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板橋区民、ごめんなさいする。~グラント・ハイツ黎明期探訪 #4~

 ごめんなさい。‥最初から謝っておく。

今回のグラント・ハイツ黎明期探訪は、啓志線の謎を解明する!、と予告していた。

うん、実は「謎は解明できなかったんだ。」 ごめんなさい。仏の顔もって言うしね、
謝って許してもらおうとも思っていない。

でも、前回の予告タイトルを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。

殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい、そう思って
あんなタイトルにして見たんだ。

じゃあ、言い訳をしようか‥

啓志線について残された一次資料は、数点の公文書と若干の写真や地図があるだけで、あとは鉄道系の雑誌に載った記事か、練馬区が出している本や当時を知る人が語った証言を元にした記録だけだ。

啓志線は、戦時中に練馬北町西方に置かれた陸軍第一造兵廠の倉庫地へ向け、物資を集積したり輸送するため、東上線の上板橋駅から分岐する側線を引いたのが始まりだ。
戦争が終わり、倉庫地は、旧成増陸軍飛行場跡地に占領軍住宅地が建設される際の資材置き場となり、そこから建設現場まで線路を延長して物資の輸送を行った。住宅完成初期の頃には、数ヶ月ほどではあったが池袋駅往復の旅客車の運行をしたり、1951年に自衛隊の前身である警察予備隊が倉庫跡地に駐屯を始め、地方で演習を行う時の兵員輸送に線路が使われたりした。その後、1957年に休止、1959年に路線が廃止となった。

‥こんだけわかってるならいいじゃん。

と、シロウトさんは言うだろうが、マニアはそれを許さない。

最初に練馬倉庫まで敷設された時期の特定、工事期間、工事部隊、勤労奉仕はあったのか?、グラント・ハイツ建設現場までの延長工事の時期、工事は誰が行ったのか?、旅客駅はどこに設置されたのか?、旅客の場合乗車料金はかかったのか?‥etc。

と、知りたいことは尽きない。

そんなことは、情報をまとめたサイトとか本が昔からあるじゃん。まあ、その通りだけれど、出典があやふやで、複数の情報を集めて照合すると違ったことが書かれていたりと、話の整合性に疑問が持たれる場合が多々ある。

例えば、ちょっと前の記事に書いた啓志線の開業時期についてだが、東武鉄道の社史では「昭和21年3月」となっている。これがおお元となって、鉄道雑誌系ではほとんどが「昭和21年3月」説となっている。私もそうだ(った。)。所が、練馬区から出ている本では「昭和22年3月」となっているので、練馬区本を参考にした物は「昭和22年3月」説で書かれている。

グラント・ハイツ建設開始の時期は、昭和22年4月(何の工事をもって始めとするか、で若干見解は分かれるが。)で情報はほぼ一致しているので、間違いはない。資材輸送のための線路延長工事は突貫工事で行われた、とのことで3月上旬から工事が始まったとしても矛盾しないので、昭和22年3月啓志線開業説は信憑性が高い。

じゃあなんで当ブログでは昭和21年3月説を採っていたかというと、旧成増飛行場跡地開墾事業が、川越街道側の東西補助滑走路部分(現在の赤塚新町あたり)から始まっていたのと同時期に、グラント・ハイツ建設工事資材運び込みが始まっていたんじゃないのか、と考えていたからだ。GHQによる占領軍家族住宅建設計画が、昭和21年始めから本格的に動き出していたのがその根拠だった。

しかし、今回の記事を書くにあたって新たな資料を探したり、過去に仕入れておいた資料を見直すと、啓志線の建設時期は、「昭和22年3月」説に軍配が上がるのでは、と思うようになった。それは、占領軍家族住宅建設の具体的な動きを追うと、グラント・ハイツ建設着手以前にはワシントンハイツの大工事などがあり、昭和21年3月時点では資材確保の余裕がまだなかったのではないか、と言うこと。それと、戦時中、練馬倉庫に集積されていた軍事物資が戦時賠償の対象として差し押さえられており、その処置に時間がかかった、というのが理由だ。

次に、「啓志線の名前の由来」に行きましょう。


名前の由来の初出典は、昭和50年台後半に、練馬区の郷土史の会による地元古老との座談会の中で語られた証言で、現在の光が丘公園内に残る屋敷林の持ち主だった方が話した、「線路建設監督の若い中尉の名前から啓志線と呼ばれるようになった。」との発言が定説となっていた。

それから数十年経ち、インターネットが身近なものとなると、世界中の情報を検索できるようになった。そこで啓志線の当て字の元となった人物名、「Casey」と検索すると、「Hugh J. Casey少将」という人物が浮かんでくる。経歴を見るとマッカーサーの副官で、占領時代に工兵隊の司令官としてGHQにいた人物、ということがわかる。そこで、ケーシー少将が啓志線の名前の由来となったのだ、という説が広がり、それが混乱の伏線となった。

その頃、公文書館で Lt. Hugh B.Casey との署名があるGHQの公文書を数枚見つけ、内容も練馬倉庫の扱いについてのことが書かれているので、古老の証言通り、ケーシー中尉が存在していたことは確信していた。ただし、グラント・ハイツ建設との関わりがあるのかどうかまではわからず、始めたばかりの頃の当ブログ上で、ケーシー中尉は実在している、とその事実のみを伝えていた。(この時、ケーシー少将には、ボイド・ケーシーという息子がいたこともわかっていた。)

さらに時が経ち、ネット上の情報量も大幅に増え、多少知恵もついたので、改めて探ってみた結果、ケーシー中尉がグラント・ハイツ建設の現場監督であったこと、ケーシー少将がグラント・ハイツを含む「占領軍住宅」建設プロジェクトの総責任者だったことが確認できたのである。

だから、啓志線の愛称は古老の証言にあった通り、「線路建設監督の若い中尉の名前から啓志線と呼ばれるようになった。」で、正しいと思う。

おそらく、全国にいくつか存在していたであろう占領期に作られた側線の中で、現場監督の名前が付けられた路線は啓志線だけだろう。今までなんとなく、現場監督に愛着というか、敬意を払ってなのか、それとも新たな支配者に媚を売るために付けられた名称なのか、と想像していたけど、”成増裁判”などと揶揄されるような鬼監督だったケーシー中尉を忘れないために、「啓志線」の名前を残したのではないか、と今は感じている。

ところで、「啓志線」は正式名称ではなく、あくまで”愛称”だ。地図などには昭和40年代まで啓志線と表記しているものもあるが、正式名称ではない。名称がなければ公文書などに記載できないので、何がしかの名前があったのだろうが、よくわからない。終戦直後には戦災復興院練馬倉庫線と呼ばれていたこともあったようだが、昭和26年の東上線のダイヤグラムには、G.H.線と表記があり、上板橋駅ー練馬倉庫駅ーグラントハイツ駅と書いてある。それと、こんな沿線案内も残っている。

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以上から、グラント・ハイツ命名後は、グラントハイツ線と呼ぶのが正式に近いのだろう。


啓志線開業時については、日本国有鉄道総裁室外務部が昭和32年に出版した、「鉄道終戦処理史」という本に、興味深い記述があるので引用してみる。(誤字はそのまま)

「グランド・ハイツは、東京都の責任の下に、元日本陸軍成増飛行場跡に建設され、2千戸の宿舎を中心にこれに附随する諸設備を持ち、家族宿舎中最も大規模で代表的なものであった。
資材の輸送は、昭和21年8月頃から戦災復興院練馬倉庫専用線あてに徐々に行われていた。(同年中の輸送数量651車8528トン)。しかし、輸送が活発となつたのは、翌22年3月末、同専用線が工事現場まで延長されてからである。また、この専用線のほか近接の上板橋、上板橋、成増、志木等の各駅においても取卸が行われた。
省社連絡駅である池袋駅の構内は狭く、かつ授受には電車本線上下4本を横断しなければならなかったので、臨時列車はすべて下板橋駅で通し運転し、ここで列車の分割、組成替え等を行い、車線の機関車により専用線構内へ入線せしめた。かくして昭和22年秋頃は、1日約200両の到着をみたが、東京都・請負業社・鉄道間の連繋が非常に緊密で、荷役・小運搬・配車等も円滑に行われ、天候その他の原因から多少の混乱はあったが、輸送は比較的順調に行われた。」

以上の内容は、これまで見てきた資料の中で、一番信憑性が高いものと思っている。

次、行きます。


さて、GHQ側の現場監督がケーシー中尉ということはわかった。では、実際に線路敷設工事を担当したのはどこなのであろうか。
明確な記録が見つかっていないので詳細は不明だが、最初に敷かれた練馬倉庫までの線路は戦時中の軍用側線なので、陸軍の鉄道連隊なのだろうか?

戦後のグラントハイツまでの路線は、東武鉄道社史などから、「日本国有鉄道新橋工事区」が工事を行った、と長年定説とされてきた。しかしである。マニアとしては常識から疑ってかからねばならない。

まず、工事の行われたであろう昭和22年3月現在、「日本国有鉄道」という名称や組織は存在していない。”国鉄”の誕生は昭和24年6月1日からだ。じゃあ鉄道省かというと、これも違う。鉄道省だったのは昭和18年10月30日までで、それ以降は、「運輸通信省」(鉄道省と逓信省が合併したもの)と呼ばれた。「運輸通信省」は昭和20年5月19日からは「運輸省」に変わる。ただし、一般の利用者は国鉄に変わるまで昔通り、”省線”と呼んでいた。

国鉄時代まで、首都圏の鉄道施設の改良、新設工事などの計画や施工を担当していたのは、「東京第一工事局(東工)」である。啓志線敷設工事のころは、「運輸省 東京地方施設部」という名称だった。実は、都営三田線(都営6号線)の工事を担当したのも、東工だ。

<「東工」90年のあゆみ>という社史に、こんな記述を見つけた。


「池袋地区改良:工期 昭和21〜昭和24 池袋出張所を設け戦災復旧、成増線新設、池袋駅改良、池袋電車区検修庫増設、田端操配線変更等を施行した。池袋駅は成増線連結跨線橋を新設し、自駅改良として山手内外ホーム間の連絡地下道を閉鎖し、東口に通ずる幅8mの跨線橋を新設した。」

成増線新設‥これは何を指すのだろう?啓志線の延長工事のことなのか??

東工では、規模の大きい工事をするとき、近隣の駅に「工事区」を置いた。本部、または建設事務所といった所だろうか。社史には、各年代ごとの「工事区」の設置状況を表にしたものが載っているが、啓志線工事のころ、「新橋工事区」は見当たらなかった。

なんだよ、あの定説は。日本国有鉄道も無けりゃあ新橋工事区も存在しないじゃん。

なんて、マニアが上から目線で物を言うような発言はイケナイですね。東武鉄道の社史が編纂された時代には、すでに国鉄という名称が浸透しており、ついそう呼んでしまったんでしょう。戦前は「省線」、戦後は「国鉄」、平成になってからは「JR」。これが一般の認識だろう。それにしても、「新橋工事区」はどこから来た話なのか‥

ところが。

工事区の一覧表に、「成増工事区」との記載があるではないか!‥しかし、設置期間は昭和22年8月27日〜昭和22年12月15日、となっている。これでは設置時期の意味がわからない。この時、すでに啓志線は存在している。普通は、池袋駅とか新宿駅とか運輸省(国鉄)の駅に工事区は置かれるので、それが”成増”ということは啓志線であることに間違いないだろう。‥謎だ‥闇は深い‥。


‥そろそろ紙数が尽きてきた。次回は、いよいよ啓志線開設のさらなる深淵を覗いてみることにする。果たして、謎は今度こそクリアとなるか否か!?


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コメント

凄いです。
僕にもわかりやすいです。
鶴瀬の駅に貼ってあったのと一緒ですね。

投稿: 三郎太 | 2017年4月 9日 (日) 20時11分

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