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板橋区民、ヒュー J. ケーシーを知る。〜グラント・ハイツ黎明期探訪 #2〜

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 先日、調べものをしに国会図書館へ行った時のこと。ロッカー室の前で鞄の中身をビニール袋に移していると、後ろをそそくさと通り過ぎる人がいた。そこへ入れ替わるように警備員がロッカー室に入ると大声で、「お客さま、財布をお忘れでは!」と後ろを通り過ぎた人を呼び止めた。

その人は「あっ、すいません!!」とそそくさと戻り警備員から財布を受け取った。ん?どこかで聞いた声だな、と振り返ると泉麻人センセであった。センセは最近、アド街やタモリ倶楽部などテレビでもお見かけせず、実際に会うのもしばらくぶりで、やあやあお互いご無沙汰でと挨拶を交わした。センセは相変わらずお忙しそうで執筆の途中、調べ物をしにきたのだそうだ。


てなことで、ヒュー J. ケーシー研究の成果を公開する時がきました。いつものように言い訳するけど、今回公開したことも、今後また新たな資料が発見された場合は随時書き換えられたり変更があるので、ご容赦を。

‥では、始めます。

最初に、2冊の書籍を紹介する。両方とも同じ「DEPENDENTS HOUSING」とのタイトルが付いている。一見、洋書にみえるが日本で出版された本だ。タイトルを訳すと「占領軍住宅」。両方ともGHQの太平洋陸軍司令部技術本部設計課が手がけた本だ。

一冊は1948年6月に出版され、主に代々木のワシントンハイツについての解説が豊富な写真と共に紹介されていて、日本語の解説文も付けられている。
もう一冊は、出版年は不明で一部共通の写真が使われるが解説は英語のみ、内容は日本と朝鮮に造られた占領軍住宅の工事内容が掲載されている。

その英語バージョンの冒頭解説を Maijor General Hugh.J.Casey/Chief Engineer が書いているのだ。

と、ここでこの本が出版された背景を解説する。参考資料としては、『占領軍調達史』や『進駐軍電話帳』等を利用した。


1945年9月2日、戦艦ミズーリー上で降伏文章が交わされると、本格的な占領が始まった。まずは総司令部(GHQ)が置かれ、主な占領政策はすべてここから発令された。発令された文書のことを「SCAPIN・スキャピンー連合国軍最高司令部覚書」と言う。
物資調達の書式は、こう呼ばれた。「GPAー物資調達部」、「PDー調達要求書」、「PRー調達受領書」、また、連合軍最高司令官は"SCAP"、占領軍住宅は"DH"と表記される。

GHQ(SCAP)の下には実際に軍政を行った第八軍(初期の頃には第六軍も含む)の軍政本部があり、その下に続いて軍団軍政本部、地方軍政部本部、府県軍政部が置かれた。

1945年12月、日本政府は内示の形でGHQよりDHの設計作成の命令を受け、GHQのEngineer Division,Design Branch に"Japanese Staff"部門が置かれた。これは全国の主な土建業者によって構成された日本建設工業統制組合にその構成を委託し、各所から建設技術者達が招集された。

1946年1月31日、GHQは口頭で「占領軍家族住宅2万戸を建設すべき命令を近く発出すべし」との非公式予告を日本政府に行った。状況(概略)は以下の通り。

「1月31日午後2時、米軍司令部にて建設部長・リンドラウブ大佐より田中連絡部第四部長および各省係官に対し、米軍将士用宿舎2万戸建設につき、資材、材料、生産、運搬、労務、工事施工はすべて日本政府の負債とする。
総数2万戸は北海道・東北地区1割5分、関東・東海・近畿地区3割5分、四国・九州地区3割2分、朝鮮1割8分の割合で建設を行う(ただし朝鮮については資材の提供のみとする)。
期日は遅くとも4月1日より工事を開始するべし。本工事施工のため日本政府は直ちに適当な機関を設置すべくその組織について2月4日9時半までに報告をすること。」

1946年3月6日、SCAPIN-799「占領軍及びその家族の居住計画」という通達が日本政府に出された。内容を一部抜粋する。

「日本帝国政府に対し、1946年中に約2万家族を収容し得る家族住宅が要求せられる予定である。この要求を満たすために集団住宅の建設と、日本の請負業者および労働者を使用するが、現在続けられている既存の建物の改修工事も継続される。右の家族住宅が、連合軍の住居に適するようにするため、第八軍司令官は、計量されるべき集団住宅及び既存の建物の改修に対し、計画案と明細設計書を提示するはずである。(以下5項目略)」

この通達を受け、日本政府は3月15日に「連合国軍用宿舎等建設要綱」を定めた。以下概略。

「建設計画の総括的責任はGHQの指示に基づき戦災復興院が、工事の具体的実施は戦災復興院の指示監督の下に地方長官の責任において地方長がこれにあたる。
労務の提供は厚生省、輸送は運輸省、資材及び備品の生産並に調達は物資別に商工省または農林省、資材及び生産・調達の発注は戦災復興院、円滑な実施のための連絡機構の設置、等。」

3月16日、先のSCAPIN-799を補充するSCAPIN-823が発令される。これは、SCAPIN-799で示された建設用資材の生産及び建設の全事業を監督する権限および責任を第八軍司令官に委任するとともに、本事業遂行のために設置される機関の支所を仙台、横浜、京都、呉に、物資の集積所を横浜、大阪に設置すべきことなどを指令したものである。

このようにして、3月20日には戦災復興院特別建設部が、4月20日には地方機関として仙台、横浜、京都、呉の各市に特別建設出張所が設置されるとともに、DH建設業務遂行上必要な連絡折衝に当たらせるために管区特別建設委員会が設置され、関係各都道府県にはDH建設工事の具体的実施のため地方特別建設委員会および特別建設課(部)が設置されていったのである。

‥ここまで書いてきてなんなんだけど、書いている方もわけがわからなくなってきたので、ちょっと項目をあらためる。

ようするに、今後長期に渡るであろう日本進駐において必要となる占領軍用の家族住宅(DH)建設を、GHQは1946年になって早期に建設するよう日本政府へ要求してきた、ということなのである。

DHは、日本各地や朝鮮に進駐した占領軍将兵の家族用住宅だが、新たに建設される集団住宅地のほか、接収された施設や住宅とその改造や補習などもすべて含まれていた。要求2万戸のうち、約16000戸が日本国内に割り当てられている。このうち、一番規模が大きかったのが(後の)グラント・ハイツだった。

だから、グラント・ハイツありき、ではなくDH計画の一部にグラント・ハイツ建設が入っていたのだと理解していただきたい。
建設着工は、お茶ノ水の「文化アパート」や赤坂の「満鉄ビル」、牛込の「陸軍省」などの施設改修や、代々木練兵場跡の「ワシントンハイツ建設(1946年8月起工、翌年9月竣工)」から始まった。


ここでようやく、冒頭紹介の書籍「DEPENDENTS HOUSING」に話は戻る。

英語バージョンでは、1945年12月から1949年までの米極東軍技術部のデザインブランチが行った仕事がまとめられており、その概要についての解説をケーシー少将が行っている。中にはグラント・ハイツのレイアウトと写真や図面などが載っているらしい。らしい、と書いたのは、原書は大学の図書館や個人が秘蔵しており、容易に見ることができないからだ。ただ、幸いなことに、すでに出版されてから70年近く経過しているので、これらの本を元に書かれた建築関係の研究本がいくつか出ているので、それらを参考に内容を知ることが可能なのだ。

さて、このGHQのデザインブランチの組織だけれど、進駐直後のことで人員の入れ替わりがよく行われる。ここでは、一例としてワシントンハイツ着工の頃の進駐軍電話帳・1946年9月号を元に構成員について記載する。

「ENGINEER OFFICE」

Chiaf Engineer
Maj.Gen.H.J.Casey
Mrs.E.Wells(secretary)

Executive Officer
Lt.Col.J.P.Bushier
Miss.E.M.Walker(secretary)

Duty Officer

<Administration Division>

Maj.S.Gray IV

Chief Clerk

Files Section

<Engineering Division>

Col.B.D.Rindlaub

Lt.Col.L.M.Etherton

<Design Branch>

Col.D.G.Hammond

Maj.H.S.Kruse

LT.D.E.Griffin

Mr.H.D.Baker

Mr.B.C.Hibler

Chief Clerk

Reproduction Room

Japanese Architectural Staff

Japanese Utilities Design Staff

このうち、D.リンドローヴ大佐は1946年1月31日にDHに関する最初の口頭指令を出した人物である。G.ハモンド大佐とS.クルーゼ少佐(建築家)はデザインブランチ(技術本部設計課)の責任者だ。H.D.ベーカーは民間の建築家でアパートメント形式の集合住宅の改造・設計を担当している。この下に、約60名といわれる日本人スタッフが、主に建築と設備設計に分かれて勤めていた。

ケーシー少将は、「DEPENDENTS HOUSING」の中で、デザインブランチの仕事についてこう述べている。

「設計と建設が迅速に完成されるように日本の建築工法が最大限活用された。平面計画の決定に際し多くのバリエーション(120のコンビネーション)を持つ九つの基本的な家族住宅のプラン、東京の五つの居住区のためのレイアウトや、細かいユーティリティ計画をも含めた全体の完全なプランはすべてこのグループ(デザインブランチ)によって完成された。

比較的大きなコミュニティにはPX、教会、学校、自動車修理工場、劇場、ガソリンスタンド、診療所、その他通常の生活に必要なすべての公共施設があり、一番大きなコミュニティは1700世帯規模で計画・設計され(グラント・ハイツを指すと思われる。)、同規模の小都市に必要とされる設備や施設が用意された。」

DEPENDENTS HOUSING」では、DHの設計、建設に関する主な関係者として以下の名前が挙げられている。

D.リンドローヴ大佐(チーフ・エンジニア)、G.ハモンド大佐(デザインブランチ・チーフ)、S.クルーゼ少佐(デザインブランチ・チーフ)、Mr.Cecil L.Triplett(建築家)、Mr.Don W.Butler(土木技師)、志村太七(建築家)、松本巍(建築家)、Col.David M.Dunn(第八軍エンジニア)、Col.Earl E.Gesler(第八軍エンジニア)

この中で、D.M.ダン大佐とE.E.ゲスラー大佐は第八軍技術部のチーフで、DH建設の管理・監督の責任者である。実際の建設工事では、この第八軍の技術部が監督を行った。


いや〜長々と書きましたが、以上のことから、ケーシー少将はDH建設計画全体のトップにはいたけれど、会社に例えれば建設担当取締役みたいなもので、実務にはあまりタッチしていなかったものと思われます。したがって、啓志線敷設には関わりがなかった、と言えるでしょう。

さて、次回はグラント・ハイツ建設についてさらに斬り込みます。果たして、もう一人のケーシー、ヒュー B. ケーシー中尉とは何者だったのか?その正体が明らかとなるのか、お楽しみに!!

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