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板橋区民、老婆心ながら啓志線についての所感を述べる。

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 寒いっすね。赤塚氷川神社の田遊びまつりの帰り、いきなり吹雪になって驚きました。。


いつも当ブログを訪れていただいている皆様方には感謝申し上げております。時にはコメントを残していただいたりして、特にお褒めの言葉の場合などは励みになっております。

さて、コメントの中には、プライベートなことが書かれていたり、公開は控えた方が良いと判断される場合があり、そんな時は直接、メールでやりとりすることもあります。コメント欄に書き込みをされるときにメール欄にメルアドを入れていただければ、ブログ上には公開されずにこちらへメルアドが伝わるシステムになっております。

最近もそんな案件があり、一応こちらの所感はお伝えしておいたのですが、ふと不安を覚え公開情報として記事にいたします。


詳細には書きませんが、ある組織の方々が東上線の歴史を再確認する作業を行っていて、当ブログで過去に記事にした内容も参考にしていただいておられる様子。その中で啓志線についても調査されているのですが、まず、なぜ「啓志線」と呼ばれるようになったのか、という問題があります。

当ブログとしては、地元の古老の方が昭和50年代に証言をした、「鉄道敷設の工事責任者であった若いケーシー中尉の名を冠した。」との説を支持しています。しかし、ある方が出した冊子には「グラントハイツ建設司令官であったケーシー少将の名を冠した。」と書かれていたり、ウイキペディアにいたっては「グラントハイツ建設工事総責任者のケーシー中尉の名前からきている。」なんて載ってます。

この混乱の原因は、グラントハイツ建設に関わったケーシーという同姓同名の人物が二人いたからだ、と過去記事に書きました。一人は Hugh John Casey 少将、もう一人は Hugh B Casey 中尉
Hugh B Casey 中尉の名前は、東京都公文書館に所蔵されている”練馬倉庫に関する公文書”の中に出てきます。

Hugh John Casey 少将はマッカーサーの副官として有名で、ググればたくさんの情報が出てきますが、その情報の中に、彼の息子である Hugh Boyd Casey 少佐のことが出てきます。
Hugh Boyd Casey 少佐は1925年11月生まれ、そして1952年1月に朝鮮で乗機が墜落、戦死しました。当時の年齢は26歳で、戦死後に少佐へ進級したものと思われます。

カンの良い方だと、ここで「あれっ、啓志線のケーシーってひょっとしてこの親子じゃね?」と思うかもしれません。

まっ、そのことはまだ置いとくとして。

米国陸軍のH.P.には、Hugh Boyd Casey 少佐の経歴が載っており、18歳で陸軍に志願し、Rensselaer Polytechnic ictechnic(レンセリア工科大学・ニューヨーク州にある技術大学)で学び、1945年に少尉候補者学校を出て、父親のいるフィリピンのレイテ島やルソン島で日本軍と戦った、と書いてあります。

うん、この経歴なら終戦後、父親と共に占領軍として日本に上陸することは間違いないよなあ、と推測しちゃうけど、どうもしっくりこない。それは私が米国の軍制度に疎いからであり、疑問な部分が出てくるのだ。

Hugh Boyd Caseyは、1945年に officer candidate school-少尉候補者学校へ入学するのだけれど、教育期間は6ヶ月間なので、記録にあるように戦時中のフィリピン戦線に出征するには、少なくとも1945年の2月までには入校してなくてはならない。そして終戦時点で Hugh Boyd Casey少尉はまだ19歳だ。基本的には少尉から中尉に昇進するには1年半から2年かかるという。

終戦後、成増飛行場の一部分(東西補助滑走路)は飛行場関係者や大陸からの引揚者や元の地主に解放され、畑作を許される。ところが1946年に入り急転直下、飛行場跡地は連合軍に接収され、家族住宅となることが決まり、作物の収穫も待たずに工事は始められた。

建設工事に際し、まず必要になったのが、資材を運ぶための輸送手段だった。幸い、東上線の上板橋駅からは陸軍第一造兵廠練馬倉庫まで側線が敷かれており、その練馬倉庫を住宅建設の資材置き場にし、さらに旧成増飛行場跡地まで線路を伸長して作業を進めることが決まった。この側線がいわゆる啓志線で、記録によれば1946年3月25日全線開業とされている。

話を戻しますが、啓志線開業時点で Hugh Boyd Casey は20歳である。しかも、少尉候補者学校を卒業してからまだ1年満たない時期なので、中尉に昇進するのは早すぎるのでは?との疑問が湧く。実戦の経験もあり、親父のコネもあるので早く昇進したのか?なんてことも考えられるが、そもそも Hugh Boyd Casey少尉が終戦後に日本にいたという資料を私はまだ確認していない。

私が見つけたのは公文書館に残る数枚の Hugh B Casey 中尉が発した練馬倉庫に関する取り扱いの書類(1947年)だけだ。

だから、もし啓志線の命名などについて調べるならば、まだまだ補足する資料が足らず、もっと深く資料や情報をさがしていただきたいのだ。できれば Hugh B Casey 中尉が北町成増側線の工事を担当し、かつ、Hugh john Casey 少将の息子であるという確たる証拠が見つけ出せれば最高なのであるが、それか、せめて Hugh Boyd Casey中尉が「584TH ENGINEER CONSTRUCTION GROUP」に所属していたという資料が見つかればいいんですがねえ。。

それともう一つ、「啓志駅(グラントハイツ駅)」はどこにあったのか?という問題だ。これも文献により統一されていない感があるけれど、おそらく啓志駅も時期により複数地点に存在したのではないかと思う。
初期の頃は田柄川緑道の延長上近くの、現在の夏の雲公園内の場所に存在し、1950年代半ば以降に田柄高校隣のセブンイレブン近くにあった側線へ移ったのではないだろうか。


おっと、そろそろ北野神社の田遊び見学に行く準備をしなくちゃならない時間になった。ということで。

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コメント

たびたび失礼します。
「東京都光が丘高等学校公開講座『光が丘学』」(加藤竜吾)という資料によると、
啓志線は“1947年3月25日開業(日本国有鉄道;1981(1957))”となっており、“東武鉄道による資料関係では、1946年3月25日開業と記録されているが、工事や米軍の移転時期を考慮すると誤りと思われる”と書いてありました。
また、啓志線の名の由来については、チーフエンジニアとして1945年~1949年に来日していたHugh John Casey(1898-1981)にちなんだものである、とありました。
あと、啓志駅は田柄高校の北側の道路部分にあり、グラントハイツ駅とも呼ばれていたということです。著者が光が丘高校に在学中の1980年頃には同高校そばのセブンイレブン前のあたりに啓志駅のプラットホームが残っていたそうです。初期の駅が夏の雲公園あたりだったかどうかについては記載ありませんでした。

投稿: しがき伸也 | 2017年2月12日 (日) 03時41分

>>しがき伸也さま
いつもコメントをありがとうございます。

ご指摘にありますように、当記事は東武鉄道による資料に基づき、啓志線開業時期を1946年としてあります。国鉄の社史は未見ですが、昭和32年に出版された「練馬区史」には昭和22年(1947年)3月に「成増建設事務所」が設置され、4月に起工し翌年6月に完成したと載っております。他に練馬区で調査された古老からの聞き書き等にもグラントハイツの工事は昭和22年からとの証言があり、”東武説”は旗色が悪いのですが、啓志線着工時期を示す決定的な資料を私は確認しておらず、今はまだ1946年説を採っております。資料として一番手っ取り早いのは航空写真ですが、残念ながら1946年に撮影された写真は見つかっておりません。
ケーシーさんについては当記事の通りで、古老の証言による”工事責任者の若い中尉さん”説を採っております。最初の写真の公文書が根拠です。また、啓志駅の位置ですが、昭和20年代半ばの地図では掲出写真の位置に描かれているので、この地図を信用すれば、後年になって駅は移動したのではと解釈しました。

まあそんなことで啓志線については非常にあやふやな状態が続いているのが現状で、今後も新資料を発見次第、当ブログにて記事にしていきます。

投稿: | 2017年2月12日 (日) 15時24分

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