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板橋区民、合掌する。〜振武隊・8月16日の特攻命令〜

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 相変わらず寒いですが確実に春めいてきてますね。

先週末、知覧特攻平和館の八巻研究員氏より、沖縄特攻第184振武隊員だった伊地知彰伍長が、昨年11月に亡くなられていたとのメールをいただいた。


伊地知さんは、成増陸軍飛行場の飛行47戦隊隷下で編成された振武隊の隊員で、約1ヶ月間成増で対艦特攻の訓練を受けた。昭和20年6月3日、成増を出発。防府基地を経由し、終戦直前に出撃地である都城東飛行場に移動した。
出撃命令が下ったのは8月15日であったが終戦の連絡が届かず、翌、16日払暁の出撃が決まり飛行場で待機し、その時を待った。

以下は前に当ブログで記事にしたかもしれないが、再録させていただく。


「残された遺書」


春日町にお住まいで、土地の名主を務めていたH家に、一冊の古びた芳名簿が大切に保管されている。名簿のページをめくると、戦中戦後に、H家を訪れたゲストが記念にしたためたサインが残っており、その中に、成増飛行場で編成された沖縄対艦特攻隊、第一八三・一八四振武隊員がのこした写真や、辞世の言が墨痕鮮やかに書かれていた。

芳名簿に記を残したのは、第一八三振武隊長・中村賢一郎大尉(後日少佐に任官)、一八四振武隊長・西田大六大尉(同)、室井安次郎伍長、伊地知彰伍長の四名であった。

同じく成増で編成された元振武隊長であった堀山さんに、この四名の消息について訪ねると、伊地知彰さん(大正十四年十月生まれ)が、鹿児島に健在であると知らせてくれた。
さっそく連絡を取ると、ご本人が電話口に出られ、確かにH家を訪れた記憶があると言い、足は悪いが元気であるとの事だった。ちょうど四七戦隊の足跡を辿るために、九州地方を巡る予定をしていたので、知覧の特攻平和会館へ向かう前に、お会いする約束をいただいた。

平成十七年六月、鹿児島市内の小高い丘の住宅街にある伊地知さんの家にお伺いした。
さっそく、H家で複写し、プリントした芳名簿の写真を見せると、「これは・・憶えがないなあ・・でも、確かに私の字ですね・・」と言ったきり黙り込んだ。そして、六十年も昔の遠い記憶を探り始めたのか、しばらく沈黙が続き、そして、伊地知さんはゆっくりと話しをはじめた。

「H家へはね、西田隊長が、近々成増を出発するので、ごちそうをしてあげようと言うことで出かけました。隊員達とそろって出かけたと思います。H家には隊長の許嫁者が滞在していて、一緒にトランプ遊びなどをしましたね。礼儀作法のしっかりした女性でした。芳名簿を記帳したのはその時でしたかね。家の方から頼まれて書いたんじゃないでしょうか。その晩は、離れに一泊しました。」
H家は、江戸時代から続く大きな茅葺き屋根の屋敷を構え、戦時中は高級軍人などが下宿をしていた。

伊地知さんは、少年飛行学校十四期の同期生とともに、五月三日に市ヶ谷の航空本部で辞令を受け、そこで隊長と初めて会った。特攻隊員になることは両親には言わなかった。成増飛行場へは、その日のうちにトラックで連れてこられた。すでに自分たちの乗る飛行機は用意されていて、尾翼に描く戦隊マークを皆で考えたそうである。
「訓練の無いときは、成増の郵便局近くにあった相談所に遊びに行きましたね。そこには、慰問の女学生が訪れたりしてましたから。」

成増で訓練中の五月半ば頃、菅副隊長(准尉)が、エンジン不調で墜落死した。
「成増は六月三日朝に出発しました。行き先は山口県の防府基地で、自分たちの部隊だけだと思うんですが、専任の整備隊が一緒についてきました。」防府では振武寮に滞在し、そこで同じ日に成増を発った、第一七九振武隊員の西郡曹長が、不在となっていた第一八四振武隊副隊長として引き抜かれた。防府を出発したのは七月八日のこと。暗くなったので、新田原基地へ降りて一泊し、翌日九日朝に都城東飛行場へ移動した。

早朝や夕暮れに移動するのは、敵機の来襲を避けるためであった。最初の頃は都城市内の料亭に宿泊していたが、
七月下旬、飛行場近くの三股村にある三角兵舎に移動した。七月三十日、都城東飛行場で演習中、H家の芳名簿に記帳した室井伍長が着陸に失敗し、命を落とした。また、翌三十一日、第一八三振武隊副隊長だった鈴木少尉が、飛行場近くの民家の庭に墜落して亡くなった。
     


「八月十六日の出撃命令」


八月に入り、米軍の本土上陸作戦は真近いものと予想されていた。
第六航軍は、手持ちの特攻部隊を九州に集結させ、十五日から二十二日にかけて沖縄方面の米艦船に対し、連続波状攻撃することを計画していた。そして、八月十五日になった。

昼前、隊員達は天皇陛下の重大放送があるからといわれ、飛行場大隊へ行きそこで放送を聞いたが、雑音がひどくてよく聞き取れなかった。よもや日本が負けるとは思っていなかったので、集まった者達は、激励の言葉をかけられたのだと思っていた。夕方、隊長より、明日、十六日払暁(ふつぎょう・夜明け前)特攻出撃するので準備をしろと言われ、興奮と不安の中、兵舎へ戻った。身辺整理をしたが、遺書は、H家宅に残したもの以外は書かなかった。

兵舎には敵の軍艦の模型が置いてあり、伊地知さんは、それを見つめながら、無事敵艦までたどりつき、体当たり出来るのだろうかと考えていたそうである。

しかし、伊地知さんの心の中には、小さな疑問も浮かんでいた。すでに沖縄は敵の手に落ち、次に、本土へ向かって攻めて来たとき、自分達がその先駆けとなり、真っ先に敵を攻撃するということはわかっていた。しかし、まだ敵が動いていない段階にもかかわらず、いま出撃するのはおかしいな、と思った。一体、自分達はどこへ向かうのだろう? 敵がこの場所にいるから、ここを攻撃するのだと、はっきりした命令は無いのだ。
(終戦後になってからのことだが、あの時、実は、隊長達は戦争が終わっていたことを知っていたのかもしれない、と思うようになったそうである。)

隊員達は、ほとんど一睡も出来ないまま夜を過ごし、午前四時にトラックに乗って飛行場へ向かった。
飛行場は、見たこともないような深い霧に覆われていた。それは、整備兵が飛行機への爆弾装着に難儀するほどであった。滑走路の前方視界も、五メートルくらいしかない。明るくなって来ても霧は晴れず、そのままピストで待機していた。そのうち、本部から伝令が来たのか、急に隊長から出撃の中止命令が出された。飛行機には絶対に近寄らず、兵舎に戻って待機しろという。そして、三角兵舎に戻った所で、終戦の知らせを聞かされたのである。

伊地知さんは、日本が本当にが負けたのかどうか、信じられなかった。
十七日、敵が上陸したら、特攻隊員が最初に狙われる、いう流言があり、皆、郷里に帰れと命令された。翌十八日に、伊地知さんは実家へ帰るため、鹿児島駅手前の重富駅まで行った。ところが、重富駅には、白い襷をかけた歩兵が立っていて、「兵隊は乗っていないか?日本はまだ負けてはおらん。原隊へ戻れ!」といわれ、実家を目の前にしながら、再び飛行場に戻った。そして、飛行場大隊の人間に事情を説明し、また泊まらせて下さいとたのんだ。

その時、こんなことがあった。
終戦の翌日、それまで二・三回出撃しては、機材の故障で戻って来た特攻隊員が、三角兵舎の裏山でピストル自決をしていたのである。その隊員は落下傘で包まれ、待避壕に埋められた。
伊地知さんが戻った時、その自決した隊員の許嫁者がいて、こんな葬方はあんまりだと訴えられた。そこで、火葬して寺に送ろうと、大隊から軽油を貰い、慰問に来ていた女学生達、四名に協力してもらって掘り上げ、軽油をかけて荼毘に付した。

結局、実家に帰ったのは九月一日だったが、家に戻ると、母親が腹膜炎を患い死にかけていて、息子の顔を見て安
心したのか、それから二日後に息を引き取ってしまった。

伊地知さんは、あれから六十年が過ぎた今でも、ふと思うことがあるのだと言う。
「・・あのとき、もし、霧がかかってなかったなら、(自分達は、戦争が終わったことも知らず)一体どこへ向かって飛び立っていたのだろうか・・」と。


この話は、伊地知さんが十九歳の時の体験談だ。
他国との争いで政治的な決着がつかず、”戦争”という状況に置かれた時、こんなことが起こるのだと知っておくのは大事なことであると思う。

伊地知彰さん、合掌。


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コメント

初めまして。兵庫県明石市に在住の古垣と申します。
突然のメールで失礼いたします。

過日、ネット検索中に、たまたま当該ブログの存在を知りました。
中でも、成増陸軍飛行場、飛行第47戦隊、振武隊についての記載がありましたので、興味深く読ませていただきました。 記事の内容から、飛行第47戦隊に関係のある方とお見受けしますが、多数の関係者に面談され、直接聞き取りをされている様子が伺え、その行動力に脱帽の思いです。

さて、貴ブログ「板橋区民、合掌する。〜振武隊・8月16日の特攻命令〜」の中で、第183・184振武隊の出来事について詳しいお話がありましたので、思わずメールさせていただきました。
小生、第183・184振武隊の機体(尾翼)に描かれた「部隊マーク」について、各種の本や資料を探しているのですが、未だに写真やイラストなどの手掛かりがありません。
そこで、当ブログの主様なら、ひょっとしてご存知ではないかと、厚かましいとは思いながらメールさせていただきました。
もし第183・184振武隊の「部隊マーク」をご存知なら、お教えいただくことは可能でしょうか?

勝手ながらメールにて失礼いたします。

@古垣

投稿: 古垣 兼道 | 2018年8月22日 (水) 22時52分

>>古垣さま
コメントをありがとうございます。第183・184振武隊の尾翼マークですが、第184振武隊の伊地知伍長にお会いした際に聞くことをしておりませんでした。当時の写真を見せていただきましたが、個人と隊員同士の写真のみで、乗機との写真はありませんでした。今から思えば、なぜ聞いておかなかったのかと悔やまれるばかりです。

投稿: | 2018年8月23日 (木) 16時08分

お返事ありがとうございます。
主様も、第183・184振武隊の機体(尾翼)マークをご存知ありませんでしたか。
第182、第185振武隊のマークは関係資料にも出てくるのですが、両振武隊のマークが中抜けになっているのは残念に思います。
本件につき、お手を煩わせまして申し訳ありませんでした。
これからも、当時の珍しい(初耳学的な?)話題など、楽しみにいております。

@古垣

投稿: 古垣 | 2018年8月23日 (木) 19時45分

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