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2017年4月

板橋区民、晋山式を拝見する。

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 今日、東京で桜の満開が宣言された。でも感覚的にはまだ7分咲きといった感じだ。


そんな穏やかな日和の下、我が赤塚郷の古刹、萬吉山宝持寺松月院にて晋山式が行われた。

「晋山式」とは。

晋山式というのは、各寺院において新たに住職となった僧が、その寺院に晋む(=進む)ことです。禅宗寺院は多く山間部にあって山号(=○○山)を持ち、そして、寺院を山ともいうため、「山に晋む式」と書いて「晋山式」としています。

簡単にいえば、住職交代式ということで、元々は「乗り込み晋山」といって、外部から招聘されて、その日当日に初めて各寺院に入ることをいいましたが、最近では、大概、副住職や徒弟として、その寺院に住んでいながら準備を進めて、その山内で内移りをする略法を採っています。

晋山式(次第)

晋山式は下の作法によって行われる。

・三門法語
新命方丈様が三門(山門)に到着になると、香を焚いて仏道に契った言葉(法語といいます)を唱えて、この三門をくぐる事への見識を述べます。

・大擂上殿
三門をくぐると、出迎えに来た僧侶に導かれて、太鼓が打ち響く中を本堂に入ります。

・仏殿法語
本堂の中央に祀られている本尊に、新任住職として挨拶を行います。

・土地堂法語
仏法と各寺院の建物を護持する神である招宝七郎大権修理菩薩の前にて、寺院の繁栄と檀信徒の家内安全や諸縁の吉祥ならんことを祈ります。

・祖堂法語
中国に禅の教えを伝えた達磨大師に法語を唱えます。

・開山堂法語
高祖道元禅師・太祖瑩山禅師・各寺院の開山・歴代の住職の尊像や位牌が祀られる堂に入り、挨拶します。

・拠室
各殿堂での行持が終わると、新命方丈は初めて自室である方丈の間に入ります。

・視篆
寺院に伝わる数々の印鑑を受け取ると、印刻を確認し、実際に署名捺印する儀式を行います。


晋山式は、住職の交代式なので、そうそう行われることではなく、松月院ではおそらく平成に入って初めてのことだろう。
その晋山式に花を添えるため、松月院とは縁の深い、我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会が、新住職が門より境内に入場される午後1時に、礼砲を撃ってお迎えする大役を務めた。

境内では様々な種類の桜の花がほころび、晋山式の前に行われる”稚児行列”に参加する、煌びやかな衣装に身を包んだ稚児たちであふれ、まぶしい程であった。

昨年度、松月院境内に大正時代に建立された、大砲をかたどった高島秋帆顕彰碑が、板橋区の文化財に指定された。
碑の立つ場所は、天保12年(1841年)5月9日に徳丸原で日本で初めて披露された、西洋式の砲術演習を行った高島流の鉄砲隊が本陣を置いていたところだ。

来年は、御一新から150年の記念の年。徳丸原に轟いた大砲の音は、新しい時代の引き金を引いたものとして、後世に伝えてゆくべきものだと思う。

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その男、ヒュー B. ケーシー。 〜グラント・ハイツ黎明期探訪 #3〜

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 さて、いよいよグラント・ハイツ建設の段に入ります。

前回までの記事で、グラント・ハイツ建設は、GHQの命令により計画された「DEPENDENTS HOUSING/(DH)」プロジェクトの中の一つであったことが理解できたかと思います。そのトップにいたのが、ヒューJ.ケーシー少将でした。

DHの建設プランや設計は、エンジニア・グループに属するデザイン・ブランチ内のチームにより策定され、建設現場の監督を担当したのが、第八軍(U.S. Eighth Army)のエンジニア・グループでした。第八軍には隷下の建設部隊がいくつか所属し、そのうち、東京地区を担当していたのが、「584th Engineer Construction Group」だった。

ここで、グラント・ハイツ(当初は”Narimasu Housing Project”と呼ばれていた。)建設開始時のころの584th Engineer Groupの人員配置を、進駐軍電話帳1947年5月&6月号から抜粋してみる。(タイプするのが面倒なので画像を貼ります。)

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もう、わかっちゃいましたね。”Dependent Housing ; Lt. H.B.Caseyと、堂々記載されています。

DEPENDENTS HOUSINGのプロジェクトは、建設すべての資金や資材、人員を日本側が負担する、との命令で行われ、連合軍側からは少数の人員しか工事現場へは派遣されなかった。現場では日本人監督のもと、入札で資格を得た業者がそれぞれ担当地区の工事をおこなった。その工事の進行や施工後の確認を担当したのが、ヒュー B. ケーシー中尉だったのだ。


‥あぁ、スッキリした。(本当かよ?)

って、これだけじゃあ時間かけて調べた甲斐もないのでもう少し続けますね。


グラント・ハイツの建設は、1947年5月1日着工、1948年8月10日竣工の予定で始まった。それ以前の4月1日から道路の工事が始まったが、5月9日になって突然、砂利道をコンクリート舗装にせよとの指示がなされ、その図面の到着を待ったが届けられたのが5月15日であったり、急に道路の基準高が変更され、せっかく施工した工事部分を除去しなくてはならなかったりと、混乱が生じた。このようなことは汚水処理場工事や貯水槽工事など至る所で起こり、そのたびに工期の予定は遅れていくのであった。

こうした状況の中で工事は進められたが、ほぼ予定通りの期日でグラント・ハイツの建設は完成を見たのである。

敷地面積は約600.000坪、この敷地に住宅を1260戸、ほかに、礼拝堂、劇場、クラブハウス、小学校、中学校、PX、診療所、給油所、自動車修理所、変電所、電話交換室、汽罐室、消防署、日本人使用宿舎、管理事務所、家具倉庫、兵士用住宅、食堂、野球場などの施設が建設された。これに芝生の造園が400.000坪あり、工費は約25億円、延べ280万人の労働者が投入された。

建設工事に関する資料の中に、興味深い記述があった。

それは、戦勝国であり占領軍であるGHQから派遣された現場監督者と、日本の現場建設業者との軋轢である。

占領当初の時期、設営工事現場の監督は、各都道府県が各自独自の立場より監督監視を行っていた。また、占領軍側も現場監督員を工事現場に派遣して設営工事にあたっていたので、軍と政府の二重で監督が行われていた。

軍側の監督は、主として文官、特に米国籍を有する日本人二世三世が多く、軍人の立場で派遣されたのは、大規模な工事以外では、技術下士官や兵隊が工事現場に派遣されることがあった。彼らの中には戦勝国として、なんでも敗戦国へ要求できるというような意識を持ったものが少なからずおり、日本側の監督と衝突することは日常茶飯事だった。

軍と業者の間に立つ日本政府の監督官は、法規、習慣の相違、言語の相違からくる意思疎通の不足、無理な竣工期限などから数多くのトラブルに遭い、時には軍側の監督官から脅迫されることもあったという。

成増の現場でも、こんなことがあった。

『成増地区DH建設工事の中で、○○工業が施工した分にその進捗率55%程度の時、日本側監督官から見ればやや劣ると思われる程度の出来栄えであるのに対して、軍側監督将校K中尉は請負業者の組織の貧弱、監督員の未熟、工事遂行不満足等を理由として請負業者の変更を日本側に命じ、新規の業者が代わって請負い、残りの工事を完遂したが、これは当時業界で評判になったK中尉の「成増裁判」の一端を示すものである。』(占領軍調達史より)

この”K中尉の「成増裁判」”は当時有名だったようで、国会の審議上でも報告されたことがあった。

昭和37年3月に開催された第013回国会決算委員会第13号にて「昭和24年度の終戰処理事業費等決算」が議題に上がり、終戰処理事業費等の決算批難事項についての審議が行われた。

その折の議事録に、当時のやり取りが速記でそのまま残されているので紹介するが、要約すると、グラント・ハイツ建設の際のボイラー工事に於いて、米軍が作った設計では、コンクリートひとつとっても米側の規格と日本側の規格が異なり、日本の劣悪な品質のコンクリートでは要求を満たす施工が出来ないことや、その他工法の違いによるトラブルや、工事業者が相乱れて突貫作業を行うことで杜撰な工事が行われ、後にやり直し工事を行い、当初見積もりより大幅に予算がかかったことの責任を追及するという審議だった。

読むのが面倒かもしれないが、議事録の一部をそのまま載せる。

○田中一君 22年頃の工事として無論先ほど池口君のほうから話があつたように、材料というものが非常に惡かつたということは間違いないことであります、同時にその点は先ずアメリカで設計を……、私はその当時のことを考えますのに、アメリカの進駐軍が相当強くあなたがたにすべてアメリカ式な、例えば日本の漁度なり、日本の雨量なりを考えずにやつたことが多かつたのではないかと考えるのです。無論アメリカはアメリカの持つているところのセメントならセメントの性能を基準にしてものを押し付けた。従つてそのような同じようなことを、トラツブの問題にしても同じようなことを、アメリカはアメリカの現在使つておるような資材の性能を最初に前提として、或いは設計を強いたとか、計画を強いたというような点があつたのではないかと思うのでありますが、その点どうなんですか。

○政府委員(池口凌君) これは非常に実情に適したお言葉を頂きましたのですが、設計その他につきましては、十分当方からも日本の実情、雨量の実情等を申したのでありますが、十分聞き入れられない点がありまして、時間的に非常に制約されまして、この工事のよく我々の仲間で話が出るのでありますが、成増裁判と言いまして、毎日のように定期的に工事の進捗状況を非常に厳格にされたというようなことでありまして、我々のほうも意見は持つておりましたにもかかわらず聞入れられなかつたことも多うございましたし、又時間的にも十分我々のほうにも研究ができなかつた点もあろうと思いますし、その点につきましては非常に残念で申訳ないことだと思つております。

では、文中に登場する軍側監督将校K中尉、とは誰なのか?

上で解説したように、建設現場へはごく少数のGHQ監督官しか派遣されなかった。監督官は日本人二世三世や下士官や兵が多かったが、大規模な現場へは技術将校が派遣された。
成増の現場へ派遣されたのは、技術将校・H.B.ケーシー中尉である。推測ではあるけど、「Casey」は日本語読みローマ字で表記すると「Keishi」となる。なのでおそらくこのK中尉は、ケーシ中尉を指すと見てよいのではないだろうか。

一般に、最短で中尉という階級に進級するのは、年齢的に20代前半からだ。そんな若造が、終戦直後の、ついこの間まで戦っていた相手国の荒くれた現場へ派遣されれば、なめられちゃいかんと高圧的な態度に出るのは想像に難くない。しかも、工兵部隊で技術系の勉強をしてきたエリート技術将校ならば、現場でただ怒鳴り散らすのではなく、”成増裁判”と揶揄されるような、理詰めで厳格で過酷な作業を強いたという人物像が浮かんでくる。
だからこそ、度々の設計変更や工事の遅れをものともせず、当初の計画通りにグラント・ハイツが竣工できたのではないだろうか。

‥春眠のまどろみの中で、こんな夢を見た。

連合軍最高司令官、マッカーサーの副官であった陸軍工兵隊出身のケーシー少将は、司令官とともに敗戦直後の日本の土を踏んだ。

GHQの置かれた第一生命ビルに落ち着いたケーシー少将は、工兵隊最高責任者の一人として、日本全国へ進駐する兵士たちの割り振りに忙殺される日々を送っていた。そのなかで、ふと浮かぶ心配事があった。それは、少尉任官学校を出てすぐに、日本軍の組織的戦闘が終わりゲリラ戦となったフィリピン戦線に送り込まれていた、息子のボイド・ケーシーのことであった。

年が明け、ようやく息子のいる部隊が日本へ進駐してくることになった。ケーシー少将は、自分と同じ陸軍工兵隊の道に進んだ息子を、早く一人前の技術将校に育てたかった。そこで、自らが手がける「占領軍住宅」建設のプロジェクトに参加させようと、工事の中でも最大規模である、成増住宅建設の現場監督に抜擢した。

ケーシー中尉は、父親の期待にこたえようと、言葉も法規も習慣も違う成増の現場で孤軍奮闘し、ついに、予定通り事業を成し遂げることができた。完成した住宅地は、二人と同じ陸軍で、アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領となった、ユリシーズ・S・グラント将軍の名を冠し、「グラント・ハイツ」と命名された。

それから約30年の時が経ち、日本へ返還された「グラント・ハイツ」は、都内でも有数の人気を誇る高層住宅地、「光が丘団地」へと生まれ変わった。広々とした空間に快適な生活環境を備えた、憧れの街である光が丘。それは、前身となった「グラント・ハイツ」がなければ、存在し得なかったものだ。そして、その建設の物語は、ケーシー父子、ふたりの物語でもあったのだ。


おしまい。


上の物話は、エイプリールフールの夢であり、ただの妄想に過ぎないのでコピペしないように。H.B.ケーシーが、H.J.ケーシーの息子であるヒュー・ボイド・ケーシーという証拠は、まだ確認できていない。


これが、現在までにわかったことである。

ん?それで結局、啓志線のことはどうなったんだ?こんだけ引っ張って、何も触れないつもりか?


‥はいはい、それではお待たせしました。次回、祝!練馬区誕生70周年記念・「啓志線の運んだ夢。」をお送りします!!乞うご期待!?

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板橋区民、我は行く。

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 今回は、息抜き回です。

花曇りな空模様な中、板橋区民は桜が満開な半蔵門ちかくの国立劇場へ向かった。「谷村新司」コンサートに参加するためである。

思えば、初めて谷村サンのコンサートを見たのは、今から40年以上前だったか、一つ年上のちょっとおませな従兄弟が深夜放送が好きでよく谷村新司のセイ・ヤングを聴いていており、新宿厚生年金会館でのラジオイベントに出演するので行かないか、と誘ってくれたのだ。

確か、”今はもう誰も”が出る前で、”あじさい”がヒットしつつあったころだったかと思う。「アリス」としての出演ではなく、単独で数曲歌ったのか記憶が薄れていてよく思い出せない。その頃の谷村サンは髪を肩まで伸ばし、薄いサングラスをかけた兄ちゃんだった。

その次は‥「君の瞳は一万ボルト」が大ヒットした頃の武道館だったかなあ。人気絶頂のころだった。

人気ニューミュージック・グループ「アリス」は1981年に活動を休止、谷村サンはソロ活動に入った。アルバムはリリースするたびに購入していたけれど、コンサートに行くまでのことはなかった。

ソロでの初めてコンサートを見たのは、1990年代、青山劇場で連続コンサートをしていた時代だったか、あとは日生劇場とか東京国際フォーラムA、といろいろ足を運んだ。しかし、2011年の地震をきっかけとして、しばらく遠ざかっていたのだ。

それが、なんのきっかけかふと思い出し、今年はコンサートをやっているのかなあとネットを探すと、ちょうど国立劇場で4月にやるというのでチケットを買ったのだ。出足が遅かったので後方の席だったが、初めて行く国立劇場大ホールは板橋区民ホールより奥行きはなく、後方の席でもステージ上の谷村サンの表情が肉眼でわかるくらいの距離だった。ステージまで30メートルくらいかな。

会場は、満員大盛況だった。谷村サンは団塊真っ只中世代なので、お客さんはすでにおじさんおばさんを越え、じいさんばあさん世代が大集合だ。

開演時刻を15分過ぎて、コンサートは始った。客席後方花道からの登場だ。みんな盛り上がるが誰も立つ人はいない。
1曲目はなんと!「セーラー服と機関銃」、じゃなかった来生たかおの「夢の途中」、2曲目は吉田拓郎の「落葉」と、自分の持ち歌からではなかった。これは、4月5日から発売された、谷村新司 45周年記念アルバム「STANDARD ~呼吸(いき)~」がコンセプトのコンサートで、アルバムは3枚構成、1枚目は自分の持ち歌セレクト、2枚目はアリスセレクト、3枚目が他人のリスペクト曲セレクトから成るものであった。続けて井上陽水の「少年時代」を歌ったあとは、谷村サンオリジナル曲で進んだが、アリス時代の曲は1曲も(定番のチャンピオンすら)歌わなかった。それは、なんと、近々、アリス再々再復活の予定があるからとのことらしい。

う〜むさすが谷村サン、声量声質、まったく衰えていない。独特の立ち姿も昔のままだ。コンサートの中盤、スペシャルゲストが登場した。それはなんと山口百恵&三浦友和夫婦の息子、三浦祐太朗クンであった。これは意表で会場中がびっくりぽん(古い)だった。そしてなんと、百恵ちゃんに提供した「いい日旅立ち」を、谷村サンとデュエットしたのであった。三浦祐太朗クンの歌声はなかなかなもので、熱唱は谷村サンに決して負けていなかった。

終盤の盛り上がりはもちろん「昴」。我は行く心のままに、永遠の名曲である。

アンコール曲は自分としては初めて体験する曲、「サクラサク」。3年前にリリースされたので知らなかったが、常連ファンにはおなじみで、全員総立ちの大盛り上がりであった。すごいなあ。今の若者たちは、じいさんばあさんは何を楽しみに生きているのか理解できないだろうけど、団塊さんたちのミュージックシーンは今の楽曲とダイレクトに繋がる世代なので、動きは鈍いけど若者のノリと変わりはしないのだ。

いや〜久しぶりのコンサートは良かった。心が晴れ晴れとした。明日から頑張れそうな気がしてきた。

冒頭の劇場前の写真、偶然、迎えの黒塗り車に乗り込む竹中平蔵さんの姿が写っていた。竹中さんも筋金入りの谷村新司ファンである。

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板橋区民、ごめんなさいする。~グラント・ハイツ黎明期探訪 #4~

 ごめんなさい。‥最初から謝っておく。

今回のグラント・ハイツ黎明期探訪は、啓志線の謎を解明する!、と予告していた。

うん、実は「謎は解明できなかったんだ。」 ごめんなさい。仏の顔もって言うしね、
謝って許してもらおうとも思っていない。

でも、前回の予告タイトルを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。

殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい、そう思って
あんなタイトルにして見たんだ。

じゃあ、言い訳をしようか‥

啓志線について残された一次資料は、数点の公文書と若干の写真や地図があるだけで、あとは鉄道系の雑誌に載った記事か、練馬区が出している本や当時を知る人が語った証言を元にした記録だけだ。

啓志線は、戦時中に練馬北町西方に置かれた陸軍第一造兵廠の倉庫地へ向け、物資を集積したり輸送するため、東上線の上板橋駅から分岐する側線を引いたのが始まりだ。
戦争が終わり、倉庫地は、旧成増陸軍飛行場跡地に占領軍住宅地が建設される際の資材置き場となり、そこから建設現場まで線路を延長して物資の輸送を行った。住宅完成初期の頃には、数ヶ月ほどではあったが池袋駅往復の旅客車の運行をしたり、1951年に自衛隊の前身である警察予備隊が倉庫跡地に駐屯を始め、地方で演習を行う時の兵員輸送に線路が使われたりした。その後、1957年に休止、1959年に路線が廃止となった。

‥こんだけわかってるならいいじゃん。

と、シロウトさんは言うだろうが、マニアはそれを許さない。

最初に練馬倉庫まで敷設された時期の特定、工事期間、工事部隊、勤労奉仕はあったのか?、グラント・ハイツ建設現場までの延長工事の時期、工事は誰が行ったのか?、旅客駅はどこに設置されたのか?、旅客の場合乗車料金はかかったのか?‥etc。

と、知りたいことは尽きない。

そんなことは、情報をまとめたサイトとか本が昔からあるじゃん。まあ、その通りだけれど、出典があやふやで、複数の情報を集めて照合すると違ったことが書かれていたりと、話の整合性に疑問が持たれる場合が多々ある。

例えば、ちょっと前の記事に書いた啓志線の開業時期についてだが、東武鉄道の社史では「昭和21年3月」となっている。これがおお元となって、鉄道雑誌系ではほとんどが「昭和21年3月」説となっている。私もそうだ(った。)。所が、練馬区から出ている本では「昭和22年3月」となっているので、練馬区本を参考にした物は「昭和22年3月」説で書かれている。

グラント・ハイツ建設開始の時期は、昭和22年4月(何の工事をもって始めとするか、で若干見解は分かれるが。)で情報はほぼ一致しているので、間違いはない。資材輸送のための線路延長工事は突貫工事で行われた、とのことで3月上旬から工事が始まったとしても矛盾しないので、昭和22年3月啓志線開業説は信憑性が高い。

じゃあなんで当ブログでは昭和21年3月説を採っていたかというと、旧成増飛行場跡地開墾事業が、川越街道側の東西補助滑走路部分(現在の赤塚新町あたり)から始まっていたのと同時期に、グラント・ハイツ建設工事資材運び込みが始まっていたんじゃないのか、と考えていたからだ。GHQによる占領軍家族住宅建設計画が、昭和21年始めから本格的に動き出していたのがその根拠だった。

しかし、今回の記事を書くにあたって新たな資料を探したり、過去に仕入れておいた資料を見直すと、啓志線の建設時期は、「昭和22年3月」説に軍配が上がるのでは、と思うようになった。それは、占領軍家族住宅建設の具体的な動きを追うと、グラント・ハイツ建設着手以前にはワシントンハイツの大工事などがあり、昭和21年3月時点では資材確保の余裕がまだなかったのではないか、と言うこと。それと、戦時中、練馬倉庫に集積されていた軍事物資が戦時賠償の対象として差し押さえられており、その処置に時間がかかった、というのが理由だ。

次に、「啓志線の名前の由来」に行きましょう。


名前の由来の初出典は、昭和50年台後半に、練馬区の郷土史の会による地元古老との座談会の中で語られた証言で、現在の光が丘公園内に残る屋敷林の持ち主だった方が話した、「線路建設監督の若い中尉の名前から啓志線と呼ばれるようになった。」との発言が定説となっていた。

それから数十年経ち、インターネットが身近なものとなると、世界中の情報を検索できるようになった。そこで啓志線の当て字の元となった人物名、「Casey」と検索すると、「Hugh J. Casey少将」という人物が浮かんでくる。経歴を見るとマッカーサーの副官で、占領時代に工兵隊の司令官としてGHQにいた人物、ということがわかる。そこで、ケーシー少将が啓志線の名前の由来となったのだ、という説が広がり、それが混乱の伏線となった。

その頃、公文書館で Lt. Hugh B.Casey との署名があるGHQの公文書を数枚見つけ、内容も練馬倉庫の扱いについてのことが書かれているので、古老の証言通り、ケーシー中尉が存在していたことは確信していた。ただし、グラント・ハイツ建設との関わりがあるのかどうかまではわからず、始めたばかりの頃の当ブログ上で、ケーシー中尉は実在している、とその事実のみを伝えていた。(この時、ケーシー少将には、ボイド・ケーシーという息子がいたこともわかっていた。)

さらに時が経ち、ネット上の情報量も大幅に増え、多少知恵もついたので、改めて探ってみた結果、ケーシー中尉がグラント・ハイツ建設の現場監督であったこと、ケーシー少将がグラント・ハイツを含む「占領軍住宅」建設プロジェクトの総責任者だったことが確認できたのである。

だから、啓志線の愛称は古老の証言にあった通り、「線路建設監督の若い中尉の名前から啓志線と呼ばれるようになった。」で、正しいと思う。

おそらく、全国にいくつか存在していたであろう占領期に作られた側線の中で、現場監督の名前が付けられた路線は啓志線だけだろう。今までなんとなく、現場監督に愛着というか、敬意を払ってなのか、それとも新たな支配者に媚を売るために付けられた名称なのか、と想像していたけど、”成増裁判”などと揶揄されるような鬼監督だったケーシー中尉を忘れないために、「啓志線」の名前を残したのではないか、と今は感じている。

ところで、「啓志線」は正式名称ではなく、あくまで”愛称”だ。地図などには昭和40年代まで啓志線と表記しているものもあるが、正式名称ではない。名称がなければ公文書などに記載できないので、何がしかの名前があったのだろうが、よくわからない。終戦直後には戦災復興院練馬倉庫線と呼ばれていたこともあったようだが、昭和26年の東上線のダイヤグラムには、G.H.線と表記があり、上板橋駅ー練馬倉庫駅ーグラントハイツ駅と書いてある。それと、こんな沿線案内も残っている。

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以上から、グラント・ハイツ命名後は、グラントハイツ線と呼ぶのが正式に近いのだろう。


啓志線開業時については、日本国有鉄道総裁室外務部が昭和32年に出版した、「鉄道終戦処理史」という本に、興味深い記述があるので引用してみる。(誤字はそのまま)

「グランド・ハイツは、東京都の責任の下に、元日本陸軍成増飛行場跡に建設され、2千戸の宿舎を中心にこれに附随する諸設備を持ち、家族宿舎中最も大規模で代表的なものであった。
資材の輸送は、昭和21年8月頃から戦災復興院練馬倉庫専用線あてに徐々に行われていた。(同年中の輸送数量651車8528トン)。しかし、輸送が活発となつたのは、翌22年3月末、同専用線が工事現場まで延長されてからである。また、この専用線のほか近接の上板橋、上板橋、成増、志木等の各駅においても取卸が行われた。
省社連絡駅である池袋駅の構内は狭く、かつ授受には電車本線上下4本を横断しなければならなかったので、臨時列車はすべて下板橋駅で通し運転し、ここで列車の分割、組成替え等を行い、車線の機関車により専用線構内へ入線せしめた。かくして昭和22年秋頃は、1日約200両の到着をみたが、東京都・請負業社・鉄道間の連繋が非常に緊密で、荷役・小運搬・配車等も円滑に行われ、天候その他の原因から多少の混乱はあったが、輸送は比較的順調に行われた。」

以上の内容は、これまで見てきた資料の中で、一番信憑性が高いものと思っている。

次、行きます。


さて、GHQ側の現場監督がケーシー中尉ということはわかった。では、実際に線路敷設工事を担当したのはどこなのであろうか。
明確な記録が見つかっていないので詳細は不明だが、最初に敷かれた練馬倉庫までの線路は戦時中の軍用側線なので、陸軍の鉄道連隊なのだろうか?

戦後のグラントハイツまでの路線は、東武鉄道社史などから、「日本国有鉄道新橋工事区」が工事を行った、と長年定説とされてきた。しかしである。マニアとしては常識から疑ってかからねばならない。

まず、工事の行われたであろう昭和22年3月現在、「日本国有鉄道」という名称や組織は存在していない。”国鉄”の誕生は昭和24年6月1日からだ。じゃあ鉄道省かというと、これも違う。鉄道省だったのは昭和18年10月30日までで、それ以降は、「運輸通信省」(鉄道省と逓信省が合併したもの)と呼ばれた。「運輸通信省」は昭和20年5月19日からは「運輸省」に変わる。ただし、一般の利用者は国鉄に変わるまで昔通り、”省線”と呼んでいた。

国鉄時代まで、首都圏の鉄道施設の改良、新設工事などの計画や施工を担当していたのは、「東京第一工事局(東工)」である。啓志線敷設工事のころは、「運輸省 東京地方施設部」という名称だった。実は、都営三田線(都営6号線)の工事を担当したのも、東工だ。

<「東工」90年のあゆみ>という社史に、こんな記述を見つけた。


「池袋地区改良:工期 昭和21〜昭和24 池袋出張所を設け戦災復旧、成増線新設、池袋駅改良、池袋電車区検修庫増設、田端操配線変更等を施行した。池袋駅は成増線連結跨線橋を新設し、自駅改良として山手内外ホーム間の連絡地下道を閉鎖し、東口に通ずる幅8mの跨線橋を新設した。」

成増線新設‥これは何を指すのだろう?啓志線の延長工事のことなのか??

東工では、規模の大きい工事をするとき、近隣の駅に「工事区」を置いた。本部、または建設事務所といった所だろうか。社史には、各年代ごとの「工事区」の設置状況を表にしたものが載っているが、啓志線工事のころ、「新橋工事区」は見当たらなかった。

なんだよ、あの定説は。日本国有鉄道も無けりゃあ新橋工事区も存在しないじゃん。

なんて、マニアが上から目線で物を言うような発言はイケナイですね。東武鉄道の社史が編纂された時代には、すでに国鉄という名称が浸透しており、ついそう呼んでしまったんでしょう。戦前は「省線」、戦後は「国鉄」、平成になってからは「JR」。これが一般の認識だろう。それにしても、「新橋工事区」はどこから来た話なのか‥

ところが。

工事区の一覧表に、「成増工事区」との記載があるではないか!‥しかし、設置期間は昭和22年8月27日〜昭和22年12月15日、となっている。これでは設置時期の意味がわからない。この時、すでに啓志線は存在している。普通は、池袋駅とか新宿駅とか運輸省(国鉄)の駅に工事区は置かれるので、それが”成増”ということは啓志線であることに間違いないだろう。‥謎だ‥闇は深い‥。


‥そろそろ紙数が尽きてきた。次回は、いよいよ啓志線開設のさらなる深淵を覗いてみることにする。果たして、謎は今度こそクリアとなるか否か!?


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第三の男、ウィリアム J. ヒーサー Jr. feat. 584th E.C.G.。~グラント・ハイツ黎明期探訪 #5~

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 さて前回は‥「運輸省 東京地方施設部」が昭和22年8月27日〜昭和22年12月15日の間、成増工事区を置いていた、という話で終わりましたね。

この「成増工事区」が啓志線と関わりがあるか?なぜこの期間なのか?それが疑問な点でした。

丁度その時期に、GHQと日本側グラント・ハイツ建設当局とのやりとりを示した公文書が見つかっている。それが冒頭の画像だ。
公文書のタイトルは「Narimasu Railroad Spur」とある。
差出人は、ウィリアム J. ヒーサー Jr 中尉。この人物は、一体どういう立場の人なのだろうか。

そこで、進駐軍電話帳(1947年10月&12月号)を調べると、Heaser,W.J. Jr. Lt. MGと載っている。
MGMILITARY GOVERNMENT(第八軍・軍団軍政部)を指す。そこで軍組織の電話帳を調べると、東京軍政部の民間情報教育局に在籍していることがわかった。

今度は、ヒーサー中尉がどんな経歴の持ち主なのかを調べてみた。

William J. Heaser、Jr. は、1920年8月29日、ミネソタ州ミネイスカ市に生まれた。1938年にウィノナ高校を卒業、1942年にはミネソタ大学を優秀な成績で卒業した。1942年7月に軍隊へ入隊し、1943年4月に現役任務に就いた。そしてノースカロライナ州キャンプデービスでOCS(士官候補生学校)に入学し、1944年5月2日に少尉に任官した。太平洋戦争終了後、東京軍政部で司令官の副官や、教育責任者を務めた。ヒーサー中尉が電話帳上で確認できるのは1947年5月からだ。

ここで、冒頭の公文書へ話を戻す。文書の日本語訳が以下となる。


東京神奈川地区軍政部東京分遣隊 1947年9月15日

東京財務局長宛 成増鉄道線路促進について

1、L.T.O.第1420別紙申請書は却下する。
2、当司令部の管理統制下にある施設の此の部分は賠償施設の保管地域である。残余に関しては軍政部に属する責任に於いて1947年2月27日第八軍司令部取扱命令28/14に規定された如く最終的に解放されるものである。
3、関係地域は成増個人住宅保護に関し責任ある占領部隊の監督の下に戦災復興院によって使用されている。
4、鉄道線路促進に関する事項は是等の団体と決議する様示唆する。

司令官代理 副官 歩兵中尉 ウィリアム J. ヒーサー

‥うーん、一見では意味がわからない。何かの案件の一部なので、内容が不明だ。おまけに、略号がふんだんに使われているので、部外者にはさっぱりだ。

署名の下に補足があるので読み取ってみる。

1.申請書、東京財務局、”旧東京第一造兵廠、練馬倉庫の一部地域における配電工事”1947年8月25日&LTO第1420別紙
2.書類、第3鉄道輸送司令部、”成増旅客促進について”1947年8月8日
3.地図

‥う〜む、おそらく練馬倉庫地域に関するやりとりなんだろうなあ。。もう少し調査の時間をください。


ところで気になるのは、「成増鉄道線路促進について」と「成増旅客促進について」の部分だ。”「東工」 90年のあゆみ”にも成増線新設という事が出てきますね。GHQ側が”Narimasu Railroad”と呼ぶので運輸省側も直訳で成増線と呼んでいたのでしょうか。

池袋ーグラントハイツ間の旅客車運行については、鉄道誌他で書かれており、「国鉄から10両のガソリンカーを借り入れ、2両連結で30分おきに運行されていた。」という話が定説(東武鉄道社史出典)となっている。

旧国鉄が保管していた資料「気動車配置表」によると、昭和22年8月1日現在〜昭和23年2月1日現在までの期間、運輸省の上野部我孫子区に所属している6両(キハ41017、キハ41053、キハ41066、キハ41087、キハ41501、キハ41126)の気動車が、東上線用として転用されていたことがわかる。

旅客車運行期間については様々な説があるようだが、「第3鉄道輸送司令部、”成増旅客促進について”1947年8月8日」の時期と被るので、1947年8月から1948年2月までの期間、気動車は運用されていたのではないか、と思う。ただし、”成増旅客促進”が池袋ーグラントハイツ間の旅客輸送を指しているかどうかはわからないですが。

気動車の借り入れも、30分間隔で2両連結、直通運転なら20分かからないであろう、たかだか10キロ程度の距離を往復運用するのに、10両・5編成もの車両を必要とするのか?と前から疑問に思っていたので、6両・3編成の方がすっきりする。同時刻に池袋、G.H.両駅を出発し、練馬倉庫か上板橋ですれ違えば2編成で済み、もう1編成は予備とすれば合理的と思うのだが‥。だいたいさ、池袋駅にホームは増やせないわけだし、30分間隔で発車するのに5編成運用はやっぱりおかしい。(しつこいぞ。)

占領が開始された1945年9月から1943年まで、占領軍の日本統治システムは目まぐるしく変わっていった。その変化の様子をわかりやすく説明する能力が当ブログには無いので省略するけれど、グラント・ハイツ建設と啓志線に密接に関わってくるのは”物資の調達”問題だ。

ヒーサー中尉の所属するMG(MILITARY GOVERNMENT)は、GHQの下で実務的に働いた第八軍の中に置かれた軍政部で、占領した国の統治や経済の実務を一手に引き受けていた。”物資の調達や補給”もその任務の一つで、それには輸送も含まれている。それらの組織の中で、1947年1月から鉄道輸送のすべてを仕切ったのが、「第3鉄道輸送司令部」だった。

第3鉄道輸送司令部」とは。
3rd Transportation Military Railway Service(MRS)

横浜に司令部を置いた、GHQの参謀本部下の第八軍に属する一般鉄道輸送、進駐軍の輸送、日本人の復員輸送等を統括した部門。MRSは、札幌、仙台、横浜、京都、博多の5地区司令部(DTO)から全国230カ所に設置された鉄道輸送事務所(Railway Transportation Office/RTO)へ命令を伝えた。1950年1月からは8010th TMRSと改称した。
*RTOはグラント・ハイツ駅にも設置されていた。


では、なぜ唐突にヒーサー中尉が現れたのだろうか。それは、上のなんだかよくまとまっていない説明から理解していただきたいのだが、彼はMGの民間情報教育局に在籍しているけれど、同時に司令官の副官として、物資調達関連の業務も兼任していたのではないか、と考察して見た。

う〜む、どうもしっくりしないかな?もう少し調査の時間をください。


昭和22年秋、グラント・ハイツ建設を監督していた、584th E.C.G.のセクション内でも組織の変更が行われたようだ。

1947octdes584th<進駐軍電話帳1947年10月&12月号>


あれ、新たに「Grant Hts, Housing Section」なんてものが増えてる。

そりゃそうですね。あんな広大な敷地に短期間で街を造るんだから、専用チームができるのは当たり前だ。誰だよ、まるでケーシー中尉一人が監督したみたいな話を書く奴は。

まっ、そんなことはさておき、代々木に建設していたワシントンハイツが1947年9月に竣工したので、人員が増加したのだろう。


と、まあこんな状態で今回の話をまとめなきゃならないのですが、”物資調達”関係は、第八軍の軍政府が仕切っており、その東京担当がヒーサー中尉であったこと、グラント・ハイツ建設作業チーム側がケーシー中尉だった、ということなんでしょう。

ちなみに、1948年7月の電話帳によると、ヒーサー中尉はグラント・ハイツの71-Cという住宅におり、同年10月1日の電話帳では722-Aの住宅に移っている。


啓志線の謎は、まだまだ終わらない。‥(再び資料探索の旅に出るので、これにて一旦休止します。)


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⭐️祝!板橋区民、練馬区誕生70年を寿ぐ。⭐️〜2017年照姫まつり〜

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 今年は、練馬区が誕生して70年の記念の年だ。
そんな慶賀を祝し、我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会が練馬区より招待を受け、毎年4月に行われる「照姫まつり」の先陣として、祝砲を放つ栄誉を担うことになった。

前日夜の大雨から一転、爽やかな春の風がそよぎ、文句のつけようもない青空の下、大勢の練馬区民が見守る中、午前10時30分から、同じく招待された、赤塚梅まつりでもおなじみの八王子の鷹匠による「放鷹術」が披露され、その後、満を持しての鉄砲隊の登場だ。練馬区内で演武を披露するのは約10年ぶり、練馬自衛隊駐屯地以来である。

演武は、野球場が2面ある広々としたグラウンドで行われた。あんまり広々としていたので、発砲音の威力が効果せず、イマイチ観客の反応が悪かったけれど、この日のために初めて披露した、つるべ連写の早打ちがうまくいき、大きな拍手をいただいていた。

午後からは、毎年恒例の、照姫を先頭にした石神井公園から石神井駅往復のパレードが粛々と行われ、天気に恵まれたせいもあってか、ものすごい数の観客が集まり大盛況だった。

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それにしても‥なぜ練馬区は練馬区誕生70年とは言わず、”練馬区独立70年”と宣伝するのであろうか。1947年、練馬区が板橋区から分離して出来たのは事実なのだけれど、これではまるで過去板橋区が練馬区域を占領、併合していたような印象ではないか。練馬は植民地となり、戸籍も板橋区と書き換えられ、住民たちは搾取や差別に苦しめられたが、ついに自分たちが独立を勝ち取った‥なんて歴史を経験してきたと思っているのだろうか?

区内には”独立70年”を記念する旗が町中に翻っており、練馬区と接する地域に住む板橋区民は、さぞかし国境気分を味わっていることだろう。そういえば今月上旬に練馬駐屯地で軍事、いや、訓練展示パレードがあったっけ。東上線から川越街道までは非武装地帯で、有事の際は川越街道は254号ラインと呼ばれ防衛線が張られるのだろうか。(写真は川越街道を行進する練馬区独立記念パレード戦車隊<嘘>)
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このままでは、成増飛行場を造るために練馬の農民は土地を取り上げられ、徴用による強制労働を強いられたとか、成増に設けられた慰安所で広義の強制により慰安婦にされた練馬の婦女子が、などと喧伝され、いまに強制労働を象徴する少年像、慰安婦を象徴する少女像が建てられやしないかと危惧する。ん?なんかそんな像が光が丘図書館の近くにあったような‥まさか!?

‥まっ、そんな冗談話はともかく、旧板橋区が誕生したのは1932年のこと、東京市35区となった時だ。それまでは、板橋町と北豊島郡だった。

旧板橋区が誕生した経緯と、戦後練馬区が分離した時の経緯については調べたことがないので事情は知らないけれど、おそらく、練馬区域は純農村地帯で、板橋町のような大きな旧宿場もなく、地元に有力な郡議会議員がいなかったため、板橋に飲み込まれてしまったのだと想像している。我が赤塚郷にしても、板橋町方面は遠く、江戸時代から宿場の助郷などで苦しめられていたので板橋区として組み込まれるのは、あまりいい気はしていなかったかもしれない。

練馬区誕生の経過については、この夏に石神井公園ふるさと文化館にて、企画展「独立70周年―練馬区誕生への軌跡」が開催されるので、その真相があきらかになるだろう。その時を楽しみに待ちたい。


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板橋区民、アリーナを行く。〜One On One at 武道館〜





また、いやついにこの日が来た。
サーポールマッカートニーの武道館コンサート。

あれから2年、ロックのレジェンドが舞台に立つ姿をまた見れるとは‥
しかも今回はアリーナ席からの参加だ(端だけど)。
それでは、いざ参戦‼︎


だいぶ端だがドームのアリーナに比べればましさ!



よし!特別チケットも手に入ったぞ。



開演予定は6時半だけど、外タレは時間が押すのが当たり前、この間なんか始まったのが8時過ぎていた。辛抱、いや楽しみに待つべし。

開演予定時刻になったが始まる気配は全くなし。座席は埋まってますが。

場内はウェーブも始まり盛り上がってきたがまだまだか。

今回のツアータイトルははOne On One、ポール対観客ではなく、ポールと一対一と言う意味だ。

始まった!ハーデーズナイト!

二曲目はジェット!



はぁはぁだいぶ疲れてきた。

はぁはぁっサージェントからのバックインザソ連邦!熱い

そしてヘイジュードの大合唱!



さてアンコールは何を演るのか?コールは止まらない‼︎



イェスタディ始まった‥

ああ‥ついにゴールデンスランバーか‥

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というわけで19時03分から始まったステージは21時06分に終了した。
アリーナは傾斜がないので人並みに隠れてあまりステージが見えないが、コンサートに参加している感はハンパない。

それにしても最初からエンドまでずっと立ちっぱなしはオジさんにはきつい‥それでも、ラヴミードゥとかヘイジュードとかおなじみの名曲の数々をポールと一緒に歌えたことは、最高の夜でした。


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板橋区民、アリーナを行く。・2〜One On One at 東京ドーム〜





また、来てしまった。
サーポールマッカートニー in 東京ドーム
先日の武道館に比べると、さすがに人でごった返している。

コアなファンの間では、ポール来日期間をポールデンウィークと呼ぶらしい。

さあ、本日もアリーナからの参戦だ。いざ!


さすがドームのアリーナは広い。これじゃステージは見えないなぁ。

ドーム内はすごい人でスマホの通信が激混みなので書き込みが大変だ。

開演時刻は過ぎたが全く始まる気配もない。こんだけ人が入るなら致し方なしか。



シリーラブが始まった。いよいよ来るか⁉︎

うーむまだだった。ちなみにポールのコンサートは録音録画はNGだがスマホコンデジ撮影はOKだ。



7時開演と同時に接続が落ちた。一曲目なんだったっけ、シーラブズユーは三曲目。



ウイングス特集はじまた



ビートルズ特集はじまた



はぁはぁラヴミードゥはぁはぁ

からのアンドアイラブユー

からのブラックバード


おっとここでレディマドンナ!はぁはぁ



エリナリグビーからのミスターカイト



そしてジョージに捧げるサムスィング



オブラディオブラダ大合唱からのバンドオンザラン!

そしてレットイットビー



ヘイジュード大合唱終わりアンコール待ち

アンコール、イェスタディ終わた

サージェント始また

バースデー終わりとうとうゴールデンスランバーか‥

21時35分終了ー



今回のセットリストはなんと39曲!この6月に75歳になるのにホントすごい人だ。まったく休まず歌い続ける。

アリーナは、席の位置によりステージが全然見えないなんてこともあるけれど、コンサートに参加してる感は顕著ですね。それにしても2時間半立ちっぱなしは辛いなあ〜ってポールはもっと大変か。いやはや。

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板橋区民、2階席でシャウトする。〜One On One at 東京ドーム〜





さて、ポールデンウィークも後半を迎えた。
祝日の東京ドームは物凄い人出だ。それにしても、一昨日のドームは素晴らしかった。ネットを覗いてもそんな報告が多い。
今日はどんなステージを見せてくれるのだろう、いざ、参戦!


今回は2階席からの鑑賞だ。さすがにアリーナ連チャンは疲れちゃうからね、ジックリ聴くゾ〜

と、開演予定時刻だけどまだまだ。19時開演だな。

今日は2階席だけど一番前なので遮るものナシ、最高だ。

あと5分で19時、盛り上がってきました!ハッ、へホッ!ハッハッハッへホッ!18時56分はじまた!!


いつビーナハーディない‼︎
西部アス!!
キャンバイミーラーブ‼︎



エレキの激しい曲が終わりピアノバラードへ。


お約束のどっかーん‼︎

アンコール!アンコール!

ハイハイハイ!
ハーイハーイハーイ!

ああ、、ゴールデンスランバーか‥

21時30分終了‥





ふう、3日目がおわってしまった。一昨日とはセットリストが変わったので行ってよかった。2階席は立ち上がる人や写真をばんばん撮る人もおらず、まったりと曲に聞き入ることができた。しかし後半さすがに名残惜しいのかシャウトする人が多く、なかなか盛り上がっていましたよん。

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板橋区民、1階席でLetting Go!〜One On One at 東京ドーム〜





ああ、ついにポールデンウイークも最終日となってしまった。。

まだ開場時間前なので人人人の波だ。当日券を求める列も長い。

サウンドチェックが遅れているようで入場までかかりそうだ。小腹でも満たすかな。



さて入場。本日の席は1階だけどほとんど外野席。柱で視界が遮られるしピアノ曲は全く見えない。コレハゆっくり音楽を楽しめと言うことダナ‥

DJが18時15分から始まったので19時スタートかな。

はじまた




ハーデナィつ


アイブがったフィーリン!


レディマドンナの大歓声!
パパパパーパパパパー


バーンオーンザラーンバーンオーンザラン!


ヘイジュードの大合唱サイリウムと一緒に!



アンコールはゲットバックーー‼︎

最後のゴールデンスランバー‥涙

21時35分終了〜


と言うわけで武道館を始め4回にわたるポールの東京コンサートは終わった。余韻に浸るため、下赤塚に今月新しくオープンしたホルモン居酒屋で喉を潤している。

昔書いたかもしれないが、多分ビートルズ初来日で世間が騒がしかったので覚えたのだろうが、髪の長いあんちゃんを見ると、あっビートルズだ!と指差していた自分を覚えている。

しっかりとした記憶では、小学生のころ、兄貴がいるおませな同級生が、リリースされたばかりのレットイットビーアルバムを教室に持ち込んで自慢げに見せびらかしていたことを覚えている。

ビートルズを本格的に聴き始めたのは20代の半ばからだったけど、高校の頃はポールの曲ばかり聴き、学生時代、ジョンの射殺はショックだった。あの時は長嶋監督の電撃解任と王選手の引退と重なってたっけ。

いずれも昭和の頃の話か‥

そんなサーポールマッカートニーももうすぐ75歳、間違いなく世界の音楽史上に残るレジェンドだ。そのレジェンドの人生の4日間・10時間を共用できたのは本当に誇らしいことだ。
ありがとうポール、マタアイマショウ‼︎

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