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板橋区民、再確認する。〜成増飛行場からグラント・ハイツ前夜まで〜

201702

 この三連休は暖かいようですが、今年の3月は寒いですね。

久々の更新なので軽い記事にしようかと思いましたが、ずっと心に燻っている事柄について書くことにします。

まずは冒頭画像の文章をお読みいただきたい。
これは、日本文學誌要第72号に載った、法政大学の林寿美子さんという方が著した”「アメリカン・スクール」の背景”と題された論文の一ページだ。

・・・お読みいただけましたか?

「アメリカン・スクール」は、小説家・小島信夫が昭和29年9月に雑誌「文学界」に発表し、翌年2月に芥川賞を受賞した。小説は、アメリカン・スクールの見学に訪れた日本人英語教師たちの不条理で滑稽な体験を通して、終戦後の日米関係を鋭利に諷刺する作品となっている。

この小説は、大陸からの復員後、教師となった小島信夫がグラント・ハイツにあったナリマスハイスクールを見学した時の体験をもとに描かれてると言う。林寿美子さんの論文は、戦前の教育しか知らない教師たちが、終戦直後からいきなり欧米式の教育法を行わなければならなくなった様子を、この小説の背景を示しながらさらに新制度について補完したものとなっている。

小説の舞台は架空の街と学校になっているため、論文では小島が実際に取材をした成増のグラント・ハイツのことについての解説がなされており、その一部が冒頭のページなのである。

さて、なぜこの論文のページを引用させていただいたかと言うと、練馬区内の図書館の郷土史コーナーに並んでいる本を調べ参考にして書くとこうなるな、という典型的な例として掲げさせていただいた次第である。

当ブログでは本当にしつこく触れていることなのでまたかと思われる方もいるだろうけれど、終戦時の旧成増飛行場から現在の光が丘、田柄、赤塚新町地域の移り変わりの様子があまりに曖昧であることにモヤモヤが収まらないのである。

なんかね、もっとこう”スパッと”ならんものか。

おりしも今年は練馬区が誕生して70年の記念の年だ。良い機会だと思うけれど一番の権威書である「練馬区史」が更新される様子はない。
そこで、老婆心ながら、今まで調査してきた旧成増飛行場を中心とした地域で起こった出来事と、それに影響を及ぼした社会情勢についての再確認をしてみたいと思う。


「終戦時の情勢」

1945年8月14日
日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告。

8月15日
正午、天皇による玉音放送により、国民へ向け戦争終結が宣言される。

「終戦時の成増飛行場」

終戦前後の様子。
<第187振武隊・野村敬一少尉の回想より。(47戦隊第3中隊に所属していたがS20年6月上旬、第187振武隊の副隊長として転出)>
「8月14日、高練(高等練習機)で館林から真南の成増へ送ってもらって、四式修理機を受領することになりました。当時の成増では滑走路以外ではぺんぺん草が背丈くらいで、一寸荒れた感じでした。南端の、掩体内で、翼端を支えてくれている整備班には埃がかかって気の毒でしたが、全開の試運転を行いましたところ、フラップの出方が左右不揃いでしたので、修理を頼んで懐かしの将校宿舎に泊まりました。翌15日は朝方から何か雰囲気が落ち着かず、昼頃宿舎で詔勅のラジオを聞き、今更空輸でもあるまいと、飛行場大隊長に挨拶して、手ぶらで電車で夕方館林に帰隊しました。

<47戦隊・第3中隊所属、伴了三少尉の回想より。>
「7月31日、太田飛行場へ出張を命ぜらる。47戦隊は7月28日に(小月基地で)大損害をうけ、各中隊は体をなさなくなり、戦隊の空中勤務者は一隊として清水大尉が指揮することになった。飛行機が損耗したので補充する事になり、次の5名が空中輸送要員として太田の中島飛行機工場へ出張を命ぜられた。大森一樹少尉、伴了三少尉、原田三郎曹長、安岡寛軍曹、丸山孝雄伍長。

8月1日山陽線で名古屋へ、8月2日、中央線で東京へ向かう。8月3日、東京着、練馬の下宿牧ふみさん宅に落付く。太田に先行した武内見習士官より「8月10日頃飛行機受領の予定」。8月11日、一同5人太田へ行く。

8月15日、太田工場門衛所で終戦の大詔をラジオで聞く。8月16日、飛行機を渡すと云われたるも辞退す。8月17日、成増残留隊(部隊長田中少尉)に合併して連れて帰って貰う事となる。8月18日、成増出発、京都で下車、山陽線不通の為山陰線に乗る。」

<第101戦隊・中村吉明少尉の回想、当ブログ過去記事より再掲。>
「中村吉明氏は、昭和20年5月より101戦隊に空中勤務者として勤務し、所属する101戦隊とともに6月5日、成増飛行場に到着した。だが、新しい戦闘機の補充がなかなか行なわれず、箱根の保養所などで日々を過ごした。その後ぼちぼちと補充が進み、成増で訓練を続けたが、8月に入り部隊は四国地域の防衛を命ぜられ、8月10日前後に101戦隊は高松飛行場へ、103戦隊は由良飛行場へと移動した。ところが、中村氏と部下二人はそのまま成増に残るよう命令されたという。そして8月15日、その前日に天皇の重大放送が行われる(終戦の放送とは思わなかったそうである)との情報を知った中村氏は、当日は訓練を中止し、所用で新宿に出ていた。正午、伊勢丹近くの路上で玉音放送を聞き、急いで飛行場へ戻り、高松に展開していた本部と連絡を取った。そして、本部からこちらへ合流するように指示を受け、ただちに向かおうとしたが、当時、飛行場にあった3機の疾風のうち2機は動かず、かろうじて可動状態であった1機に乗って高松へ移動することにした。残った部下2人は、本部から連絡機を迎えに寄越し、これに同乗して出発することになった。翌16日、中村氏は大きく翼を振って成増飛行場を後にしたが、その翌日・17日に後を追った連絡機(一式双発高等練習機)が離陸直後に失速し、旭町に墜落してしまう。この時、操縦士を含め3名全員が殉職してしまった。」


「終戦後の情勢」

1945年8月19日、当時参謀次長だった陸軍中将河辺虎四郎と外務省調査局長岡崎勝男らが、マッカーサーとの連絡のためマニラに派遣される。19、20日の両日の会談で、降伏・進駐の打ち合わせをし、降伏文書・天皇の詔書案などを受け取る。

8月22日
全軍武装解除命令下達。

8月24日
18時をもって日本国内全ての飛行機の飛行が禁止される。

8月28日
アメリカ軍先遣部隊150名が、輸送機により沖縄基地から神奈川県厚木飛行場に到着、その後、進駐予定地の日本軍基地へ武装解除の確認のため低空からの偵察&写真撮影飛行を開始する。

8月30日
連合軍最高司令官マッカーサー元帥、輸送機バターン号により厚木飛行場に到着。横浜の宿舎へ。

9月2日
ミズーリ号上での降伏調印式のあと、横浜港大桟橋等に米第8軍の第一騎兵師団4~5,000人が上陸する。

9月3日
第8軍の主力部隊が上陸。米陸軍第一騎兵師団が立川、調布、多摩の各飛行場やその他の付属施設の接収を一斉に開始。多摩飛行場では夕方(午後6時頃)、米陸軍第一騎兵師団の施設(工兵)部隊約60人が10台ほどのジープを連ね営門から入場し、審査部司令部前に現れた。

9月8日
第一騎兵師団、朝霞の陸軍予科士官学校や陸軍被服支廠に進駐する。

「終戦後の成増飛行場」

1945年8月18日
各府県長官宛てに「外国軍駐屯地における慰安施設について」という内務省警保局の通牒が発せられ、占領軍進駐開始時までに成増に慰安所が設けられる。(場所不明)

8月21日
小月基地にて47戦隊員召集解除を命ぜられる。戦後処理を命ぜられた数名を残して解散する。

9月10日
陸軍航空本部・航空総軍司令部は、連合軍使用ならびに航空局に返還した以外の第一航空軍管理の全飛行場に亙り農耕を予定すると報告、成増飛行場に於いては飛行場大隊の人員が東京都民となって東京都の農耕計画に参加予定となる。(防衛省図書館所蔵資料)

9月17日
第8軍本部軍政部のバラード大佐、ウィスナー中佐、ギーセイ中佐等は17日東京都庁を訪ね、廣瀬長官、町村次長、並川経済局長、重田民生局長、警視庁輸送課長らから戦後における都政全般の諸問題を聴取した。その中で、成増飛行場跡地利用についての要望がGHQ側へ伝えられた。
「万一連合軍が使用しないならば成増の飛行場を農耕地に開墾したい、この付近一帯は練馬大根の本場で約二百町歩の農地が新しく開発され、当局の方針としては直ちに苗をまきつけ都民の主食に廻したい、と訴えると”すぐ調査したい”と言明され、18日にはこちらの案内で現地調査が行われるほどの能率的で、しかも理解ある態度を示してくれた。」(朝日新聞9月21日付3面記事より抜粋)

9月21日
40名の進駐軍警備兵がやってきて成増飛行場を接収する。(連合軍進駐状況一覧表より。)

10月14日
スクラップ化した日本軍機をバックに旧成増飛行場を離陸する米軍連絡機の姿が撮影される。(NARA所蔵GHQ日本占領期アルバムの中に収容。)

10月31日
最後まで終戦作業を行っていた第43飛行場大隊員、高橋正治氏ほか2名が、市ヶ谷の旧陸軍航空本部へ作業終了の報告を行う。

11月19日
<軍用地農耕の実施要領決まる>
「大蔵省では元軍用地等の国有財産を農耕に利用処理すべき実施要領をこのほど各地方長官および財務局長に通牒を発した。(中略)一、軍馬補充部用地、演習場、飛行場(元航空局所管のものを含む)、練兵場、作業用地は開墾する。(中略)二、払い下げを受けるものはさる九日の閣議決定・緊急開拓事業実施要領によって定められた事業主体とするが‥以下略。四、事業主体が決定すれば直ちに開墾着手、その他の使用を承認する。以下7まであるが省略。(朝日新聞11月19日付1面記事より抜粋。)

以上が、確かと思われる資料を元に整理した旧成増飛行場地域の終戦から1945年11月下旬までの経過だ。ここでもう一度冒頭の論文を読んでいただければ、私の感じるモヤモヤ感を理解していただけるかもしれない。

8月下旬から9月中旬までのことについての資料は、確か以前入手していたのだけれど、どこかに失念してしまったので今回は書いてありませんが、発見次第加筆いたします。

問題は、成増飛行場に於いていつから開墾作業が始まったかなのだけれど、周辺情報のみでまだわからない。推測としては1945年の9月下旬から10月には始められていたのではないかと思うのだけれど、確証は得られていない。
このころ、同時に米軍による進駐も行われていたので、この時期、飛行場の跡地利用についてどんな構想を米軍側が持っていたのかが知りたいところだ。

ちなみに、現在の代々木公園一帯に存在していた代々木練兵場が米軍に接収されたのが1945年12月、翌年8月に米軍家族住宅建設が起工し1947年9月に竣工、ワシントンハイツと命名される。

久しぶりに長文を書きましたので今回はここまで。続きは‥頑張ります。。

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コメント

「アメリカンスクール」という小説の存在をこちらのブログで初めて知りました。ありがとうございます。
で、早速光が丘図書館で借りて読みました。
グラントハイツという文言は見られませんでしたが、背景にそれがあるということをイメージしながら読むと
よりリアルに感じることができました。

林氏の論文はこちらで全文見られますね↓
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/9338/1/nbs_72_hayashi.pdf
この論文がいつごろ書かれたものなのかがよくわからなかったです。

投稿: しがき伸也 | 2017年3月28日 (火) 03時23分

>>しがき伸也さま
いつもコメントをありがとうございます。気がつかないだけでいろいろな本が出ていますね。論文が見られるのもネット時代ならではです。

投稿: | 2017年3月28日 (火) 10時20分

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