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2017年3月

板橋区民、チラっと顔を出す。

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 3月も半ばですが、寒いっすね。

気がついたら、前回記事UPからだいぶ日にちが経ってしまいました。

毎年、2月下旬から3月半ばの確定申告期限までのこの時期は、”逃亡する。”という記事を載せているような気がしますが、今年はその逃亡すらできず記事を書ける精神的状況にもなく、更新はもうしばしお待ちくださいませ。。

(写真は先週我が赤塚郷で開催された”梅まつり”にて、りんりんちゃんと西洋流火術鉄砲隊保存会マスコット”高島熊五郎”とのツーショットです。)


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板橋区民、再確認する。〜成増飛行場からグラント・ハイツ前夜まで〜

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 この三連休は暖かいようですが、今年の3月は寒いですね。

久々の更新なので軽い記事にしようかと思いましたが、ずっと心に燻っている事柄について書くことにします。

まずは冒頭画像の文章をお読みいただきたい。
これは、日本文學誌要第72号に載った、法政大学の林寿美子さんという方が著した”「アメリカン・スクール」の背景”と題された論文の一ページだ。

・・・お読みいただけましたか?

「アメリカン・スクール」は、小説家・小島信夫が昭和29年9月に雑誌「文学界」に発表し、翌年2月に芥川賞を受賞した。小説は、アメリカン・スクールの見学に訪れた日本人英語教師たちの不条理で滑稽な体験を通して、終戦後の日米関係を鋭利に諷刺する作品となっている。

この小説は、大陸からの復員後、教師となった小島信夫がグラント・ハイツにあったナリマスハイスクールを見学した時の体験をもとに描かれてると言う。林寿美子さんの論文は、戦前の教育しか知らない教師たちが、終戦直後からいきなり欧米式の教育法を行わなければならなくなった様子を、この小説の背景を示しながらさらに新制度について補完したものとなっている。

小説の舞台は架空の街と学校になっているため、論文では小島が実際に取材をした成増のグラント・ハイツのことについての解説がなされており、その一部が冒頭のページなのである。

さて、なぜこの論文のページを引用させていただいたかと言うと、練馬区内の図書館の郷土史コーナーに並んでいる本を調べ参考にして書くとこうなるな、という典型的な例として掲げさせていただいた次第である。

当ブログでは本当にしつこく触れていることなのでまたかと思われる方もいるだろうけれど、終戦時の旧成増飛行場から現在の光が丘、田柄、赤塚新町地域の移り変わりの様子があまりに曖昧であることにモヤモヤが収まらないのである。

なんかね、もっとこう”スパッと”ならんものか。

おりしも今年は練馬区が誕生して70年の記念の年だ。良い機会だと思うけれど一番の権威書である「練馬区史」が更新される様子はない。
そこで、老婆心ながら、今まで調査してきた旧成増飛行場を中心とした地域で起こった出来事と、それに影響を及ぼした社会情勢についての再確認をしてみたいと思う。


「終戦時の情勢」

1945年8月14日
日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告。

8月15日
正午、天皇による玉音放送により、国民へ向け戦争終結が宣言される。

「終戦時の成増飛行場」

終戦前後の様子。
<第187振武隊・野村敬一少尉の回想より。(47戦隊第3中隊に所属していたがS20年6月上旬、第187振武隊の副隊長として転出)>
「8月14日、高練(高等練習機)で館林から真南の成増へ送ってもらって、四式修理機を受領することになりました。当時の成増では滑走路以外ではぺんぺん草が背丈くらいで、一寸荒れた感じでした。南端の、掩体内で、翼端を支えてくれている整備班には埃がかかって気の毒でしたが、全開の試運転を行いましたところ、フラップの出方が左右不揃いでしたので、修理を頼んで懐かしの将校宿舎に泊まりました。翌15日は朝方から何か雰囲気が落ち着かず、昼頃宿舎で詔勅のラジオを聞き、今更空輸でもあるまいと、飛行場大隊長に挨拶して、手ぶらで電車で夕方館林に帰隊しました。

<47戦隊・第3中隊所属、伴了三少尉の回想より。>
「7月31日、太田飛行場へ出張を命ぜらる。47戦隊は7月28日に(小月基地で)大損害をうけ、各中隊は体をなさなくなり、戦隊の空中勤務者は一隊として清水大尉が指揮することになった。飛行機が損耗したので補充する事になり、次の5名が空中輸送要員として太田の中島飛行機工場へ出張を命ぜられた。大森一樹少尉、伴了三少尉、原田三郎曹長、安岡寛軍曹、丸山孝雄伍長。

8月1日山陽線で名古屋へ、8月2日、中央線で東京へ向かう。8月3日、東京着、練馬の下宿牧ふみさん宅に落付く。太田に先行した武内見習士官より「8月10日頃飛行機受領の予定」。8月11日、一同5人太田へ行く。

8月15日、太田工場門衛所で終戦の大詔をラジオで聞く。8月16日、飛行機を渡すと云われたるも辞退す。8月17日、成増残留隊(部隊長田中少尉)に合併して連れて帰って貰う事となる。8月18日、成増出発、京都で下車、山陽線不通の為山陰線に乗る。」

<第101戦隊・中村吉明少尉の回想、当ブログ過去記事より再掲。>
「中村吉明氏は、昭和20年5月より101戦隊に空中勤務者として勤務し、所属する101戦隊とともに6月5日、成増飛行場に到着した。だが、新しい戦闘機の補充がなかなか行なわれず、箱根の保養所などで日々を過ごした。その後ぼちぼちと補充が進み、成増で訓練を続けたが、8月に入り部隊は四国地域の防衛を命ぜられ、8月10日前後に101戦隊は高松飛行場へ、103戦隊は由良飛行場へと移動した。ところが、中村氏と部下二人はそのまま成増に残るよう命令されたという。そして8月15日、その前日に天皇の重大放送が行われる(終戦の放送とは思わなかったそうである)との情報を知った中村氏は、当日は訓練を中止し、所用で新宿に出ていた。正午、伊勢丹近くの路上で玉音放送を聞き、急いで飛行場へ戻り、高松に展開していた本部と連絡を取った。そして、本部からこちらへ合流するように指示を受け、ただちに向かおうとしたが、当時、飛行場にあった3機の疾風のうち2機は動かず、かろうじて可動状態であった1機に乗って高松へ移動することにした。残った部下2人は、本部から連絡機を迎えに寄越し、これに同乗して出発することになった。翌16日、中村氏は大きく翼を振って成増飛行場を後にしたが、その翌日・17日に後を追った連絡機(一式双発高等練習機)が離陸直後に失速し、旭町に墜落してしまう。この時、操縦士を含め3名全員が殉職してしまった。」


「終戦後の情勢」

1945年8月19日、当時参謀次長だった陸軍中将河辺虎四郎と外務省調査局長岡崎勝男らが、マッカーサーとの連絡のためマニラに派遣される。19、20日の両日の会談で、降伏・進駐の打ち合わせをし、降伏文書・天皇の詔書案などを受け取る。

8月22日
全軍武装解除命令下達。

8月24日
18時をもって日本国内全ての飛行機の飛行が禁止される。

8月28日
アメリカ軍先遣部隊150名が、輸送機により沖縄基地から神奈川県厚木飛行場に到着、その後、進駐予定地の日本軍基地へ武装解除の確認のため低空からの偵察&写真撮影飛行を開始する。

8月30日
連合軍最高司令官マッカーサー元帥、輸送機バターン号により厚木飛行場に到着。横浜の宿舎へ。

9月2日
ミズーリ号上での降伏調印式のあと、横浜港大桟橋等に米第8軍の第一騎兵師団4~5,000人が上陸する。

9月3日
第8軍の主力部隊が上陸。米陸軍第一騎兵師団が立川、調布、多摩の各飛行場やその他の付属施設の接収を一斉に開始。多摩飛行場では夕方(午後6時頃)、米陸軍第一騎兵師団の施設(工兵)部隊約60人が10台ほどのジープを連ね営門から入場し、審査部司令部前に現れた。

9月8日
第一騎兵師団、朝霞の陸軍予科士官学校や陸軍被服支廠に進駐する。

「終戦後の成増飛行場」

1945年8月18日
各府県長官宛てに「外国軍駐屯地における慰安施設について」という内務省警保局の通牒が発せられ、占領軍進駐開始時までに成増に慰安所が設けられる。(場所不明)

8月21日
小月基地にて47戦隊員召集解除を命ぜられる。戦後処理を命ぜられた数名を残して解散する。

9月10日
陸軍航空本部・航空総軍司令部は、連合軍使用ならびに航空局に返還した以外の第一航空軍管理の全飛行場に亙り農耕を予定すると報告、成増飛行場に於いては飛行場大隊の人員が東京都民となって東京都の農耕計画に参加予定となる。(防衛省図書館所蔵資料)

9月17日
第8軍本部軍政部のバラード大佐、ウィスナー中佐、ギーセイ中佐等は17日東京都庁を訪ね、廣瀬長官、町村次長、並川経済局長、重田民生局長、警視庁輸送課長らから戦後における都政全般の諸問題を聴取した。その中で、成増飛行場跡地利用についての要望がGHQ側へ伝えられた。
「万一連合軍が使用しないならば成増の飛行場を農耕地に開墾したい、この付近一帯は練馬大根の本場で約二百町歩の農地が新しく開発され、当局の方針としては直ちに苗をまきつけ都民の主食に廻したい、と訴えると”すぐ調査したい”と言明され、18日にはこちらの案内で現地調査が行われるほどの能率的で、しかも理解ある態度を示してくれた。」(朝日新聞9月21日付3面記事より抜粋)

9月21日
40名の進駐軍警備兵がやってきて成増飛行場を接収する。(連合軍進駐状況一覧表より。)

10月14日
スクラップ化した日本軍機をバックに旧成増飛行場を離陸する米軍連絡機の姿が撮影される。(NARA所蔵GHQ日本占領期アルバムの中に収容。)

10月31日
最後まで終戦作業を行っていた第43飛行場大隊員、高橋正治氏ほか2名が、市ヶ谷の旧陸軍航空本部へ作業終了の報告を行う。

11月19日
<軍用地農耕の実施要領決まる>
「大蔵省では元軍用地等の国有財産を農耕に利用処理すべき実施要領をこのほど各地方長官および財務局長に通牒を発した。(中略)一、軍馬補充部用地、演習場、飛行場(元航空局所管のものを含む)、練兵場、作業用地は開墾する。(中略)二、払い下げを受けるものはさる九日の閣議決定・緊急開拓事業実施要領によって定められた事業主体とするが‥以下略。四、事業主体が決定すれば直ちに開墾着手、その他の使用を承認する。以下7まであるが省略。(朝日新聞11月19日付1面記事より抜粋。)

以上が、確かと思われる資料を元に整理した旧成増飛行場地域の終戦から1945年11月下旬までの経過だ。ここでもう一度冒頭の論文を読んでいただければ、私の感じるモヤモヤ感を理解していただけるかもしれない。

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ドラマチックな赤塚郷。

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 桜が咲き始めましたね。


地元ではちょくちょくロケの目撃情報が出ていたが、我が赤塚郷を舞台にしたドラマ「ハロー張りネズミ」の公開情報がニュース記事になった。以下引用。


スポニチアネックス 3/23(木) 5:00


7月期のTBSドラマ「ハロー張りネズミ」に、探偵の七瀬五郎役で主演する瑛太。舞台となる探偵事務所での撮影がスタート

 80年代の名作漫画「ハロー張りネズミ」が、俳優・瑛太(34)の主演で連続ドラマ化される。TBSで7月期の金曜午後10時枠で放送。「モテキ」「バクマン。」などの作品で知られる大根仁監督が脚本、演出を担当する。

 「島耕作」シリーズの漫画家・弘兼憲史氏が、83~89年に「週刊ヤングマガジン」で連載した探偵モノ。東京都板橋区下赤塚の「あかつか探偵事務所」に舞い込む依頼に、主人公・七瀬五郎(通称・ハリネズミ)と仲間たちが挑む物語。1話完結型で、特徴は幅広いエピソード。人情モノ、殺人ミステリー、ホラー、果ては徳川埋蔵金を巡る話もある。大根監督は「毎回ジャンルの異なるドラマで、ビックリ箱のような作品。21世紀の“探偵物語”や“傷だらけの天使”になる」と自信を見せた。

 瑛太が演じる五郎は、事件への嗅覚と抜群の行動力を持った探偵。人情に厚くバカでスケベな男だ。大根監督が「僕はキャラクターを造形する際に、演じる役者の人格を反映させる。瑛ちゃんの素の部分を、バカでスケベといった部分で肉付けした」と明かすと、瑛太は「異論はないです。キャラクターに共感してます」とニヤリ。2人はドラマ「まほろ駅前番外地」で仕事を共にしており、息はピッタリだ。

 実際の下赤塚に探偵事務所のセットを作り、撮影がスタート。瑛太は板橋区出身で、地元での撮影となる。土地柄を知っているだけに「若いヤンチャな子たちが、撮影の邪魔をしなければいいなと切に願ってます」と冗談めかしながら、「今の若い子が見て“登場人物がカッコいい”、“その世界に入り込みたい”と思うものを目指したい。僕は冒頭から飛ばしていく」と気合十分だ。

 豪華な共演陣も見どころの一つ。五郎と関わる謎の美女・蘭子を深田恭子(34)、相棒の探偵・木暮久作を「V6」の森田剛(38)、探偵事務所所長を山口智子(52)が演じる。

http://www.tbs.co.jp/hello-harinezumi/


この作品はすでに30年以上前に発表されたものなので、今までにドラマ化や映画化もされてきた。映画は未見だけれど、ドラマは観た。主人公を演じた俳優は失念したが、たしか所長役は小林幸子だったと思う。その時は、探偵所の建物外見こそ下赤塚駅南口の喫茶「ヒュッテ」の2階部分だったけど、撮影場所自体は板橋区仲宿商店街だったと記憶する。

今回のドラマでは、事務所は北口の赤塚一番通り商店街の中に設定されているらしいが、発表になった俳優達の目撃情報を見ないので、どこまで赤塚地域がドラマ内でロケ地として出てくるのかはわからない。漫画自体にもあまり赤塚のシーンは出てこないので期待薄、なのかなあ。。

主演を演じる瑛太クンは狙ったのかどうか、志村坂下出身で現在放映中の朝ドラ「べっぴんさん」に主役の旦那役として登場している永山絢斗クンのお兄さんだ。奥さんは歌手の木村カエラさんですね。個人的には今人気沸騰している志村坂上出身の山崎賢人クンだったら‥なんて思っちゃいますが瑛太クンに失礼ですね。すみません。


放映開始は7月からなので撮影もまだ続くかもしれませんが、ロケで訪れた赤塚商店街に佇む深キョンのお姿を、是非ナマで拝顔できないものかと願っております。。

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板橋区民、ヒュー J. ケーシーに迫ってみる。〜グラント・ハイツ黎明期探訪 #1〜

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 外の空気が冷たい。

今回は、グラント・ハイツ黎明期について記事にします。まだ旧成増飛行場開墾の話も途中なのに、なんですけど、この頃はいろんなことが同時期に起きていて、自分の能力では一本の線で書けないのだ。

この章では、一部の説でグラント・ハイツの建設司令官、などと書かれている「ヒュー J. ケーシー少将」について掘り下げます。ちなみに、練馬区の発行した書籍にはケーシー少将について触れたものはありません。

本来ならば、全てを調べきってから書かなきゃいけないけれど何年かかるかわからないし、他に調べているかもしれない方への参考になればと思い、中途半端ではあるけど記事を上げます。ただし、いまだ調査の途中なので、後に内容の修正があることもご承知おきください。

そんなことでまずは、ケーシー少将の履歴をダイジェストで。

Hugh John ("Patt") Caseyは、1898年6月7日ニューヨークのブルックリンで配管・暖房業者であるジョン・J・ケーシーとマーガレット・L・ケーシーの子として生まれた。ケーシーの祖父母は、アイルランドとイングランドからの移民で、祖父はアメリカ南北戦争で連合軍側に派遣され、シルロの戦いで殺された。 マーガレットの両親は、ペンシルベニア州に定住したアイルランドの移民であった。

ケーシーは、1910年から1914年まで、Manual Training High Schoolで教育を受けた。15歳で卒業すると、ニューヨーク州奨学金を獲得し、Brooklyn Polytechnic Instituteに入学し、土木工学を学び、 1915年、ウェストポイント米軍事アカデミーで競技審査を受けウェストポイントに入りました。

在学中に第一次世界大戦が起こり、アメリカの参入によりケーシーのクラスは1918年6月12日に繰り上げ卒業した。ケーシーの成績はクラスで3位にランクされ、米国陸軍工兵隊の大尉に就任した。 1918年9月からは第19部隊第219工兵隊の指揮官を務め、1919年9月にキャンプハンフリーズの工兵隊の学校に学生として戻った。

1922年5月22日にアメリカ軍の主任外科医RBミラーの娘であったドロシー・ルース・ミラーと結婚し、3人の子供をもうけた。 2人の息子、ヒュー・ボイドとキース・マイルズ、そして娘のパトリシアだった。

1922年から1926年まで、カンザス州ローレンスにあるカンザス大学の予備役訓練隊(ROTC)のエンジニアユニットを担当する役員でした。 1927年、ピッツバーグ地区で地区技術者補佐として初めての土木工事を受け、ピッツバーグにおける洪水対策の報告書を洪水管理委員会に提出するが、過剰だ、と一度は棚上げされるが1936年に実際に洪水が起こり、ケーシーの指摘は認められた。

1929年9月、ワシントンDCへ移り、洪水管理や水力発電プロジェクトを含む、国内のすべての河川プロジェクトと港湾プロジェクトの研究、計画、仕様に関する作業に従事した。

1933年に米国機械学会(American Society of Mechanical Engineers)からJohn R. Freemanの2年間のフェローシップを受賞し、ドイツの水力学と土木工学を学び、その後2年間、ベルリンのTechnische Hochschuleに出席し、ドイツ語で論文を提出し工学博士号を取得する。

1937年、ケーシーはフィリピンに派遣され、水力発電と洪水管理に関する助言をフィリピン政府に行い、カリリアヤダム建設に従事した。

1940年10月、ワシントンDCに戻ったケーシーは、後のマンハッタン計画の指揮者となるレズリー・グローヴスと共に”ペンタゴン”建物の設計建設計画に参加する。

1941年10月、ケーシーはフィリピンにいるダグラス・マッカーサーの要請により、工兵隊の司令官として招聘される。しかし、太平洋戦争緒戦の日本軍の猛攻に遭い、マッカーサーがバターン半島を撤退した後も留まり、アメリカ軍の建設した設備などを破壊する作業を行った。1941年12月19日に大佐に昇進し、1942年1月25日に准将に昇格したケーシーは、1942年3月、PT船でコレヒドールから脱出するマッカーサーと共に、フィリピンを後にした。

その後ケーシーは、マッカーサーの南西太平洋地域のGHQのチーフエンジニアとなり、オーストラリア軍に協力してニューギニア戦線での様々な工兵作業の作戦に従事する。1945年1月、リンガイン湾から再びフィリピンに上陸して太平洋戦争終戦まで作戦に従事する。

1945年8月30日、ケーシーはマッカーサーと共に厚木飛行場に降り立つ。まずは横浜に落ち着き、GHQ本部が第一生命ビルに移るとケーシも引き移った。占領軍の電話帳を調べると、1945年10月時点でケーシは、第一生命ビルのLEGAL SECTION(占領行政に関する法律問題全般を扱う部門)にいたようだが、退役するまでマッカーサーのチーフエンジニアとして働いた。

1945年12月31日、ケーシーは少将の位で軍を退役し、母国アメリカへ帰国する。1953年から1955年までニューヨーク市交通局の会長を務め、1951年から1965年にかけてシェンレイ・インダストリー社でさまざまな職に就いた。
1981年8月30日にホワイト・リバー・ジャンクションの退役軍人病院で心臓発作で亡くなり、アーリントン国立墓地に埋葬された。


‥もったいぶるんじゃねーよ、との声も聞こえますが今回はここまで。次回、いよいよ核心に迫る!!
グラント・ハイツとヒュー J. ケーシーの関わりとは。はたして、ケーシー少将はグラント・ハイツの建設司令官だったのか?啓志線の建設にはかかわったのか!?

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板橋区民、大空を見上げる。

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 あぁ寒い。。


いよいよグラント・ハイツのベールが剥がされるのか!と期待をされた方々、m(. ̄  ̄.)mス・スイマセーン。ここでインターバルをいただきます。焦らず徐々にいきましょう。

当ブログ開始初期のころ(2008年)、”板橋区と飛行機”というお題の記事を書いた。
その記事で、現在の常盤台地域に存在していた民間飛行場についても取り上げた。以下に記事を再録してみる。


『〜前野飛行場の経営者であった遠藤辰五郎については「年は40過ぎでヒゲ顔の退役軍人」くらいしか伝わっていませんでした。
 
ここで、前野飛行場についてのおさらいをしてみましょう。飛行場の存在した現在の常盤台一帯は、昭和初期、“字向屋敷の前野っ原”と云われ、ほとんどが畑地でした。昭和3年頃、東武伊勢崎線西新井駅と東上線上板橋駅を結ぶ新路線を計画していた東武鉄道は、この土地を貨物操車場として利用しようと買収を行った。この計画は、後に資金難により頓挫し、結局、宅地開発を行い常盤台住宅地として売りに出したけれど、宅地工事を始める昭和9年までは、野原の状態で放置していました。そこに目を付けたのが、退役軍人の遠藤辰五郎だったんですね。辰五郎は、明治44年4月、日本で初めて開設された所沢飛行場で、第9期基本操縦術修業員として、大正8年12月1日から同9年8月18日まで操縦訓練を修行した。その時の身分は、航空4大隊付陸軍工兵軍曹でした。その2期上に、後の陸軍大将・山下奉文歩兵大尉がいます。(日本航空史より) 辰五郎の出自や、いつ頃軍を除隊したのかはまだ調査中です。

<以下は板橋史談や板橋区史研究などから引用し要約>飛行場の滑走路は、現在の常盤台小学校あたりから、北西方向へ向かい、富士見通り、常盤台2丁目と3丁目の境の飯沼病院あたりまで延びていた。格納庫は前野町1丁目52番地付辺にあった。飛行機は、少なくとも複葉機が3機所有されており、そのうちの1機は白い胴体に「青葉号」と記されていた。(飛行機は、陸軍から払い下げられた機体の可能性が高い)飛行場の営業内容は、遊覧飛行(板橋周辺5円・東京周遊10円くらい)と飛行学校の経営だった。
 
さて、では飛行場はいつからいつまで営業していたのでしょうか?最近のことですが、別件の調べ物をしている途中でこんな新聞記事を発見しました。読売新聞・昭和4年9月27日の記事です。

”「板橋飛行場」来月から開場”
市外板橋町向屋敷地籍東上線中板橋駅前へ約八万坪の平地を均して建設中であった一等操縦士遠藤辰五郎氏の飛行場は此の程竣工を遂げたので愈々来る十月一日から「板橋飛行場」と銘打って開場する。同飛行場では陸軍航空写真の権威工藤哲郎氏を聘し航空写真の研究と、航空発動機機関士の養成等に主力を注ぎ、飛行場は一般飛行界の為に解放する。

 
そう、これで飛行場の開設が昭和4年10月1日であることがわかりました。ではいつまで常盤台にあったのでしょうか。「昭和6年度 航空要覧」の「第5章 本邦民間飛行機操縦術練習所」の項目に、昭和6年10月現在の状況として、「名称、東京飛行学校・深川区洲崎埋立地(現在の江東区新砂)・代表者、遠藤辰五郎」との記述がなされています。ということは昭和6年までには撤収されていたのでしょうか?(この年以前の航空要覧は確認できていない)しかし、地元の古老の方によると昭和8年頃まであったとの証言が残っています。では遠藤さんは掛け持ちをしていたのでしょうか?う〜ん、いつまで存在していたんですかね、結局まだわかりません。航空要覧では、昭和11年10月まで東京飛行学校の存在が確認できますが、それ以降は項目自体がなくなっているので、これ以上遠藤辰五郎さんの足取りを追うことは出来ません。』

以上再録終わり。


で、それからも調査は継続していたのだけれど、なかなか画期的な展開は見えず記事にはできなかった。それでも、ポツポツと資料は見つかっていたので、備忘録を兼ねて書き留めておく。

「山階宮賞杯は新記録の遠藤辰五郎氏へ」
第二回一、二等特別賞杯懸賞飛行大会の結果山階宮賞杯は遠藤辰五郎氏が獲得する名誉をになった航空局賞帝国飛行協会賞は左の如く決定(略)陸上機一等 山階宮賞杯、航空局賞金千円帝国飛行協会賞金二千円遠藤辰五郎氏(以下略)<大正14年10月23日・読売新聞より抜粋>


「ついに待望の飛行機の座席に乗る」
(昭和初期)初めて飛行機にさわったのは、それからまもないころであった。一等飛行機操縦士遠藤辰五郎が、曲技飛行の地方巡業で小樽にニューポール24(甲式三型・冒頭参考写真)をもってきて、この地方で初めて離陸から宙返り、錐揉みなどの高等飛行を後悔したときである。小学校4年以上の生徒を、一人5銭の入場料で小樽築港の広場に集めたが、私は3年生で、入場する資格がなかった。そこで、5銭玉をにぎって、4年生の列のあとにくっついて不法入場したが、料金は前の日に学校でまとめて納めていたらしく、私は幸運にもタダで飛行機を見ることができた。いや、夕方最後の一人になるまで居残って、ついに座席にのせてもらうことに成功した。(中略)飛行機を分解して、貨車にのせるまで、そばについていたが、エンジンのあたりに寄ると、すばらしくいいにおいがした。ガソリンと潤滑油のにおいであった。降りてきたニューポール機は、まだエンジンが暖かく、美しい流線型につくられたカウリングの下から黒い油がしたたり落ちていた。(以下略)<野沢正著・飛行機博物誌より抜粋>

読売新聞・昭和4年9月27日の記事中に”同飛行場では陸軍航空写真の権威工藤哲郎氏を聘し航空写真の研究”とあるが、この工藤哲郎氏のことについて書かれた「工藤写真館の昭和」工藤美代子著、という単行本があり、本の中では遠藤辰五郎については直接触れてはいないが関係がありそうな部分を紹介すると、工藤哲郎は明治23年青森の五戸村に生まれ、14歳のころ八戸の呉服店で丁稚奉公をした後、17歳のときに北海道へ渡り札幌の写真館で働くようになる。大正2年に修行を終えると”流しの写真師”として北海道を放浪し、大正時代半ばに所沢の陸軍気球隊(のち陸軍航空隊)に写真技師として就職、昭和初めに退職し昭和4年1月1日に両国の旧・国技館近くに工藤写真館を開業した。開業当初の写真館はあまり流行らず、アルバイトで航空写真の仕事を引き受けていたと記載されており、遠藤辰五郎とは陸軍航空隊時代に知り合ったのだろう。この時、写真撮影と同時に商店街のビラを空からばらまくといいお金になったと言う。


実は、この前野飛行場については一度発表したことがあった。それは、まだ板橋区を趣味とすることを決めたまだ若いころ、SNSもブログもなく、ホームページ開設も一般的でなかった時代、せっかくいろいろ調べても発表する手段がなかったので地元の老舗史談会に投稿したところ、採用が叶った。ところが、当時の飛行場を実際に見たことがあるという方がおられ、私が調べて書いた格納庫の位置について誤っているとの指摘を受けた。”自分は小学校へ通う途中、いつも格納庫の前を通っていたから間違いない。あの時の友人がいたら一緒に証明してくれるのに、ああくやしい、、、”とそれはもう血涙を流さんばかりの抗議だった。それを言われても、当時を知らない自分には、残された資料を元に推測を交えて書くしかない。しかし、当事者からすれば、昔を知らない若造に自分の信じきっている幼少時代の思い出を汚され踏みにじられたようで、よほど悔しかったのだろう。

人の記憶(特に子供時代の記憶)がいかにあてにならないことなのか、これは良くあることだし、逆に、一次資料が残っていても、現実には違っていたり(例:金井窪駅廃止のいきさつなど)することもあり、なかなか難しい。
グラント・ハイツのことにしてもそうで、自分には当時の記憶はない。(返還前後に運動場に忍び込んだことがあった程度。)だから、資料を探し出したら、できるだけ評価(裏取り)した上で作業を進めなくてはならないのである。

‥それにしても、板橋区の空を悠々と飛ぶ複葉機の姿を、あのころに生まれ、見てみたかったなあ‥

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板橋区民、ヒュー J. ケーシーを知る。〜グラント・ハイツ黎明期探訪 #2〜

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 先日、調べものをしに国会図書館へ行った時のこと。ロッカー室の前で鞄の中身をビニール袋に移していると、後ろをそそくさと通り過ぎる人がいた。そこへ入れ替わるように警備員がロッカー室に入ると大声で、「お客さま、財布をお忘れでは!」と後ろを通り過ぎた人を呼び止めた。

その人は「あっ、すいません!!」とそそくさと戻り警備員から財布を受け取った。ん?どこかで聞いた声だな、と振り返ると泉麻人センセであった。センセは最近、アド街やタモリ倶楽部などテレビでもお見かけせず、実際に会うのもしばらくぶりで、やあやあお互いご無沙汰でと挨拶を交わした。センセは相変わらずお忙しそうで執筆の途中、調べ物をしにきたのだそうだ。


てなことで、ヒュー J. ケーシー研究の成果を公開する時がきました。いつものように言い訳するけど、今回公開したことも、今後また新たな資料が発見された場合は随時書き換えられたり変更があるので、ご容赦を。

‥では、始めます。

最初に、2冊の書籍を紹介する。両方とも同じ「DEPENDENTS HOUSING」とのタイトルが付いている。一見、洋書にみえるが日本で出版された本だ。タイトルを訳すと「占領軍住宅」。両方ともGHQの太平洋陸軍司令部技術本部設計課が手がけた本だ。

一冊は1948年6月に出版され、主に代々木のワシントンハイツについての解説が豊富な写真と共に紹介されていて、日本語の解説文も付けられている。
もう一冊は、出版年は不明で一部共通の写真が使われるが解説は英語のみ、内容は日本と朝鮮に造られた占領軍住宅の工事内容が掲載されている。

その英語バージョンの冒頭解説を Maijor General Hugh.J.Casey/Chief Engineer が書いているのだ。

と、ここでこの本が出版された背景を解説する。参考資料としては、『占領軍調達史』や『進駐軍電話帳』等を利用した。


1945年9月2日、戦艦ミズーリー上で降伏文章が交わされると、本格的な占領が始まった。まずは総司令部(GHQ)が置かれ、主な占領政策はすべてここから発令された。発令された文書のことを「SCAPIN・スキャピンー連合国軍最高司令部覚書」と言う。
物資調達の書式は、こう呼ばれた。「GPAー物資調達部」、「PDー調達要求書」、「PRー調達受領書」、また、連合軍最高司令官は"SCAP"、占領軍住宅は"DH"と表記される。

GHQ(SCAP)の下には実際に軍政を行った第八軍(初期の頃には第六軍も含む)の軍政本部があり、その下に続いて軍団軍政本部、地方軍政部本部、府県軍政部が置かれた。

1945年12月、日本政府は内示の形でGHQよりDHの設計作成の命令を受け、GHQのEngineer Division,Design Branch に"Japanese Staff"部門が置かれた。これは全国の主な土建業者によって構成された日本建設工業統制組合にその構成を委託し、各所から建設技術者達が招集された。

1946年1月31日、GHQは口頭で「占領軍家族住宅2万戸を建設すべき命令を近く発出すべし」との非公式予告を日本政府に行った。状況(概略)は以下の通り。

「1月31日午後2時、米軍司令部にて建設部長・リンドラウブ大佐より田中連絡部第四部長および各省係官に対し、米軍将士用宿舎2万戸建設につき、資材、材料、生産、運搬、労務、工事施工はすべて日本政府の負債とする。
総数2万戸は北海道・東北地区1割5分、関東・東海・近畿地区3割5分、四国・九州地区3割2分、朝鮮1割8分の割合で建設を行う(ただし朝鮮については資材の提供のみとする)。
期日は遅くとも4月1日より工事を開始するべし。本工事施工のため日本政府は直ちに適当な機関を設置すべくその組織について2月4日9時半までに報告をすること。」

1946年3月6日、SCAPIN-799「占領軍及びその家族の居住計画」という通達が日本政府に出された。内容を一部抜粋する。

「日本帝国政府に対し、1946年中に約2万家族を収容し得る家族住宅が要求せられる予定である。この要求を満たすために集団住宅の建設と、日本の請負業者および労働者を使用するが、現在続けられている既存の建物の改修工事も継続される。右の家族住宅が、連合軍の住居に適するようにするため、第八軍司令官は、計量されるべき集団住宅及び既存の建物の改修に対し、計画案と明細設計書を提示するはずである。(以下5項目略)」

この通達を受け、日本政府は3月15日に「連合国軍用宿舎等建設要綱」を定めた。以下概略。

「建設計画の総括的責任はGHQの指示に基づき戦災復興院が、工事の具体的実施は戦災復興院の指示監督の下に地方長官の責任において地方長がこれにあたる。
労務の提供は厚生省、輸送は運輸省、資材及び備品の生産並に調達は物資別に商工省または農林省、資材及び生産・調達の発注は戦災復興院、円滑な実施のための連絡機構の設置、等。」

3月16日、先のSCAPIN-799を補充するSCAPIN-823が発令される。これは、SCAPIN-799で示された建設用資材の生産及び建設の全事業を監督する権限および責任を第八軍司令官に委任するとともに、本事業遂行のために設置される機関の支所を仙台、横浜、京都、呉に、物資の集積所を横浜、大阪に設置すべきことなどを指令したものである。

このようにして、3月20日には戦災復興院特別建設部が、4月20日には地方機関として仙台、横浜、京都、呉の各市に特別建設出張所が設置されるとともに、DH建設業務遂行上必要な連絡折衝に当たらせるために管区特別建設委員会が設置され、関係各都道府県にはDH建設工事の具体的実施のため地方特別建設委員会および特別建設課(部)が設置されていったのである。

‥ここまで書いてきてなんなんだけど、書いている方もわけがわからなくなってきたので、ちょっと項目をあらためる。

ようするに、今後長期に渡るであろう日本進駐において必要となる占領軍用の家族住宅(DH)建設を、GHQは1946年になって早期に建設するよう日本政府へ要求してきた、ということなのである。

DHは、日本各地や朝鮮に進駐した占領軍将兵の家族用住宅だが、新たに建設される集団住宅地のほか、接収された施設や住宅とその改造や補習などもすべて含まれていた。要求2万戸のうち、約16000戸が日本国内に割り当てられている。このうち、一番規模が大きかったのが(後の)グラント・ハイツだった。

だから、グラント・ハイツありき、ではなくDH計画の一部にグラント・ハイツ建設が入っていたのだと理解していただきたい。
建設着工は、お茶ノ水の「文化アパート」や赤坂の「満鉄ビル」、牛込の「陸軍省」などの施設改修や、代々木練兵場跡の「ワシントンハイツ建設(1946年8月起工、翌年9月竣工)」から始まった。


ここでようやく、冒頭紹介の書籍「DEPENDENTS HOUSING」に話は戻る。

英語バージョンでは、1945年12月から1949年までの米極東軍技術部のデザインブランチが行った仕事がまとめられており、その概要についての解説をケーシー少将が行っている。中にはグラント・ハイツのレイアウトと写真や図面などが載っているらしい。らしい、と書いたのは、原書は大学の図書館や個人が秘蔵しており、容易に見ることができないからだ。ただ、幸いなことに、すでに出版されてから70年近く経過しているので、これらの本を元に書かれた建築関係の研究本がいくつか出ているので、それらを参考に内容を知ることが可能なのだ。

さて、このGHQのデザインブランチの組織だけれど、進駐直後のことで人員の入れ替わりがよく行われる。ここでは、一例としてワシントンハイツ着工の頃の進駐軍電話帳・1946年9月号を元に構成員について記載する。

「ENGINEER OFFICE」

Chiaf Engineer
Maj.Gen.H.J.Casey
Mrs.E.Wells(secretary)

Executive Officer
Lt.Col.J.P.Bushier
Miss.E.M.Walker(secretary)

Duty Officer

<Administration Division>

Maj.S.Gray IV

Chief Clerk

Files Section

<Engineering Division>

Col.B.D.Rindlaub

Lt.Col.L.M.Etherton

<Design Branch>

Col.D.G.Hammond

Maj.H.S.Kruse

LT.D.E.Griffin

Mr.H.D.Baker

Mr.B.C.Hibler

Chief Clerk

Reproduction Room

Japanese Architectural Staff

Japanese Utilities Design Staff

このうち、D.リンドローヴ大佐は1946年1月31日にDHに関する最初の口頭指令を出した人物である。G.ハモンド大佐とS.クルーゼ少佐(建築家)はデザインブランチ(技術本部設計課)の責任者だ。H.D.ベーカーは民間の建築家でアパートメント形式の集合住宅の改造・設計を担当している。この下に、約60名といわれる日本人スタッフが、主に建築と設備設計に分かれて勤めていた。

ケーシー少将は、「DEPENDENTS HOUSING」の中で、デザインブランチの仕事についてこう述べている。

「設計と建設が迅速に完成されるように日本の建築工法が最大限活用された。平面計画の決定に際し多くのバリエーション(120のコンビネーション)を持つ九つの基本的な家族住宅のプラン、東京の五つの居住区のためのレイアウトや、細かいユーティリティ計画をも含めた全体の完全なプランはすべてこのグループ(デザインブランチ)によって完成された。

比較的大きなコミュニティにはPX、教会、学校、自動車修理工場、劇場、ガソリンスタンド、診療所、その他通常の生活に必要なすべての公共施設があり、一番大きなコミュニティは1700世帯規模で計画・設計され(グラント・ハイツを指すと思われる。)、同規模の小都市に必要とされる設備や施設が用意された。」

続きを読む "板橋区民、ヒュー J. ケーシーを知る。〜グラント・ハイツ黎明期探訪 #2〜"

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