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板橋区民、ヒュー J. ケーシーに迫ってみる。〜グラント・ハイツ黎明期探訪 #1〜

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 外の空気が冷たい。

今回は、グラント・ハイツ黎明期について記事にします。まだ旧成増飛行場開墾の話も途中なのに、なんですけど、この頃はいろんなことが同時期に起きていて、自分の能力では一本の線で書けないのだ。

この章では、一部の説でグラント・ハイツの建設司令官、などと書かれている「ヒュー J. ケーシー少将」について掘り下げます。ちなみに、練馬区の発行した書籍にはケーシー少将について触れたものはありません。

本来ならば、全てを調べきってから書かなきゃいけないけれど何年かかるかわからないし、他に調べているかもしれない方への参考になればと思い、中途半端ではあるけど記事を上げます。ただし、いまだ調査の途中なので、後に内容の修正があることもご承知おきください。

そんなことでまずは、ケーシー少将の履歴をダイジェストで。

Hugh John ("Patt") Caseyは、1898年6月7日ニューヨークのブルックリンで配管・暖房業者であるジョン・J・ケーシーとマーガレット・L・ケーシーの子として生まれた。ケーシーの祖父母は、アイルランドとイングランドからの移民で、祖父はアメリカ南北戦争で連合軍側に派遣され、シルロの戦いで殺された。 マーガレットの両親は、ペンシルベニア州に定住したアイルランドの移民であった。

ケーシーは、1910年から1914年まで、Manual Training High Schoolで教育を受けた。15歳で卒業すると、ニューヨーク州奨学金を獲得し、Brooklyn Polytechnic Instituteに入学し、土木工学を学び、 1915年、ウェストポイント米軍事アカデミーで競技審査を受けウェストポイントに入りました。

在学中に第一次世界大戦が起こり、アメリカの参入によりケーシーのクラスは1918年6月12日に繰り上げ卒業した。ケーシーの成績はクラスで3位にランクされ、米国陸軍工兵隊の大尉に就任した。 1918年9月からは第19部隊第219工兵隊の指揮官を務め、1919年9月にキャンプハンフリーズの工兵隊の学校に学生として戻った。

1922年5月22日にアメリカ軍の主任外科医RBミラーの娘であったドロシー・ルース・ミラーと結婚し、3人の子供をもうけた。 2人の息子、ヒュー・ボイドとキース・マイルズ、そして娘のパトリシアだった。

1922年から1926年まで、カンザス州ローレンスにあるカンザス大学の予備役訓練隊(ROTC)のエンジニアユニットを担当する役員でした。 1927年、ピッツバーグ地区で地区技術者補佐として初めての土木工事を受け、ピッツバーグにおける洪水対策の報告書を洪水管理委員会に提出するが、過剰だ、と一度は棚上げされるが1936年に実際に洪水が起こり、ケーシーの指摘は認められた。

1929年9月、ワシントンDCへ移り、洪水管理や水力発電プロジェクトを含む、国内のすべての河川プロジェクトと港湾プロジェクトの研究、計画、仕様に関する作業に従事した。

1933年に米国機械学会(American Society of Mechanical Engineers)からJohn R. Freemanの2年間のフェローシップを受賞し、ドイツの水力学と土木工学を学び、その後2年間、ベルリンのTechnische Hochschuleに出席し、ドイツ語で論文を提出し工学博士号を取得する。

1937年、ケーシーはフィリピンに派遣され、水力発電と洪水管理に関する助言をフィリピン政府に行い、カリリアヤダム建設に従事した。

1940年10月、ワシントンDCに戻ったケーシーは、後のマンハッタン計画の指揮者となるレズリー・グローヴスと共に”ペンタゴン”建物の設計建設計画に参加する。

1941年10月、ケーシーはフィリピンにいるダグラス・マッカーサーの要請により、工兵隊の司令官として招聘される。しかし、太平洋戦争緒戦の日本軍の猛攻に遭い、マッカーサーがバターン半島を撤退した後も留まり、アメリカ軍の建設した設備などを破壊する作業を行った。1941年12月19日に大佐に昇進し、1942年1月25日に准将に昇格したケーシーは、1942年3月、PT船でコレヒドールから脱出するマッカーサーと共に、フィリピンを後にした。

その後ケーシーは、マッカーサーの南西太平洋地域のGHQのチーフエンジニアとなり、オーストラリア軍に協力してニューギニア戦線での様々な工兵作業の作戦に従事する。1945年1月、リンガイン湾から再びフィリピンに上陸して太平洋戦争終戦まで作戦に従事する。

1945年8月30日、ケーシーはマッカーサーと共に厚木飛行場に降り立つ。まずは横浜に落ち着き、GHQ本部が第一生命ビルに移るとケーシも引き移った。占領軍の電話帳を調べると、1945年10月時点でケーシは、第一生命ビルのLEGAL SECTION(占領行政に関する法律問題全般を扱う部門)にいたようだが、退役するまでマッカーサーのチーフエンジニアとして働いた。

1945年12月31日、ケーシーは少将の位で軍を退役し、母国アメリカへ帰国する。1953年から1955年までニューヨーク市交通局の会長を務め、1951年から1965年にかけてシェンレイ・インダストリー社でさまざまな職に就いた。
1981年8月30日にホワイト・リバー・ジャンクションの退役軍人病院で心臓発作で亡くなり、アーリントン国立墓地に埋葬された。


‥もったいぶるんじゃねーよ、との声も聞こえますが今回はここまで。次回、いよいよ核心に迫る!!
グラント・ハイツとヒュー J. ケーシーの関わりとは。はたして、ケーシー少将はグラント・ハイツの建設司令官だったのか?啓志線の建設にはかかわったのか!?

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