネイスカ市に生まれた。1938年にウィノナ高校を卒業、1942年にはミネソタ大学を優秀な成績で卒業した。1942年7月に軍隊へ入隊し、1943年4月に現役任務に就いた。そしてノースカロライナ州キャンプデービスでOCS(士官候補生学校)に入学し、1944年5月2日に少尉に任官した。太平洋戦争終了後、東京軍政部で司令官の副官や、教育責任者を務めた。ヒーサー中尉が電話帳上で確認できるのは1947年5月からだ。
ここで、冒頭の公文書へ話を戻す。文書の日本語訳が以下となる。
東京神奈川地区軍政部東京分遣隊 1947年9月15日
東京財務局長宛 成増鉄道線路促進について
1、L.T.O.第1420別紙申請書は却下する。
2、当司令部の管理統制下にある施設の此の部分は賠償施設の保管地域である。残余に関しては軍政部に属する責任に於いて1947年2月27日第八軍司令部取扱命令28/14に規定された如く最終的に解放されるものである。
3、関係地域は成増個人住宅保護に関し責任ある占領部隊の監督の下に戦災復興院によって使用されている。
4、鉄道線路促進に関する事項は是等の団体と決議する様示唆する。
司令官代理 副官 歩兵中尉 ウィリアム J. ヒーサー
‥うーん、一見では意味がわからない。何かの案件の一部なので、内容が不明だ。おまけに、略号がふんだんに使われているので、部外者にはさっぱりだ。
署名の下に補足があるので読み取ってみる。
1.申請書、東京財務局、”旧東京第一造兵廠、練馬倉庫の一部地域における配電工事”1947年8月25日&LTO第1420別紙
2.書類、第3鉄道輸送司令部、”成増旅客促進について”1947年8月8日
3.地図
‥う〜む、おそらく練馬倉庫地域に関するやりとりなんだろうなあ。。もう少し調査の時間をください。
ところで気になるのは、「成増鉄道線路促進について」と「成増旅客促進について」の部分だ。”「東工」 90年のあゆみ”にも成増線新設という事が出てきますね。GHQ側が”Narimasu Railroad”と呼ぶので運輸省側も直訳で成増線と呼んでいたのでしょうか。
池袋ーグラントハイツ間の旅客車運行については、鉄道誌他で書かれており、「国鉄から10両のガソリンカーを借り入れ、2両連結で30分おきに運行されていた。」という話が定説(東武鉄道社史出典)となっている。
旧国鉄が保管していた資料「気動車配置表」によると、昭和22年8月1日現在〜昭和23年2月1日現在までの期間、運輸省の上野部我孫子区に所属している6両(キハ41017、キハ41053、キハ41066、キハ41087、キハ41501、キハ41126)の気動車が、東上線用として転用されていたことがわかる。
旅客車運行期間については様々な説があるようだが、「第3鉄道輸送司令部、”成増旅客促進について”1947年8月8日」の時期と被るので、1947年8月から1948年2月までの期間、気動車は運用されていたのではないか、と思う。ただし、”成増旅客促進”が池袋ーグラントハイツ間の旅客輸送を指しているかどうかはわからないですが。
気動車の借り入れも、30分間隔で2両連結、直通運転なら20分かからないであろう、たかだか10キロ程度の距離を往復運用するのに、10両・5編成もの車両を必要とするのか?と前から疑問に思っていたので、6両・3編成の方がすっきりする。同時刻に池袋、G.H.両駅を出発し、練馬倉庫か上板橋ですれ違えば2編成で済み、もう1編成は予備とすれば合理的と思うのだが‥。だいたいさ、池袋駅にホームは増やせないわけだし、30分間隔で発車するのに5編成運用はやっぱりおかしい。(しつこいぞ。)
占領が開始された1945年9月から1943年まで、占領軍の日本統治システムは目まぐるしく変わっていった。その変化の様子をわかりやすく説明する能力が当ブログには無いので省略するけれど、グラント・ハイツ建設と啓志線に密接に関わってくるのは”物資の調達”問題だ。
ヒーサー中尉の所属するMG(MILITARY GOVERNMENT)は、GHQの下で実務的に働いた第八軍の中に置かれた軍政部で、占領した国の統治や経済の実務を一手に引き受けていた。”物資の調達や補給”もその任務の一つで、それには輸送も含まれている。それらの組織の中で、1947年1月から鉄道輸送のすべてを仕切ったのが、「第3鉄道輸送司令部」だった。
「第3鉄道輸送司令部」とは。
3rd Transportation Military Railway Service(MRS)
横浜に司令部を置いた、GHQの参謀本部下の第八軍に属する一般鉄道輸送、進駐軍の輸送、日本人の復員輸送等を統括した部門。MRSは、札幌、仙台、横浜、京都、博多の5地区司令部(DTO)から全国230カ所に設置された鉄道輸送事務所(Railway Transportation Office/RTO)へ命令を伝えた。1950年1月からは8010th TMRSと改称した。
*RTOはグラント・ハイツ駅にも設置されていた。
では、なぜ唐突にヒーサー中尉が現れたのだろうか。それは、上のなんだかよくまとまっていない説明から理解していただきたいのだが、彼はMGの民間情報教育局に在籍しているけれど、同時に司令官の副官として、物資調達関連の業務も兼任していたのではないか、と考察して見た。
う〜む、どうもしっくりしないかな?もう少し調査の時間をください。
昭和22年秋、グラント・ハイツ建設を監督していた、584th E.C.G.のセクション内でも組織の変更が行われたようだ。
あれ、新たに「Grant Hts, Housing Section」なんてものが増えてる。
そりゃそうですね。あんな広大な敷地に短期間で街を造るんだから、専用チームができるのは当たり前だ。誰だよ、まるでケーシー中尉一人が監督したみたいな話を書く奴は。
まっ、そんなことはさておき、代々木に建設していたワシントンハイツが1947年9月に竣工したので、人員が増加したのだろう。
と、まあこんな状態で今回の話をまとめなきゃならないのですが、”物資調達”関係は、第八軍の軍政府が仕切っており、その東京担当がヒーサー中尉であったこと、グラント・ハイツ建設作業チーム側がケーシー中尉だった、ということなんでしょう。
ちなみに、1948年7月の電話帳によると、ヒーサー中尉はグラント・ハイツの71-Cという住宅におり、同年10月1日の電話帳では722-Aの住宅に移っている。
啓志線の謎は、まだまだ終わらない。‥(再び資料探索の旅に出るので、これにて一旦休止します。)
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