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板橋区民、大空を見上げる。

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 あぁ寒い。。


いよいよグラント・ハイツのベールが剥がされるのか!と期待をされた方々、m(. ̄  ̄.)mス・スイマセーン。ここでインターバルをいただきます。焦らず徐々にいきましょう。

当ブログ開始初期のころ(2008年)、”板橋区と飛行機”というお題の記事を書いた。
その記事で、現在の常盤台地域に存在していた民間飛行場についても取り上げた。以下に記事を再録してみる。


『〜前野飛行場の経営者であった遠藤辰五郎については「年は40過ぎでヒゲ顔の退役軍人」くらいしか伝わっていませんでした。
 
ここで、前野飛行場についてのおさらいをしてみましょう。飛行場の存在した現在の常盤台一帯は、昭和初期、“字向屋敷の前野っ原”と云われ、ほとんどが畑地でした。昭和3年頃、東武伊勢崎線西新井駅と東上線上板橋駅を結ぶ新路線を計画していた東武鉄道は、この土地を貨物操車場として利用しようと買収を行った。この計画は、後に資金難により頓挫し、結局、宅地開発を行い常盤台住宅地として売りに出したけれど、宅地工事を始める昭和9年までは、野原の状態で放置していました。そこに目を付けたのが、退役軍人の遠藤辰五郎だったんですね。辰五郎は、明治44年4月、日本で初めて開設された所沢飛行場で、第9期基本操縦術修業員として、大正8年12月1日から同9年8月18日まで操縦訓練を修行した。その時の身分は、航空4大隊付陸軍工兵軍曹でした。その2期上に、後の陸軍大将・山下奉文歩兵大尉がいます。(日本航空史より) 辰五郎の出自や、いつ頃軍を除隊したのかはまだ調査中です。

<以下は板橋史談や板橋区史研究などから引用し要約>飛行場の滑走路は、現在の常盤台小学校あたりから、北西方向へ向かい、富士見通り、常盤台2丁目と3丁目の境の飯沼病院あたりまで延びていた。格納庫は前野町1丁目52番地付辺にあった。飛行機は、少なくとも複葉機が3機所有されており、そのうちの1機は白い胴体に「青葉号」と記されていた。(飛行機は、陸軍から払い下げられた機体の可能性が高い)飛行場の営業内容は、遊覧飛行(板橋周辺5円・東京周遊10円くらい)と飛行学校の経営だった。
 
さて、では飛行場はいつからいつまで営業していたのでしょうか?最近のことですが、別件の調べ物をしている途中でこんな新聞記事を発見しました。読売新聞・昭和4年9月27日の記事です。

”「板橋飛行場」来月から開場”
市外板橋町向屋敷地籍東上線中板橋駅前へ約八万坪の平地を均して建設中であった一等操縦士遠藤辰五郎氏の飛行場は此の程竣工を遂げたので愈々来る十月一日から「板橋飛行場」と銘打って開場する。同飛行場では陸軍航空写真の権威工藤哲郎氏を聘し航空写真の研究と、航空発動機機関士の養成等に主力を注ぎ、飛行場は一般飛行界の為に解放する。

 
そう、これで飛行場の開設が昭和4年10月1日であることがわかりました。ではいつまで常盤台にあったのでしょうか。「昭和6年度 航空要覧」の「第5章 本邦民間飛行機操縦術練習所」の項目に、昭和6年10月現在の状況として、「名称、東京飛行学校・深川区洲崎埋立地(現在の江東区新砂)・代表者、遠藤辰五郎」との記述がなされています。ということは昭和6年までには撤収されていたのでしょうか?(この年以前の航空要覧は確認できていない)しかし、地元の古老の方によると昭和8年頃まであったとの証言が残っています。では遠藤さんは掛け持ちをしていたのでしょうか?う〜ん、いつまで存在していたんですかね、結局まだわかりません。航空要覧では、昭和11年10月まで東京飛行学校の存在が確認できますが、それ以降は項目自体がなくなっているので、これ以上遠藤辰五郎さんの足取りを追うことは出来ません。』

以上再録終わり。


で、それからも調査は継続していたのだけれど、なかなか画期的な展開は見えず記事にはできなかった。それでも、ポツポツと資料は見つかっていたので、備忘録を兼ねて書き留めておく。

「山階宮賞杯は新記録の遠藤辰五郎氏へ」
第二回一、二等特別賞杯懸賞飛行大会の結果山階宮賞杯は遠藤辰五郎氏が獲得する名誉をになった航空局賞帝国飛行協会賞は左の如く決定(略)陸上機一等 山階宮賞杯、航空局賞金千円帝国飛行協会賞金二千円遠藤辰五郎氏(以下略)<大正14年10月23日・読売新聞より抜粋>


「ついに待望の飛行機の座席に乗る」
(昭和初期)初めて飛行機にさわったのは、それからまもないころであった。一等飛行機操縦士遠藤辰五郎が、曲技飛行の地方巡業で小樽にニューポール24(甲式三型・冒頭参考写真)をもってきて、この地方で初めて離陸から宙返り、錐揉みなどの高等飛行を後悔したときである。小学校4年以上の生徒を、一人5銭の入場料で小樽築港の広場に集めたが、私は3年生で、入場する資格がなかった。そこで、5銭玉をにぎって、4年生の列のあとにくっついて不法入場したが、料金は前の日に学校でまとめて納めていたらしく、私は幸運にもタダで飛行機を見ることができた。いや、夕方最後の一人になるまで居残って、ついに座席にのせてもらうことに成功した。(中略)飛行機を分解して、貨車にのせるまで、そばについていたが、エンジンのあたりに寄ると、すばらしくいいにおいがした。ガソリンと潤滑油のにおいであった。降りてきたニューポール機は、まだエンジンが暖かく、美しい流線型につくられたカウリングの下から黒い油がしたたり落ちていた。(以下略)<野沢正著・飛行機博物誌より抜粋>

読売新聞・昭和4年9月27日の記事中に”同飛行場では陸軍航空写真の権威工藤哲郎氏を聘し航空写真の研究”とあるが、この工藤哲郎氏のことについて書かれた「工藤写真館の昭和」工藤美代子著、という単行本があり、本の中では遠藤辰五郎については直接触れてはいないが関係がありそうな部分を紹介すると、工藤哲郎は明治23年青森の五戸村に生まれ、14歳のころ八戸の呉服店で丁稚奉公をした後、17歳のときに北海道へ渡り札幌の写真館で働くようになる。大正2年に修行を終えると”流しの写真師”として北海道を放浪し、大正時代半ばに所沢の陸軍気球隊(のち陸軍航空隊)に写真技師として就職、昭和初めに退職し昭和4年1月1日に両国の旧・国技館近くに工藤写真館を開業した。開業当初の写真館はあまり流行らず、アルバイトで航空写真の仕事を引き受けていたと記載されており、遠藤辰五郎とは陸軍航空隊時代に知り合ったのだろう。この時、写真撮影と同時に商店街のビラを空からばらまくといいお金になったと言う。


実は、この前野飛行場については一度発表したことがあった。それは、まだ板橋区を趣味とすることを決めたまだ若いころ、SNSもブログもなく、ホームページ開設も一般的でなかった時代、せっかくいろいろ調べても発表する手段がなかったので地元の老舗史談会に投稿したところ、採用が叶った。ところが、当時の飛行場を実際に見たことがあるという方がおられ、私が調べて書いた格納庫の位置について誤っているとの指摘を受けた。”自分は小学校へ通う途中、いつも格納庫の前を通っていたから間違いない。あの時の友人がいたら一緒に証明してくれるのに、ああくやしい、、、”とそれはもう血涙を流さんばかりの抗議だった。それを言われても、当時を知らない自分には、残された資料を元に推測を交えて書くしかない。しかし、当事者からすれば、昔を知らない若造に自分の信じきっている幼少時代の思い出を汚され踏みにじられたようで、よほど悔しかったのだろう。

人の記憶(特に子供時代の記憶)がいかにあてにならないことなのか、これは良くあることだし、逆に、一次資料が残っていても、現実には違っていたり(例:金井窪駅廃止のいきさつなど)することもあり、なかなか難しい。
グラント・ハイツのことにしてもそうで、自分には当時の記憶はない。(返還前後に運動場に忍び込んだことがあった程度。)だから、資料を探し出したら、できるだけ評価(裏取り)した上で作業を進めなくてはならないのである。

‥それにしても、板橋区の空を悠々と飛ぶ複葉機の姿を、あのころに生まれ、見てみたかったなあ‥

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