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2017年2月

板橋区民、同席する。

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 2月になりました。なんとなく日差しも春っぽく感じますね。

先日、光が丘にお住いの、成増陸軍飛行場を根拠とする本土防空飛行第47戦隊下で編成された陸軍特別攻撃隊/元・第194振武隊隊長堀山陸軍少尉のお宅へ伺った。

一昨年前の夏、練馬区のふるさと文化館で成増飛行場の講演をすることになり、その際の資料補強のために鹿児島の知覧特攻平和会館を訪ねた際、お世話になった平和会館の研究員八巻氏が、47戦隊で整備をしていた高橋氏に会ってインタビューをしに上京し、かねてより親交のあった堀山隊長のお宅にて調査を行うので成増の資料を持ってお前も来い、と堀山さんから誘われたのだ。

平和会館の八巻研究委員は、まだ40歳と若いが業界?では有名な方で、大学卒業後、一時企業勤めをしていたけれど戦跡を巡ることを趣味としていてそれが高じ、知覧の特攻平和会館の研究員に転職された。以来、200名以上の関係者にインタビュー取材をされ、さらには自腹を切ってまで全国に出かけ資料収集や関係者に会い話を聞き取るなど、戦争中の歴史記録を残すことに熱心な方である。

今回の取材の根本は、知覧特攻平和会館に常設展示されている日本に唯一(すなわち世界に唯一)存在する中島製キ−84・四式戦”疾風”の調査を行うことになり、そのために、当時、四式戦の整備を担当した方や操縦された方より話を伺いたい、ということだった。

知覧の疾風は、フィリピン戦に展開した第11戦隊所属の機体で、1945年1月に米軍に鹵獲され本土に運ばれ性能テストに使用、戦後アメリカの私設航空博物館(プレーンズ・オブ・フェーム)に払下げられレストアを経て飛行可能となった。後に、日本人実業家に買い取られ、1973年(昭和48年)に日本へ移送し航空自衛隊入間基地(旧陸軍航空士官学校・豊岡陸軍飛行場跡地)にて展示飛行が行われた。この後、中島飛行機の後身である富士重工業の航空部門たる宇都宮製作所に隣接する陸上自衛隊宇都宮飛行場に空輸され、当時の関係者らによる整備も行われつつ富士重によって飛行可能な良好な状態で維持されていたが、オーナーの死後に譲渡された先での保存状態が悪く、知覧町が取得した頃には飛行不能となり、今日に至っている。

以来、平和会館では一度も機体の状況確認をせず屋内展示を続けてきたが、今後、エンジンカバーを外して内部を公開するなどの展示を考えており、そのための予備調査を開始したところであった。(調査の後、レストアをして動態まで持って行く予定はありますかと質問をすると、莫大なお金がかかるので現状無理でしょう、とのことでした。残念。)

久しぶりにお会いした堀山隊長、高橋さんは大変お元気そうで、気力も衰えてはおられない様子だった。高橋さんは、高等小学校を卒業してから陸軍の整備学校へ行き、軍属(20歳未満なので兵にはなれない)として支那の天河飛行場(現在の北京空港)で飛行機の整備をしていた。大東亜戦争が始まってからは北朝鮮の会寧の飛行場で働き、その間に徴兵となった。成増に転属になった時期は記憶が曖昧で判然としないけれど、昭和19年に入ってからではないかと推測する。

外地時代の話では支那人と朝鮮人の気質の違いが印象にあり、北京は治安が良かったけれど現地人の食料事情が悪く、飛行場で下働きに雇用したり食事を提供すると床におでこを擦り付けるほど感謝されたが、朝鮮では飛行場周りで兵隊が耕作していた畑に現地人が盗みに入り、捕まえて咎めると「お前らは国を盗んだんだから作物ぐらい盗んだっていいだろう!」などと抗議されたり治安状況も悪かったそうで、支那はいろんな民族がいたので国意識が希薄だが朝鮮人はプライドが高いんだろう、との感想を持ったそうだ。

八巻氏には事前に、高橋さんは47戦隊に来てからは上官に気に入られ、整備隊長や戦隊長の身の回りの世話や連絡員をしていて、整備はあまりしていなかったのでは?と伝えていたけれど、やはりそのことは変わらず、八巻氏が知りたかった、展示の四式戦胴体部に残る弾痕の修理跡が、戦時中の日本軍の手によるものか、米軍による補修痕なのかなどの質問にはお答えにはなれなかった。

高橋さんによれば、47戦隊に来るまでにすでに外地での兵員生活が長く、軍隊内で制裁などになるべく会わないようにする知恵がついていたとのことだった。例えば、人の嫌がる便所掃除などを率先して行ったり、用事を作って将校勤務室へ入り、予定の書かれた黒板に書かれた兵隊達への装備点検などの予定表を盗み見て、事前に対処をしたりしてうまく立ち回ることを学んだそうだ。航空隊では、空中勤務者達はとにかく任務による疲労が激しく、腰を揉むなどの世話は特に喜ばれ、班の不始末で全員鉄拳制裁を加えられるところ自分だけ、貴様!何々してこい!などと先に怒鳴られ退出し、制裁から逃してもらったりしたこともあった。とにかく、軍隊生活は要領。なのである。

堀山隊長の話は、ご本人もいろいろな場所で話をされることも多く、いくつもの書籍に載っている。2015年にはNHKの取材にも応じ、ウエブサイト上の「戦争証言アーカイブス」にインタビュー映像とテキストが、6月4日収録としてUPされているので、興味のあるかたはご藍ください。

http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001130274_00000

聞き取り調査は2日間に渡って行なわれ、初めて伺う話も多く、有意義なことでした。70年以上もの昔の出来事を現在に話していただくことは考えるだに大変なことで、自分がもし90代となり、20歳ころの話を語れと言われてもどんなことがはなせるのか‥。戦時中の出来事がいかに異体験なことであったのか改めて考えさせられますね。


追記;
*平成29年4月16日付でニュースになりました。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170415-00000049-mai-soci

鹿児島県南九州市知覧町の知覧特攻平和会館が所蔵・展示する旧陸軍の戦闘機・疾風(はやて)について、
同館が初めての詳細調査に取り組んでいる。

現存する疾風は世界に1機だけといい、同館は「調査を通じ、当時の航空技術や開発に関わった人々の思い
などを明らかにしたい」としている。

同館などによると、疾風は、中島飛行機が開発し、太平洋戦争末期に約3500機が生産された。
時速は当時の日本の戦闘機としては最高クラスとなる620キロで、当時の技術を結集した名機。
本土防空で活躍したほか、特攻にも118機が使われた。知覧にあった特攻基地にも駐留した歴史があるという。

同館に展示する機体は、戦争末期にフィリピンで米軍に接収されたもので、1973年に日本のコレクターが購入して“里帰り”した。
その後は、京都市の美術館などを経て、95年に知覧特攻平和会館が買い取り、97年3月から専用展示室で公開している。

初の詳細調査は、2017年が同館の開館30周年に当たることなどから実施した。
機体の痕跡から、来歴や特徴を調べるのが狙いで、今年1月から、エンジンの覆いに刻印された製造番号などを確認してきた。
オリジナルの機器が多く残り、当時の塗装も分かる可能性があるという。
一方で、金属の腐食や塗装の剥がれといった、保存・展示を続けるうえでの課題も出てきた。

今後は、継続して機体の調査をするとともに、米国の公文書などにもあたり、軌跡をたどっていく。
同館の専門員、八巻聡さん(40)は「疾風は戦時における最高峰の技術の結晶。
一つの機体の軌跡を詳しくたどって時代背景、技術の創意工夫を解き明かすることで、
日本の歴史も見えてくるのではないか」などと話している。

同館では、「明らかになる疾風の全容」と題して、
これまでの調査結果を、映像やパネルで紹介する企画展を開催している。

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⭐️2017年・田遊び強化週間はじまる。⭐️

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 立春も過ぎ、春の気配もちらほらと感じるようになりました。

旧正月のこの時期といえば、我が赤塚郷では(氷川)・北野・諏訪の各神社にて国指定重要無形民俗文化財に指定されている「田遊びまつり」が執り行われる。稲作の作業次第を模擬的に演じてその年の豊作を祈願する予祝行事である。

”田遊び”という呼称は東海地方で使われる場合が多いようで、板橋の田遊びも北野神社の伝承では1000年前から行われているとされているが、地域に残る古文書で確認できるのは幕末期からの記録である。ただし、板橋の田遊びで使われる唱え言葉には、中世期に使われた言葉が残っているという。

赤塚氷川神社は2月10日、メイン行事は午後3時半過ぎから。

徳丸北野神社は2月11日、メイン行事は午後6時過ぎから。

赤塚諏訪神社は2月13日、メイン行事は午後7時過ぎから。


だいたいこのような時間から始まるけれど、行事的には当日朝や前日からまつりは始まっている。今は北野も諏訪も神社の近くをバス路線が通っているので便利になった。

立春のこの時期は天候が急変することが多く、突然の大嵐に会うこともあるけれど、今年は週間予報を見る限り、田遊びの頃は穏やかな日が続くようですね。

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板橋区民、老婆心ながら啓志線についての所感を述べる。

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 寒いっすね。赤塚氷川神社の田遊びまつりの帰り、いきなり吹雪になって驚きました。。


いつも当ブログを訪れていただいている皆様方には感謝申し上げております。時にはコメントを残していただいたりして、特にお褒めの言葉の場合などは励みになっております。

さて、コメントの中には、プライベートなことが書かれていたり、公開は控えた方が良いと判断される場合があり、そんな時は直接、メールでやりとりすることもあります。コメント欄に書き込みをされるときにメール欄にメルアドを入れていただければ、ブログ上には公開されずにこちらへメルアドが伝わるシステムになっております。

最近もそんな案件があり、一応こちらの所感はお伝えしておいたのですが、ふと不安を覚え公開情報として記事にいたします。


詳細には書きませんが、ある組織の方々が東上線の歴史を再確認する作業を行っていて、当ブログで過去に記事にした内容も参考にしていただいておられる様子。その中で啓志線についても調査されているのですが、まず、なぜ「啓志線」と呼ばれるようになったのか、という問題があります。

当ブログとしては、地元の古老の方が昭和50年代に証言をした、「鉄道敷設の工事責任者であった若いケーシー中尉の名を冠した。」との説を支持しています。しかし、ある方が出した冊子には「グラントハイツ建設司令官であったケーシー少将の名を冠した。」と書かれていたり、ウイキペディアにいたっては「グラントハイツ建設工事総責任者のケーシー中尉の名前からきている。」なんて載ってます。

この混乱の原因は、グラントハイツ建設に関わったケーシーという同姓同名の人物が二人いたからだ、と過去記事に書きました。一人は Hugh John Casey 少将、もう一人は Hugh B Casey 中尉
Hugh B Casey 中尉の名前は、東京都公文書館に所蔵されている”練馬倉庫に関する公文書”の中に出てきます。

Hugh John Casey 少将はマッカーサーの副官として有名で、ググればたくさんの情報が出てきますが、その情報の中に、彼の息子である Hugh Boyd Casey 少佐のことが出てきます。
Hugh Boyd Casey 少佐は1925年11月生まれ、そして1952年1月に朝鮮で乗機が墜落、戦死しました。当時の年齢は26歳で、戦死後に少佐へ進級したものと思われます。

カンの良い方だと、ここで「あれっ、啓志線のケーシーってひょっとしてこの親子じゃね?」と思うかもしれません。

まっ、そのことはまだ置いとくとして。

米国陸軍のH.P.には、Hugh Boyd Casey 少佐の経歴が載っており、18歳で陸軍に志願し、Rensselaer Polytechnic ictechnic(レンセリア工科大学・ニューヨーク州にある技術大学)で学び、1945年に少尉候補者学校を出て、父親のいるフィリピンのレイテ島やルソン島で日本軍と戦った、と書いてあります。

うん、この経歴なら終戦後、父親と共に占領軍として日本に上陸することは間違いないよなあ、と推測しちゃうけど、どうもしっくりこない。それは私が米国の軍制度に疎いからであり、疑問な部分が出てくるのだ。

Hugh Boyd Caseyは、1945年に officer candidate school-少尉候補者学校へ入学するのだけれど、教育期間は6ヶ月間なので、記録にあるように戦時中のフィリピン戦線に出征するには、少なくとも1945年の2月までには入校してなくてはならない。そして終戦時点で Hugh Boyd Casey少尉はまだ19歳だ。基本的には少尉から中尉に昇進するには1年半から2年かかるという。

終戦後、成増飛行場の一部分(東西補助滑走路)は飛行場関係者や大陸からの引揚者や元の地主に解放され、畑作を許される。ところが1946年に入り急転直下、飛行場跡地は連合軍に接収され、家族住宅となることが決まり、作物の収穫も待たずに工事は始められた。

建設工事に際し、まず必要になったのが、資材を運ぶための輸送手段だった。幸い、東上線の上板橋駅からは陸軍第一造兵廠練馬倉庫まで側線が敷かれており、その練馬倉庫を住宅建設の資材置き場にし、さらに旧成増飛行場跡地まで線路を伸長して作業を進めることが決まった。この側線がいわゆる啓志線で、記録によれば1946年3月25日全線開業とされている。

話を戻しますが、啓志線開業時点で Hugh Boyd Casey は20歳である。しかも、少尉候補者学校を卒業してからまだ1年満たない時期なので、中尉に昇進するのは早すぎるのでは?との疑問が湧く。実戦の経験もあり、親父のコネもあるので早く昇進したのか?なんてことも考えられるが、そもそも Hugh Boyd Casey少尉が終戦後に日本にいたという資料を私はまだ確認していない。

私が見つけたのは公文書館に残る数枚の Hugh B Casey 中尉が発した練馬倉庫に関する取り扱いの書類(1947年)だけだ。

だから、もし啓志線の命名などについて調べるならば、まだまだ補足する資料が足らず、もっと深く資料や情報をさがしていただきたいのだ。できれば Hugh B Casey 中尉が北町成増側線の工事を担当し、かつ、Hugh john Casey 少将の息子であるという確たる証拠が見つけ出せれば最高なのであるが、それか、せめて Hugh Boyd Casey中尉が「584TH ENGINEER CONSTRUCTION GROUP」に所属していたという資料が見つかればいいんですがねえ。。

それともう一つ、「啓志駅(グラントハイツ駅)」はどこにあったのか?という問題だ。これも文献により統一されていない感があるけれど、おそらく啓志駅も時期により複数地点に存在したのではないかと思う。
初期の頃は田柄川緑道の延長上近くの、現在の夏の雲公園内の場所に存在し、1950年代半ば以降に田柄高校隣のセブンイレブン近くにあった側線へ移ったのではないだろうか。


おっと、そろそろ北野神社の田遊び見学に行く準備をしなくちゃならない時間になった。ということで。

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板橋区民、合掌する。〜振武隊・8月16日の特攻命令〜

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 相変わらず寒いですが確実に春めいてきてますね。

先週末、知覧特攻平和館の八巻研究員氏より、沖縄特攻第184振武隊員だった伊地知彰伍長が、昨年11月に亡くなられていたとのメールをいただいた。


伊地知さんは、成増陸軍飛行場の飛行47戦隊隷下で編成された振武隊の隊員で、約1ヶ月間成増で対艦特攻の訓練を受けた。昭和20年6月3日、成増を出発。防府基地を経由し、終戦直前に出撃地である都城東飛行場に移動した。
出撃命令が下ったのは8月15日であったが終戦の連絡が届かず、翌、16日払暁の出撃が決まり飛行場で待機し、その時を待った。

以下は前に当ブログで記事にしたかもしれないが、再録させていただく。


「残された遺書」


春日町にお住まいで、土地の名主を務めていたH家に、一冊の古びた芳名簿が大切に保管されている。名簿のページをめくると、戦中戦後に、H家を訪れたゲストが記念にしたためたサインが残っており、その中に、成増飛行場で編成された沖縄対艦特攻隊、第一八三・一八四振武隊員がのこした写真や、辞世の言が墨痕鮮やかに書かれていた。

芳名簿に記を残したのは、第一八三振武隊長・中村賢一郎大尉(後日少佐に任官)、一八四振武隊長・西田大六大尉(同)、室井安次郎伍長、伊地知彰伍長の四名であった。

同じく成増で編成された元振武隊長であった堀山さんに、この四名の消息について訪ねると、伊地知彰さん(大正十四年十月生まれ)が、鹿児島に健在であると知らせてくれた。
さっそく連絡を取ると、ご本人が電話口に出られ、確かにH家を訪れた記憶があると言い、足は悪いが元気であるとの事だった。ちょうど四七戦隊の足跡を辿るために、九州地方を巡る予定をしていたので、知覧の特攻平和会館へ向かう前に、お会いする約束をいただいた。

平成十七年六月、鹿児島市内の小高い丘の住宅街にある伊地知さんの家にお伺いした。
さっそく、H家で複写し、プリントした芳名簿の写真を見せると、「これは・・憶えがないなあ・・でも、確かに私の字ですね・・」と言ったきり黙り込んだ。そして、六十年も昔の遠い記憶を探り始めたのか、しばらく沈黙が続き、そして、伊地知さんはゆっくりと話しをはじめた。

「H家へはね、西田隊長が、近々成増を出発するので、ごちそうをしてあげようと言うことで出かけました。隊員達とそろって出かけたと思います。H家には隊長の許嫁者が滞在していて、一緒にトランプ遊びなどをしましたね。礼儀作法のしっかりした女性でした。芳名簿を記帳したのはその時でしたかね。家の方から頼まれて書いたんじゃないでしょうか。その晩は、離れに一泊しました。」
H家は、江戸時代から続く大きな茅葺き屋根の屋敷を構え、戦時中は高級軍人などが下宿をしていた。

伊地知さんは、少年飛行学校十四期の同期生とともに、五月三日に市ヶ谷の航空本部で辞令を受け、そこで隊長と初めて会った。特攻隊員になることは両親には言わなかった。成増飛行場へは、その日のうちにトラックで連れてこられた。すでに自分たちの乗る飛行機は用意されていて、尾翼に描く戦隊マークを皆で考えたそうである。
「訓練の無いときは、成増の郵便局近くにあった相談所に遊びに行きましたね。そこには、慰問の女学生が訪れたりしてましたから。」

成増で訓練中の五月半ば頃、菅副隊長(准尉)が、エンジン不調で墜落死した。
「成増は六月三日朝に出発しました。行き先は山口県の防府基地で、自分たちの部隊だけだと思うんですが、専任の整備隊が一緒についてきました。」防府では振武寮に滞在し、そこで同じ日に成増を発った、第一七九振武隊員の西郡曹長が、不在となっていた第一八四振武隊副隊長として引き抜かれた。防府を出発したのは七月八日のこと。暗くなったので、新田原基地へ降りて一泊し、翌日九日朝に都城東飛行場へ移動した。

早朝や夕暮れに移動するのは、敵機の来襲を避けるためであった。最初の頃は都城市内の料亭に宿泊していたが、
七月下旬、飛行場近くの三股村にある三角兵舎に移動した。七月三十日、都城東飛行場で演習中、H家の芳名簿に記帳した室井伍長が着陸に失敗し、命を落とした。また、翌三十一日、第一八三振武隊副隊長だった鈴木少尉が、飛行場近くの民家の庭に墜落して亡くなった。
     


「八月十六日の出撃命令」


八月に入り、米軍の本土上陸作戦は真近いものと予想されていた。
第六航軍は、手持ちの特攻部隊を九州に集結させ、十五日から二十二日にかけて沖縄方面の米艦船に対し、連続波状攻撃することを計画していた。そして、八月十五日になった。

昼前、隊員達は天皇陛下の重大放送があるからといわれ、飛行場大隊へ行きそこで放送を聞いたが、雑音がひどくてよく聞き取れなかった。よもや日本が負けるとは思っていなかったので、集まった者達は、激励の言葉をかけられたのだと思っていた。夕方、隊長より、明日、十六日払暁(ふつぎょう・夜明け前)特攻出撃するので準備をしろと言われ、興奮と不安の中、兵舎へ戻った。身辺整理をしたが、遺書は、H家宅に残したもの以外は書かなかった。

兵舎には敵の軍艦の模型が置いてあり、伊地知さんは、それを見つめながら、無事敵艦までたどりつき、体当たり出来るのだろうかと考えていたそうである。

しかし、伊地知さんの心の中には、小さな疑問も浮かんでいた。すでに沖縄は敵の手に落ち、次に、本土へ向かって攻めて来たとき、自分達がその先駆けとなり、真っ先に敵を攻撃するということはわかっていた。しかし、まだ敵が動いていない段階にもかかわらず、いま出撃するのはおかしいな、と思った。一体、自分達はどこへ向かうのだろう? 敵がこの場所にいるから、ここを攻撃するのだと、はっきりした命令は無いのだ。
(終戦後になってからのことだが、あの時、実は、隊長達は戦争が終わっていたことを知っていたのかもしれない、と思うようになったそうである。)

隊員達は、ほとんど一睡も出来ないまま夜を過ごし、午前四時にトラックに乗って飛行場へ向かった。
飛行場は、見たこともないような深い霧に覆われていた。それは、整備兵が飛行機への爆弾装着に難儀するほどであった。滑走路の前方視界も、五メートルくらいしかない。明るくなって来ても霧は晴れず、そのままピストで待機していた。そのうち、本部から伝令が来たのか、急に隊長から出撃の中止命令が出された。飛行機には絶対に近寄らず、兵舎に戻って待機しろという。そして、三角兵舎に戻った所で、終戦の知らせを聞かされたのである。

伊地知さんは、日本が本当にが負けたのかどうか、信じられなかった。
十七日、敵が上陸したら、特攻隊員が最初に狙われる、いう流言があり、皆、郷里に帰れと命令された。翌十八日に、伊地知さんは実家へ帰るため、鹿児島駅手前の重富駅まで行った。ところが、重富駅には、白い襷をかけた歩兵が立っていて、「兵隊は乗っていないか?日本はまだ負けてはおらん。原隊へ戻れ!」といわれ、実家を目の前にしながら、再び飛行場に戻った。そして、飛行場大隊の人間に事情を説明し、また泊まらせて下さいとたのんだ。

その時、こんなことがあった。
終戦の翌日、それまで二・三回出撃しては、機材の故障で戻って来た特攻隊員が、三角兵舎の裏山でピストル自決をしていたのである。その隊員は落下傘で包まれ、待避壕に埋められた。
伊地知さんが戻った時、その自決した隊員の許嫁者がいて、こんな葬方はあんまりだと訴えられた。そこで、火葬して寺に送ろうと、大隊から軽油を貰い、慰問に来ていた女学生達、四名に協力してもらって掘り上げ、軽油をかけて荼毘に付した。

結局、実家に帰ったのは九月一日だったが、家に戻ると、母親が腹膜炎を患い死にかけていて、息子の顔を見て安
心したのか、それから二日後に息を引き取ってしまった。

伊地知さんは、あれから六十年が過ぎた今でも、ふと思うことがあるのだと言う。
「・・あのとき、もし、霧がかかってなかったなら、(自分達は、戦争が終わったことも知らず)一体どこへ向かって飛び立っていたのだろうか・・」と。


この話は、伊地知さんが十九歳の時の体験談だ。
他国との争いで政治的な決着がつかず、”戦争”という状況に置かれた時、こんなことが起こるのだと知っておくのは大事なことであると思う。

伊地知彰さん、合掌。


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