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板橋区民、同席する。

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 2月になりました。なんとなく日差しも春っぽく感じますね。

先日、光が丘にお住いの、成増陸軍飛行場を根拠とする本土防空飛行第47戦隊下で編成された陸軍特別攻撃隊/元・第194振武隊隊長堀山陸軍少尉のお宅へ伺った。

一昨年前の夏、練馬区のふるさと文化館で成増飛行場の講演をすることになり、その際の資料補強のために鹿児島の知覧特攻平和会館を訪ねた際、お世話になった平和会館の研究員八巻氏が、47戦隊で整備をしていた高橋氏に会ってインタビューをしに上京し、かねてより親交のあった堀山隊長のお宅にて調査を行うので成増の資料を持ってお前も来い、と堀山さんから誘われたのだ。

平和会館の八巻研究委員は、まだ40歳と若いが業界?では有名な方で、大学卒業後、一時企業勤めをしていたけれど戦跡を巡ることを趣味としていてそれが高じ、知覧の特攻平和会館の研究員に転職された。以来、200名以上の関係者にインタビュー取材をされ、さらには自腹を切ってまで全国に出かけ資料収集や関係者に会い話を聞き取るなど、戦争中の歴史記録を残すことに熱心な方である。

今回の取材の根本は、知覧特攻平和会館に常設展示されている日本に唯一(すなわち世界に唯一)存在する中島製キ−84・四式戦”疾風”の調査を行うことになり、そのために、当時、四式戦の整備を担当した方や操縦された方より話を伺いたい、ということだった。

知覧の疾風は、フィリピン戦に展開した第11戦隊所属の機体で、1945年1月に米軍に鹵獲され本土に運ばれ性能テストに使用、戦後アメリカの私設航空博物館(プレーンズ・オブ・フェーム)に払下げられレストアを経て飛行可能となった。後に、日本人実業家に買い取られ、1973年(昭和48年)に日本へ移送し航空自衛隊入間基地(旧陸軍航空士官学校・豊岡陸軍飛行場跡地)にて展示飛行が行われた。この後、中島飛行機の後身である富士重工業の航空部門たる宇都宮製作所に隣接する陸上自衛隊宇都宮飛行場に空輸され、当時の関係者らによる整備も行われつつ富士重によって飛行可能な良好な状態で維持されていたが、オーナーの死後に譲渡された先での保存状態が悪く、知覧町が取得した頃には飛行不能となり、今日に至っている。

以来、平和会館では一度も機体の状況確認をせず屋内展示を続けてきたが、今後、エンジンカバーを外して内部を公開するなどの展示を考えており、そのための予備調査を開始したところであった。(調査の後、レストアをして動態まで持って行く予定はありますかと質問をすると、莫大なお金がかかるので現状無理でしょう、とのことでした。残念。)

久しぶりにお会いした堀山隊長、高橋さんは大変お元気そうで、気力も衰えてはおられない様子だった。高橋さんは、高等小学校を卒業してから陸軍の整備学校へ行き、軍属(20歳未満なので兵にはなれない)として支那の天河飛行場(現在の北京空港)で飛行機の整備をしていた。大東亜戦争が始まってからは北朝鮮の会寧の飛行場で働き、その間に徴兵となった。成増に転属になった時期は記憶が曖昧で判然としないけれど、昭和19年に入ってからではないかと推測する。

外地時代の話では支那人と朝鮮人の気質の違いが印象にあり、北京は治安が良かったけれど現地人の食料事情が悪く、飛行場で下働きに雇用したり食事を提供すると床におでこを擦り付けるほど感謝されたが、朝鮮では飛行場周りで兵隊が耕作していた畑に現地人が盗みに入り、捕まえて咎めると「お前らは国を盗んだんだから作物ぐらい盗んだっていいだろう!」などと抗議されたり治安状況も悪かったそうで、支那はいろんな民族がいたので国意識が希薄だが朝鮮人はプライドが高いんだろう、との感想を持ったそうだ。

八巻氏には事前に、高橋さんは47戦隊に来てからは上官に気に入られ、整備隊長や戦隊長の身の回りの世話や連絡員をしていて、整備はあまりしていなかったのでは?と伝えていたけれど、やはりそのことは変わらず、八巻氏が知りたかった、展示の四式戦胴体部に残る弾痕の修理跡が、戦時中の日本軍の手によるものか、米軍による補修痕なのかなどの質問にはお答えにはなれなかった。

高橋さんによれば、47戦隊に来るまでにすでに外地での兵員生活が長く、軍隊内で制裁などになるべく会わないようにする知恵がついていたとのことだった。例えば、人の嫌がる便所掃除などを率先して行ったり、用事を作って将校勤務室へ入り、予定の書かれた黒板に書かれた兵隊達への装備点検などの予定表を盗み見て、事前に対処をしたりしてうまく立ち回ることを学んだそうだ。航空隊では、空中勤務者達はとにかく任務による疲労が激しく、腰を揉むなどの世話は特に喜ばれ、班の不始末で全員鉄拳制裁を加えられるところ自分だけ、貴様!何々してこい!などと先に怒鳴られ退出し、制裁から逃してもらったりしたこともあった。とにかく、軍隊生活は要領。なのである。

堀山隊長の話は、ご本人もいろいろな場所で話をされることも多く、いくつもの書籍に載っている。2015年にはNHKの取材にも応じ、ウエブサイト上の「戦争証言アーカイブス」にインタビュー映像とテキストが、6月4日収録としてUPされているので、興味のあるかたはご藍ください。

http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001130274_00000

聞き取り調査は2日間に渡って行なわれ、初めて伺う話も多く、有意義なことでした。70年以上もの昔の出来事を現在に話していただくことは考えるだに大変なことで、自分がもし90代となり、20歳ころの話を語れと言われてもどんなことがはなせるのか‥。戦時中の出来事がいかに異体験なことであったのか改めて考えさせられますね。


追記;
*平成29年4月16日付でニュースになりました。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170415-00000049-mai-soci

鹿児島県南九州市知覧町の知覧特攻平和会館が所蔵・展示する旧陸軍の戦闘機・疾風(はやて)について、
同館が初めての詳細調査に取り組んでいる。

現存する疾風は世界に1機だけといい、同館は「調査を通じ、当時の航空技術や開発に関わった人々の思い
などを明らかにしたい」としている。

同館などによると、疾風は、中島飛行機が開発し、太平洋戦争末期に約3500機が生産された。
時速は当時の日本の戦闘機としては最高クラスとなる620キロで、当時の技術を結集した名機。
本土防空で活躍したほか、特攻にも118機が使われた。知覧にあった特攻基地にも駐留した歴史があるという。

同館に展示する機体は、戦争末期にフィリピンで米軍に接収されたもので、1973年に日本のコレクターが購入して“里帰り”した。
その後は、京都市の美術館などを経て、95年に知覧特攻平和会館が買い取り、97年3月から専用展示室で公開している。

初の詳細調査は、2017年が同館の開館30周年に当たることなどから実施した。
機体の痕跡から、来歴や特徴を調べるのが狙いで、今年1月から、エンジンの覆いに刻印された製造番号などを確認してきた。
オリジナルの機器が多く残り、当時の塗装も分かる可能性があるという。
一方で、金属の腐食や塗装の剥がれといった、保存・展示を続けるうえでの課題も出てきた。

今後は、継続して機体の調査をするとともに、米国の公文書などにもあたり、軌跡をたどっていく。
同館の専門員、八巻聡さん(40)は「疾風は戦時における最高峰の技術の結晶。
一つの機体の軌跡を詳しくたどって時代背景、技術の創意工夫を解き明かすることで、
日本の歴史も見えてくるのではないか」などと話している。

同館では、「明らかになる疾風の全容」と題して、
これまでの調査結果を、映像やパネルで紹介する企画展を開催している。

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