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2017年1月

⭐️祝!2017年⭐️年頭にあたり、板橋区学芸員応募者にエールを送る。

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 板橋区民の皆さま、当ブログへお越しの皆さま、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。


新年第一回目の記事。冒頭には新年祝賀のお言葉を述べる今上天皇陛下のお写真を掲げさせていただく。遠くない時期のご退位のお気持ちを表明され、このお姿もあと何回拝見できるのだろうか。元日より天候に恵まれ、一般参賀も平成の御世になって2番目に多い人々が集まった。

さて、板橋区では平成28年度 板橋区職員(学芸研究)採用選考案内の募集を始めた。願書の締め切りは1月4日までで、第一次選考は1月22日、第二次選考は2月下旬を予定している。
学芸研究職は一般の職員とは違い、基本的には専門職として教育委員会の生涯学習課または郷土資料館に勤めることになる。その職務内容は以下のようになる。

考古学、歴史学等の資料に係る調査研究に関すること
考古学、歴史学等に係る調査への指導及び助言に関すること
近代化遺産、近代遺跡及び産業遺産に係る調査研究及び普及啓発に関すること
文化財に係る保護、管理及び普及啓発、活用に関すること
博物館資料に係る収集、整理、保管、展示及び普及に関すること
博物館資料に係る専門的、技術的な調査、研究に関すること

採用は若干名とのことで、前回(5年前)の倍率は130倍を超えていた。学芸員の正規採用は大変少なく、採用のある年に巡り合う運も必要だ。私も資格はあるけど年齢制限に引っかかるので志願はできない。もし採用されてもすぐに定年になってしまいますが。

現在はスポーツ施設や図書館などのように、資料館・博物館も管理委託制度が進み、自治体が専門職員を直に雇用する機会は少なく、ただでさえ定期採用のない学芸員となる道はほんとうに厳しい。その狭き門をくぐり抜けた方こそ、この板橋区の歴史を決める重責を担うわけで、どんな人が採用されるのかとても興味深いことだ。

応募をされる方は、板橋区が好きだからとか興味あるからという理由ではなく、「学芸員」という職種に就くことを目的としているので、募集があって初めて板橋区に関することの勉強を始めていることだろう。
前回募集の折、資料館にストックされていた過去の図録がことごとく売り切れとなってしまったそうで、今度の受験者の方々は板橋区の資料本を集めるのは大変なことかもしれない。おそらくはネットを駆使して調べたりしていて、当ブログも検索に引っかかってるのだろうかと思いますが、あまり参考にならなくて申し訳ない。逆にもし採用されたらこんなうるさい区民がいるんだやだなあ‥なんて思うかもしれない。

この板橋区は、武蔵野台地の縁に位置し、旧石器時代のころから現在まで延々と人々が暮らし続けている、大変に環境に恵まれた土地だ。日本史の年表に登場する出来事は、幕末における高島秋帆先生による”徳丸原調練”くらいしかないけれど、掘り下げれば実に様々な歴史がある。文化的には我が赤塚郷と板橋・志村地域の広岡郷との異なりなどが見えてくるはずだ。選考日まであまり日にちはないけれど、是非、ディープな板橋区の歴史を学んでいただければと願う次第である。


そうそう、試験日の前日だけど、1月21日より板橋区立郷土資料館では「平成28年度特別展 武具繚乱」が始まる。
この展示は、他区に住んでいたある収集家の方が、板橋区立郷土資料館で過去行われた展示を見て、その資料の扱い方に感激し、自分の収集した大名鎧他のコレクションを寄贈したもので、このほどようやく整理が終わり公開されることになった。オープニングでは鎧着つけ体験会や、我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会による和流と西洋流の砲術の違いを比較させる空砲演武が実演される。受験をされる方には是非、見学に訪れてほしい。もしかすると、試験の参考になるかも‥ね。(無責任)

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2017新年早々我が赤塚郷が騒々しい。

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 年末から続く穏やかな天気も今日で最後らしい。


そんな穏やかな天気に似合わず、ネットやマスコミ上では我が赤塚郷のことがニュースになっているようだ。

新年と言えば初詣。赤塚郷で有名な初詣の神社と言えば、菅原神社か氷川神社か諏訪神社。お寺ならば乗蓮寺。

このなかで、ダントツの集客を誇るのは東京大仏の鎮座する乗蓮寺だろう。統計を見たことはないけれど、おそらく板橋区内でも一番人出が多い寺社と思われる。正月の三が日は参拝客で溢れるため周辺道路が封鎖されるほどだ。

いつもの閑散とした雰囲気しか知らない赤塚郷の住民からしたら、大勢の人が押し寄せる異様な状態となるので、私なんかはこの期間、近寄らないようにしている。自分の住まいから近いところなのに、寒いなか1時間以上も並ぶなんてとんでもないことだ。

それが。

近寄らないようにしていたので気か付かなかったが、その乗蓮寺で起こったある出来事が、ネットの記事から火がついて、あれよという間にテレビニュースに取り上げられる大事件にまでなっていた。そのタイトルが、〜初詣「ベビーカー自粛」要請で大騒ぎ 「差別」批判へ寺側の意外な言い分〜というものだ。

要約すると、初詣に乗蓮寺へやってきた外国人が、入り口の階段横に掲げられた<ベビーカーご利用自粛のお願い>の看板を見て、ツイッター上に「「何の落ち度もない単に小さい子供を連れたママさんが初詣に来て、これを見て嫌な気持ちになると想像できないだろうか。なら松葉杖の人も、車椅子の人も足の悪い高齢者も、視覚障害者も全部遠慮しろと?」とつぶやいたことが始まりだった。

それは瞬く間に拡散し、賛否両論の大論争に発展して有名人や議員まで巻き込んでの大騒ぎ。あの乙武氏が「車椅子も同じように思われているのだろう」とつぶやけば、ある東京都議会議員は「少子化の最大の原因は、わが国が『子どもを産めば産むほど不自由になる社会』であることだと考えています」なんてな調子で便乗する。

ようするに”弱者いじめ”、に敏感に反応する方々がいっせいに蜂起した感がある。

だがしかしである。

この件に関し、乗蓮寺側に直接取材し、看板を設置した経過を紹介したメディアがあるので引用させていただくと、

「寺の住職によれば、2年前まではベビーカー、車椅子での参拝を優先させていて、専用通路を作り、係員を配置し安全に努めるという布陣を取っていた。ところが思わぬトラブルが起こる。ベビーカー1台にファミリーが5人、10人と付いてきて専用通路を通り参拝し始めたのだ。混んでいる時にはお参りするまで1時間待たなければならないため、それを見た参拝客が腹を立て「なんだあいつらは!!」と寺の担当者と小競り合いになった。

また、ベビーカーがあれば優遇される寺ということが知れ渡り、小学5年生くらいの子供をベビーカーに乗せて現れる親が相次ぐことになった。親は優先通路に入るとベビーカーをたたみ、降りた子供は敷地内を駆け回った。そこで寺は優先通路を通れるのは押している1人だけ、という制限を設けた。ところが、ファミリーは2手に分かれて参拝することになり、先に参拝を終えたベビーカー組の中には境内近くで合流のため待機する、ということが起こった。

そしてとうとう一昨年(2015年)、お年寄りがベビーカーに躓き、ベビーカーに抱き着く形で倒れてしまった。幸い軽傷で済んだのだがけが人を出したことには変わりがなく、「警察からの要請」もあり、昨年から「ベビーカーご利用自粛」の看板を出すことになった。」

との理由だったのだ。

あくまでも事故を回避させるために設けた看板であり、この理由を知って寺を責めるのは酷だろう。


個人的な感想だけれど、一概に寺社の僧侶や宮司は厳しい方が多いと感じている。これは、神仏に仕え、ある時はその代理として人と接する場合があるからで、中には日頃から近寄りがたい雰囲気の方もおられる。

件の乗蓮寺のご住職も結構厳しい感じを受ける方である。

だがしかしである。

あれは1998年の大晦日の夕方、小型ながら高機能なソニーVX1000というビデオカメラを買った板橋区民は、20世紀最後の年の板橋区の一年間の風景を残そうと、1999年年初めのシーンを乗蓮寺の大晦日から始めようと撮影の許可をもらいに行った。すると玄関にご住職の若林氏が現れ「こんな押し詰まった時になんの用だ!」と一括。

そりゃそうだ。大晦日の夕方に、しかも檀家ですらないのにへらへらと訪ねる自分の方が非常識だろう。

しかめっ面(すみません。)で文句をいわれつつ趣旨を説明したけれど、マスコミでもない素人のずうずうしい申し出、断られてもしかたがない。しかし、暫くして怒りを収めてもらったのか、最後には許可をいただいた。

さて夜11時。機材を持って再度訪ねるとご住職が、「これを着なさい」と乗蓮寺の名前が入った法被を貸して下さった。
こうして、晴れてオフィシャルな気分で特設の賽銭箱の後ろにカメラを据えて1999年新年の時を待った。当時はまだ暴走族の最後の時代だったらしく、そんな輩が列の先頭に陣取っていた。

参拝客の間から自然とカウントダウンが始まり、ついに新年。しまった。十分に距離を取ったつもりだが参拝客の投げるおさい銭が雨あられと降り注ぐ。そんなこんなで檀家しか撞くことができない鐘楼にまで上げていただき、撮影を終えたのは深夜2時を過ぎた頃だった。

ご住職にお礼と非礼を詫びて帰ろうとすると若林氏が一言、「お腹空いてるだろ?飯でも食べて行きなさい。」とご住職自ら牛丼をつくって振る舞ってくださったのだ。


参道入り口階段下に掲げられた看板には「ベビーカーご利用自粛のお願い」とキャッチされ、年末年始は境内混雑のためご入門をお断りする場合がございますとあり、別に高圧的な書き方ではないと思うけれど、お手軽にネット発信できる時代となり、深く読むこともせずに瞬間的に反応して大事に発展するという、面倒くさい時代になったものだと思う。


‥と、この記事をUPした後、寺への批判をブログに書いて騒動に加わった都議会議員(30代、お隣北区選出のO議員)が寺へ電話を入れ、ご住職とは直接話せていないが謝罪の意を伝えたというニュース続報があった。

O議員は、「住職さまは諸事中によりまだ直接お話ができておらず、折り返しのご連絡待ちという状態ですが、近々しっかりと直接訪問もして重ねての謝罪と、私のブログの意図を説明しに参りたいと考えています」と報告したそうだが、乗蓮寺側は、「寺院の看板はテレビのワイドショーでも取り上げられて、寺には罵詈雑言や無言の電話が昼夜を問わずにかかってくるようになりました。負担が大きいです。」その上で、「寺に事実確認をせずにしたO氏の主張がこれだけ広まりました。都議としてのご自身の発言がいかに大きな影響力を持つかを認識していただきたく思っています。ブログ内容はどういう意図だったのか、直接O氏本人とお話をしたいです。」と考えているらしい。

先月、所用にて赤塚郷の某幼稚園の餅つきへ行ったが、そこで、場に似合わないスーツ姿の中年とは言えないまだ青年ぽさを残す男性がフーフー言いながら餅をついていた。後に父兄を前に挨拶をしたが、男性は板橋区選出の都議会議員で、その日も別の場所でも餅つきをしてきたと言う。

昨年春過ぎから、なんとなく都議会議員と出くわす場が多くなった気がするが、おそらくは今年7月の都議会議員選挙を想定し、なんとか目立つように活動を始めているのだろう。特に定数が1人減らされる北区などは激戦となるんだろうなあ。

乗蓮寺さんも腹立たしいことだろうけれど、騒ぎに便乗されて利用されないようにと思うのである。

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板橋区民、追記する。

‥板橋区民は温泉が好きだ。
‥中でも、硫化水素臭立ち込める白濁した硫黄泉をこよなく愛する。


〜以上テンプレ〜


ここ数年、正月明けに草津と万座温泉を交互に尋ねていたが、先月、至高の大分塚原温泉&明礬温泉に行ったばかりなので、新年は自粛した。

だけれども寂しい。明礬で買った湯の花を溶かして入浴しても寂しい。ため息をつきながら、普段利用しているスパ銭のサイトで、1月のイベント案内を眺めていると、おお、板橋区周辺では最高ランクに認定(自分基準)している埼スポで3日間だけ”草津の湯を再現する”イヴェントが行われるじゃないか。

板橋区内には天然温泉施設が3箇所あり、そのうちの”さやの湯処”は、利用しているプロバイダ・@niftyの温泉ランキング2016で、全国総合ランキング13位東京地区では第1位に選ばれている。

確かに泉質、雰囲気、コスパ等、ランキングに異論はないけれど、あまりに混みすぎて”癒しを求める”温泉好きとしては足が遠のくのはいたしかたない。

その点埼玉スポは、我が赤塚郷から川越街道を西へ約15キロ、東上線の駅ではみずほ台にあたりアクセスが悪いが、泉質と露天風呂エリアの素晴らしさはそれを越える。ただし、露天風呂エリアの充実が仇となり、冬季、特に1月・2月は寒すぎていけないのである。今回のイヴェント湯も、あの寒い露天場で湯温が38度くらいしかなく、普段ぬる湯好きの板橋区民でも”修行かよ”と思うほどだったのが残念であった。


そうじゃない。追記したいのは温泉についてではなかった。

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先の大戦中、板橋区内には3箇所(赤塚・春日町・前野町)の高射砲陣地があったことを過去記事に書いた。その時、もう1箇所、茂呂にも陣地があったとどこかで聞いた記憶があり、2007年に板橋区役所の総務課が発行(調査は文化財係)した「板橋区平和祈念マップ」を確かめたが記載もなく、茂呂といえば現在の城北中央公園だろうと当たりをつけて空中写真を閲覧しても見当たらなかったので、記憶違いかなあ??と思い記事には加えなかった。

ところが。

事情により今の段階で情報の出処は書けないが、高射砲陣地はやはりもう一つ存在したことがわかった。その場所は、現在の環七小茂根1丁目の先、東京武蔵野病院(1928年設立)の裏手北側のところで、板橋区と練馬区の区界にまたがる一帯にあたる。小茂根は1965年に変更になった町名で、それ以前は”茂呂町”であった。

国土地理院のウェブサイトで当該地の空中写真を閲覧すると、確かに半円状に並んだ高射砲陣地が確認できた。写真は順番に、1936年、1944年、1948年、2013年のもの。残念ながら戦時中に撮影された写真は不鮮明で、高射砲の詳細な様子はわからない。しかし、細長い建物が確認でき、おそらくその建物は部隊の駐屯場だったのであろう。


しかし、なんでこの場所なんだろう?赤塚や春日町は成増飛行場の南北に設置されているのでわかる気もするし、前野町は志村の軍需工場街に隣接しているともいえる。まあ、3000メートルや5000メートル上空から見れば、それぞれの高射砲陣地はそんなに離れた位置に存在してるわけじゃないですが。

それにしても、なぜ高射砲陣地はこれらの場所に置かれたのか、その経過や基準が知りたいなあ‥

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20世紀最後の板橋区。

 
 

 寒い。数十年ぶりにしもやけになりました。。大人になったらならないものと思っていましたが‥

さて、すぐに鎮火したようですが、正月早々、我が赤塚郷の乗蓮寺が設置した初詣参拝の注意看板の文言について、ネット上で大炎上した。その時、当ブログにて乗蓮寺のことを記事にしましたが、文中で20世紀最後の年である1999年が明けた瞬間の映像を乗蓮寺で撮影していた、と書いた。

その当時、ビデオ規格は8ミリからDVに移行し、飛躍的に性能が向上した小型の3CCDDVカメラがテレビロケでも使われる(日テレの電波少年でよく見かけた。)ようになり、それまで何千万、何百万円もかかった放送品質(ギリギリだけど)のビデオ撮影&編集が、個人の自宅で行うことが可能になった。そこで、青白MacG3とソニーVX1000とDVビデオデッキを買い、最初の題材として、20世紀最後の年の板橋区内の主な歳時記を撮影し、編集して作品をつくろうと決めたのだ。

そんなことで出来上がったのが「板橋歳時記・1999年」なのである。
でも、作品は出来上がったものの上映する機会もなく、結局は自己満足な映像として編集テープはずっと眠っていた。

それから約20年の時が過ぎた。世の中のデジタル化は飛躍的に進化し、インターネットは日常になくてはならないものとなった。
デジタルコンテンツとしてよく利用されている”YouTube”が開設されたのが2000年のこと、日本で爆発的に利用が多くなったのが2006年からだ。

自分も当初から利用していたけれど昔は制限も多く、たしか1GBくらいしかUPロードできなかったように記憶している。動画なら5分以下だったかなあ。だから、短い作品か分割してUPするしかなかった。そんなことで、”板橋歳時記”もずっと仕舞いっぱなしになっていたのだ。

しかし時は流れ、映像の世界はDVからHDV(ハイビジョン)へ、さらにフルHDV、そして4K時代に突入した。YouTubeも時代に合わせ、現在では4K画像もUPできるような仕様になったのだ。こうなるとすでに化石のようなDV規格は、長時間の作品がUPできるようになった次第で、この機会に板橋歳時記をYouTube上で公開することにしました。

‥それにしても、あの頃はパソコンも動画を編集するには非力な時代で、文字を入れて調節するたびにレンダリングにおそろしく時間がかかり、編集が完成するのに1ヶ月くらいかかったような記憶がある。今から観るとちゃちな出来であり、直したくなるような箇所ばかりで公開するのが恥かしい。
全体で54分ありますので、こまぎれにでも視聴いただければ幸いです。

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板橋区民、先日放送の「なんでも鑑定団」に違和感を覚える。

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 10年来愛用してきた日立製洗濯機の調子がおかしくなった。脱水機能が動作をしなくなってしまったのだ。どうも脱水時に動作するロック機構(子供がいたずらで手を入れて巻き込まれないように蓋をロックする機能)がうまく働かないので作動しなくなるのが原因とわかった。修理を頼むと最低2万円はかかるし、10年も使えば寿命かなあ‥なんて思ったが、インターネットで対処法を探って見ると、似たような症状で自分で修理した経験談を書いているブログがあった。

ブログでは写真入りで懇切丁寧に説明されており、自分でやってみるか、と思ったが、最後のまとめ部分で、「ロック機構を強制的に行うように設定すれば、わざわざ部品を買い換えて修理する必要はなかったかも。」と書かれてあったので、そういうコマンド(メーカーのHPにマニュアルのpdfが残っていた。)を設定してみると、おお!動いたじゃん!さすがインターネット!昔ならとっくにあきらめていただろうが便利な世の中になったもんだとつくづく感心した。

‥って、今回は洗濯機の修理について書くのが主旨ではない。

テレビ東京の人気長寿番組「なんでも鑑定団」で、昨年末ころ放送された回に出品された、国宝に匹敵するという「曜変天目茶碗」が偽物ではないかと、ネット上ではずっと騒がれていたけれど、とうとう今週初めにワイドニュースや週刊誌の記事でも取り上げるようになった。番組や関係者からは明確な回答はまだないと言う。

そんなニュースで騒がしい中、先日火曜日に放送された回に、我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会の祖といえる高島秋帆先生が創設した高島流砲術の巻物が出品された。記憶にあるかぎりでは過去1、2回秋帆先生関係の品が番組に出たことがあった。

鑑定を担当したのは堺鉄砲研究会主宰のS氏。古式銃やそれらに関する資料の収集で有名な方だ。

さて、出品された巻物はS氏の解説によると、長崎の出島会頭であった高島秋帆が西洋の砲術について私財をなげうって研究し、ついに高島流砲術を立ち上げ、日本を取り巻く諸外国による侵略にいかに対処すべきかを「天保上書」として纏め、幕府に提出した時に添付した巻物(の写し-オリジナルは未発見)であると断定した。

この巻物は”写し”であり、書かれた時代も幕末近い物であることに異論はない。ただし、巻末に書かれた文言が気になるのだ。奥書には「天保十二年建白書控  図画 渡邉華山 川路蔵図書」とある。田原藩家老を務めた渡辺崋山が元を描き、川路(旗本・川路聖謨と思われる。)という人物が所蔵していたものだ。

建白書「天保上書」は天保十二年、長崎町奉行により幕府に提出されたものだ。その後、呼び出しを受けた高島秋帆が、幕府の砲術演習場である武州徳丸原で幕閣を前にして演武披露したのは、天保十二年五月(現在の六月下旬から七月上旬)である。しかし、その頃、渡邉華山は蘭学嫌いの旗本・鳥居耀蔵の策略により、すでに天保十年五月に捕らえられ(蛮社の獄)ており、伝馬町の旗本以上の武士や僧侶が入牢した揚座敷に入れられ、天保十二年一月には故郷の田原で蟄居を命ぜられている。そして同年の十月、池ノ原屋敷の納屋で切腹した。

高島流砲術が成立したのは天保五年ころであり、その当時、華山は田原藩家老として天保の大飢饉の対処に追われていた時期で、長崎に行った記録もない。だから実際には高島流砲術を見たことはないはずだ。もっとも、蘭学の研究家としても著名だったので、高島流砲術の知識は早い段階から知っていたかもしれない。

で、何に違和感を覚えたかと言うとですね、S氏は渡辺崋山が描いた巻物を誰かが写したもの、と番組で断定しましたが、本当にオリジナルを華山が描いたのかという詰めが甘いんじゃないかな、と感じた次第なのだ。

そもそも「建白書控」と書いてあり、その意味は”建白書の控え”として描いたものと解釈されるので、上書を見て控えを書かなければ意味が通じない。先にも書いたけど、そのころ華山は蛮社の獄で捕らえられていたので、そんなことがありえるのか、ということだ。

「天保十二年」と「渡辺崋山」というキーワードだけでS氏ほどの方がピンとこないのは、おかしな話だ。

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