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その男、ヒュー B. ケーシー。 〜グラント・ハイツ黎明期探訪 #3〜

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 さて、いよいよグラント・ハイツ建設の段に入ります。

前回までの記事で、グラント・ハイツ建設は、GHQの命令により計画された「DEPENDENTS HOUSING/(DH)」プロジェクトの中の一つであったことが理解できたかと思います。そのトップにいたのが、ヒューJ.ケーシー少将でした。

DHの建設プランや設計は、エンジニア・グループに属するデザイン・ブランチ内のチームにより策定され、建設現場の監督を担当したのが、第八軍(U.S. Eighth Army)のエンジニア・グループでした。第八軍には隷下の建設部隊がいくつか所属し、そのうち、東京地区を担当していたのが、「584th Engineer Construction Group」だった。

ここで、グラント・ハイツ(当初は”Narimasu Housing Project”と呼ばれていた。)建設開始時のころの584th Engineer Groupの人員配置を、進駐軍電話帳1947年5月&6月号から抜粋してみる。(タイプするのが面倒なので画像を貼ります。)

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もう、わかっちゃいましたね。”Dependent Housing ; Lt. H.B.Caseyと、堂々記載されています。

DEPENDENTS HOUSINGのプロジェクトは、建設すべての資金や資材、人員を日本側が負担する、との命令で行われ、連合軍側からは少数の人員しか工事現場へは派遣されなかった。現場では日本人監督のもと、入札で資格を得た業者がそれぞれ担当地区の工事をおこなった。その工事の進行や施工後の確認を担当したのが、ヒュー B. ケーシー中尉だったのだ。


‥あぁ、スッキリした。(本当かよ?)

って、これだけじゃあ時間かけて調べた甲斐もないのでもう少し続けますね。


グラント・ハイツの建設は、1947年5月1日着工、1948年8月10日竣工の予定で始まった。それ以前の4月1日から道路の工事が始まったが、5月9日になって突然、砂利道をコンクリート舗装にせよとの指示がなされ、その図面の到着を待ったが届けられたのが5月15日であったり、急に道路の基準高が変更され、せっかく施工した工事部分を除去しなくてはならなかったりと、混乱が生じた。このようなことは汚水処理場工事や貯水槽工事など至る所で起こり、そのたびに工期の予定は遅れていくのであった。

こうした状況の中で工事は進められたが、ほぼ予定通りの期日でグラント・ハイツの建設は完成を見たのである。

敷地面積は約600.000坪、この敷地に住宅を1260戸、ほかに、礼拝堂、劇場、クラブハウス、小学校、中学校、PX、診療所、給油所、自動車修理所、変電所、電話交換室、汽罐室、消防署、日本人使用宿舎、管理事務所、家具倉庫、兵士用住宅、食堂、野球場などの施設が建設された。これに芝生の造園が400.000坪あり、工費は約25億円、延べ280万人の労働者が投入された。

建設工事に関する資料の中に、興味深い記述があった。

それは、戦勝国であり占領軍であるGHQから派遣された現場監督者と、日本の現場建設業者との軋轢である。

占領当初の時期、設営工事現場の監督は、各都道府県が各自独自の立場より監督監視を行っていた。また、占領軍側も現場監督員を工事現場に派遣して設営工事にあたっていたので、軍と政府の二重で監督が行われていた。

軍側の監督は、主として文官、特に米国籍を有する日本人二世三世が多く、軍人の立場で派遣されたのは、大規模な工事以外では、技術下士官や兵隊が工事現場に派遣されることがあった。彼らの中には戦勝国として、なんでも敗戦国へ要求できるというような意識を持ったものが少なからずおり、日本側の監督と衝突することは日常茶飯事だった。

軍と業者の間に立つ日本政府の監督官は、法規、習慣の相違、言語の相違からくる意思疎通の不足、無理な竣工期限などから数多くのトラブルに遭い、時には軍側の監督官から脅迫されることもあったという。

成増の現場でも、こんなことがあった。

『成増地区DH建設工事の中で、○○工業が施工した分にその進捗率55%程度の時、日本側監督官から見ればやや劣ると思われる程度の出来栄えであるのに対して、軍側監督将校K中尉は請負業者の組織の貧弱、監督員の未熟、工事遂行不満足等を理由として請負業者の変更を日本側に命じ、新規の業者が代わって請負い、残りの工事を完遂したが、これは当時業界で評判になったK中尉の「成増裁判」の一端を示すものである。』(占領軍調達史より)

この”K中尉の「成増裁判」”は当時有名だったようで、国会の審議上でも報告されたことがあった。

昭和37年3月に開催された第013回国会決算委員会第13号にて「昭和24年度の終戰処理事業費等決算」が議題に上がり、終戰処理事業費等の決算批難事項についての審議が行われた。

その折の議事録に、当時のやり取りが速記でそのまま残されているので紹介するが、要約すると、グラント・ハイツ建設の際のボイラー工事に於いて、米軍が作った設計では、コンクリートひとつとっても米側の規格と日本側の規格が異なり、日本の劣悪な品質のコンクリートでは要求を満たす施工が出来ないことや、その他工法の違いによるトラブルや、工事業者が相乱れて突貫作業を行うことで杜撰な工事が行われ、後にやり直し工事を行い、当初見積もりより大幅に予算がかかったことの責任を追及するという審議だった。

読むのが面倒かもしれないが、議事録の一部をそのまま載せる。

○田中一君 22年頃の工事として無論先ほど池口君のほうから話があつたように、材料というものが非常に惡かつたということは間違いないことであります、同時にその点は先ずアメリカで設計を……、私はその当時のことを考えますのに、アメリカの進駐軍が相当強くあなたがたにすべてアメリカ式な、例えば日本の漁度なり、日本の雨量なりを考えずにやつたことが多かつたのではないかと考えるのです。無論アメリカはアメリカの持つているところのセメントならセメントの性能を基準にしてものを押し付けた。従つてそのような同じようなことを、トラツブの問題にしても同じようなことを、アメリカはアメリカの現在使つておるような資材の性能を最初に前提として、或いは設計を強いたとか、計画を強いたというような点があつたのではないかと思うのでありますが、その点どうなんですか。

○政府委員(池口凌君) これは非常に実情に適したお言葉を頂きましたのですが、設計その他につきましては、十分当方からも日本の実情、雨量の実情等を申したのでありますが、十分聞き入れられない点がありまして、時間的に非常に制約されまして、この工事のよく我々の仲間で話が出るのでありますが、成増裁判と言いまして、毎日のように定期的に工事の進捗状況を非常に厳格にされたというようなことでありまして、我々のほうも意見は持つておりましたにもかかわらず聞入れられなかつたことも多うございましたし、又時間的にも十分我々のほうにも研究ができなかつた点もあろうと思いますし、その点につきましては非常に残念で申訳ないことだと思つております。

では、文中に登場する軍側監督将校K中尉、とは誰なのか?

上で解説したように、建設現場へはごく少数のGHQ監督官しか派遣されなかった。監督官は日本人二世三世や下士官や兵が多かったが、大規模な現場へは技術将校が派遣された。
成増の現場へ派遣されたのは、技術将校・H.B.ケーシー中尉である。推測ではあるけど、「Casey」は日本語読みローマ字で表記すると「Keishi」となる。なのでおそらくこのK中尉は、ケーシ中尉を指すと見てよいのではないだろうか。

一般に、最短で中尉という階級に進級するのは、年齢的に20代前半からだ。そんな若造が、終戦直後の、ついこの間まで戦っていた相手国の荒くれた現場へ派遣されれば、なめられちゃいかんと高圧的な態度に出るのは想像に難くない。しかも、工兵部隊で技術系の勉強をしてきたエリート技術将校ならば、現場でただ怒鳴り散らすのではなく、”成増裁判”と揶揄されるような、理詰めで厳格で過酷な作業を強いたという人物像が浮かんでくる。
だからこそ、度々の設計変更や工事の遅れをものともせず、当初の計画通りにグラント・ハイツが竣工できたのではないだろうか。

‥春眠のまどろみの中で、こんな夢を見た。

連合軍最高司令官、マッカーサーの副官であった陸軍工兵隊出身のケーシー少将は、司令官とともに敗戦直後の日本の土を踏んだ。

GHQの置かれた第一生命ビルに落ち着いたケーシー少将は、工兵隊最高責任者の一人として、日本全国へ進駐する兵士たちの割り振りに忙殺される日々を送っていた。そのなかで、ふと浮かぶ心配事があった。それは、少尉任官学校を出てすぐに、日本軍の組織的戦闘が終わりゲリラ戦となったフィリピン戦線に送り込まれていた、息子のボイド・ケーシーのことであった。

年が明け、ようやく息子のいる部隊が日本へ進駐してくることになった。ケーシー少将は、自分と同じ陸軍工兵隊の道に進んだ息子を、早く一人前の技術将校に育てたかった。そこで、自らが手がける「占領軍住宅」建設のプロジェクトに参加させようと、工事の中でも最大規模である、成増住宅建設の現場監督に抜擢した。

ケーシー中尉は、父親の期待にこたえようと、言葉も法規も習慣も違う成増の現場で孤軍奮闘し、ついに、予定通り事業を成し遂げることができた。完成した住宅地は、二人と同じ陸軍で、アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領となった、ユリシーズ・S・グラント将軍の名を冠し、「グラント・ハイツ」と命名された。

それから約30年の時が経ち、日本へ返還された「グラント・ハイツ」は、都内でも有数の人気を誇る高層住宅地、「光が丘団地」へと生まれ変わった。広々とした空間に快適な生活環境を備えた、憧れの街である光が丘。それは、前身となった「グラント・ハイツ」がなければ、存在し得なかったものだ。そして、その建設の物語は、ケーシー父子、ふたりの物語でもあったのだ。


おしまい。


上の物話は、エイプリールフールの夢であり、ただの妄想に過ぎないのでコピペしないように。H.B.ケーシーが、H.J.ケーシーの息子であるヒュー・ボイド・ケーシーという証拠は、まだ確認できていない。


これが、現在までにわかったことである。

ん?それで結局、啓志線のことはどうなったんだ?こんだけ引っ張って、何も触れないつもりか?


‥はいはい、それではお待たせしました。次回、祝!練馬区誕生70周年記念・「啓志線の運んだ夢。」をお送りします!!乞うご期待!?

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コメント

「成増裁判」というのが非常に面白いです。マーク・ゲインの「ニッポン日記」みたいに進駐米軍視点の占領じゃなくて、被占領側の日本側の実状という点が面白い。

投稿: ブルー | 2017年4月26日 (水) 06時38分

>>ブルーさま
コメントをありがとうございます。
私も深く調べるまで、年表を読むような俯瞰するような視点でGHの建設を見ていましたが、実際の現場ではそうとうな葛藤があったのだと知りました。まだ埋もれている資料はあるはずで、早く出会いたいものです。

投稿: | 2017年4月26日 (水) 10時18分

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