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2016年12月

板橋区民、ふたたび発つ。


また、羽田空港へきてしまった。
ポケモンを捜しに来たわけではない。

和光市駅からのリムジンバスが40分ほどで羽田に着いてしまったので、とりあえずラウンジでコーヒーを飲むことにした。だから、この記事はライヴでお届けしている。

しかし、空港ってなんでこんなにワクワクするんだろう。子供の頃、赤塚郷から何度も"観光"で来たけれど、ワクワク感は変わらない。ただ747機が見られなくなったのは残念だ。

さて、今回、板橋区民は何処へ向かうのか‥それはまた現地に着いてからのお楽しみ!(続く)



‥ってなことで到着しました。
ここは何処?すべってころんで大分県。




久しぶりの大分空港。

‥5年ぶりか‥あれから5年か。。

帝都防空47戦隊桜隊の一楽少尉とご一緒に富士隊の伴少尉を訪ねて以来だ。
大分市内在住の伴さんは、戦後一時教職についていたけど役人に転職、大分市の副市長まで務め、最後は大分空港の社長にもなった方だ。特攻で散った幸軍曹とは親戚だった。厳しい人だった。。

残念ながら今回は、戦史を辿る旅ではない。レンタカーの準備もできたので、本降りの雨の中、いざ出発!

驟雨の中、車を走らせる。

‥着いた。



板橋区民は温泉が好きである。
特に、硫化水素の匂いのキツイ白濁した硫黄泉が大好きだ。

〜以上テンプレフレーズ〜

万座を始めその条件を満たす温泉を贔屓にしているが、別府地域は格別だ。中でも、明礬温泉は素晴らしい。
さっそくお目当の奥みょうばん山荘を訪ねたが、日曜日とあって満室。(風呂は3つあり貸切)仕方がないので広い露天風呂のある湯の里へ。ここは5年前にも訪れたことがある。

ああ、やっぱり白濁硫黄泉はいいなあ〜♨️

雨も上がり日も差してきた。せっかくだからもう一度奥みょうばん山荘へ行ってみる。

すると運良く部屋が空き、ようやく念願だった奥みょうばんの湯へ‥うーんやっぱり濃い。湯温は自分にはちょっと熱めだが、いやいや訪れた甲斐があった。あぁ、シ・ア・ワ・セ


で、今宵は明礬温泉と別府の間にある鉄輪温泉に宿を取った。
鉄輪温泉は街全体あちこちから温泉の煙が立ち上る風情のある温泉街である。お宿の温泉はナトリウム塩化物温泉でさやの湯処に似た泉質だけど、今日はハードな湯を巡ったので湯がやさしく感じる。〆としてはちょうど良かった。さて、明日は?

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板橋区民、期待ハズレてガッカリする。

おはようございます。

九州滞在2日目、さて、何処へ。



此処です。佐賀の武雄市。
あの、蔦屋の運営する武雄市図書館ですね。

今回、赤塚郷からはるばる九州まで出向いたのは、いつもの逃避行じゃないんです。
3月に長崎・熊本を訪れましたがその時のテーマは「高島秋帆先生没後150周年祈念の旅」でしたね、覚えてますか?

そう、今度の旅はその第二段「高島秋帆先生没後150周年祈念の旅 part2」なんです。

で、武雄市の蔦屋図書館の前に立ってるわけなんですが、ここには歴史資料館が併設されていて、秋帆先生が日本で初めて鋳造したモルチール砲を始め高島流砲術の資料がたくさんあるんです。



‥あるんです。

で、大きな山だか丘の麓にあるシャレオツな館内に入ってみる。

「いらっしゃいませ」

おお、さすが指定管理業者の運営する図書館だけあり、若いお姉さんに迎えられる。
ん?これは蔦屋じゃん。右手にはスタバが営業している。図書館は奥のほうと二階にあった。歴史資料館は?と見回すと、佐賀焼きの展示室がある。

「もしかしたらその奥かな?」

‥奥も佐賀焼きの展示をしている。

中に案内をしているおじさんがいたので聞いてみた。

板「モルチール砲、どこですか?」
お「収蔵庫なんですよ」
板「えっ?展示してないんですか?」
お「他館への貸出時か企画展の時には見れますよ」
板「普段は見れないんですか?」
お「普段は保管しとくんですよ。」

なんと、歴史資料館は保管庫だった。歴史資料館に常設展示室がないのである。

いや、噂には聞いていたがこれは由々しいぞ。百歩譲って希少古文書類が非展示なのはまだ理解できる。極端に言えばモルチール砲なんて雨ざらしでも平気なモノだぞ。武雄鍋島藩近代化の象徴みたいなモノを収蔵庫にしまいっぱとはまさかであった。

赤塚郷からわざわざ来たのに意味ないじゃん。

頭に来たので、昼飯に寄った井出ちゃんぽん店がポケモンジムだったので更地にしてやった。

さて次は佐賀城本丸歴史館へ向かう。



ここには、下板橋駅南隣にあった工場が解体された時に床下から出てきたモルチール砲があるはずだ。



あった。
入り口にどどーんと鎮座していた。

右はオランダ製で左が下板橋駅出土の蓮池藩のモルチール砲だ。下がその解説文。



いやー実物はデカイ。このモルチール砲は佐賀藩所縁のものなのだから仕方ないけど、板橋の資料館に収まらなかったのは残念である。

せっかくだから本丸歴史資料館の中へ入る。
こちらは武雄と違い、なかなか充実しているけど、この独特のスカスカ感は、あの展示業者が手がけてるんだろうなと思われた。



しかし、武雄の西洋流資料はこの佐賀城本丸歴史資料館の方で展示公開すべきじゃないかなあ。収蔵庫にしまいっぱなしじゃ資料が泣くよ。

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板橋区民、念願の地を訪ねる。

goodmorning🌤

九州3日目の朝が来た。



大分へ来たら、この温泉を素通りしてはならない。
板橋区民がこれぞ至高地上の極楽と認定する「塚原温泉」だ。

銀イオン含有量 日本一位。
酸性度の高さアルミニウムイオン濃度の高さ 日本二位。

前回も堪能したがその泉質が忘れられず、また来てしまった。ちなみに酸性一位の秋田玉川温泉にも行ったが、あそこは強烈過ぎて楽しめなかった。


塚原温泉から登り5分の所に、源泉である火口乃泉がある。ここから流れる湯を使っているのだからそりゃもう至高だろうってなもんだ。

風呂は家族風呂、内湯、露天があるが、前回は渇水で露天風呂が閉鎖されて利用出来なかったが、今回は大丈夫だった。


掛け湯を済ませ、いざ入湯。

‥あぁ、身体が溶け心が解けてゆく‥

湯温はマイベストな39度くらいか‥風が冷たいが肩まで浸かれば気持ちがいい。。暫くすると体がピリピリしてきた。いつもは途中から半身浴になるのだが、あんまり気持ちがいいので気がついたら1時間以上浸かりっぱなしだった。

ふう、これ以上浸かっていると運転に支障をきたす怖れを感じ、名残惜しいが塚原温泉を後にした。


さてお次の目的地は豊後高田市。此処は"昭和の匂いの残る町"をテーマに町おこしを企画し有名になった老舗の町だ。

うん。平日に来た自分が悪かった。

たくさんの観光客を向かえ入れるために作った大きな駐車場はガラーンとし、なんだか寂れた遊園地に来たような気分だ。
現在では、全国各地に同じコンセプトの町が出来てしまい、もはや目新しさはないけれど、草分けの町として訪れてみたかったのだが。
然し、お目当の昭和の商店街も閑散として虚しい。昭和の商店街のイメージは昭和30年代風の町並みと、「人で溢れた活気のある」風なのだが、いかんせん人が歩いてない。。なんだか、書き割りの中を歩いているような気分であった。

この町が「昭和」を売りに出来たのは、開発から取り残されたが故ではあるのだが、取り残された町並みを利用し次々に仕掛けを起こして人気を継続しつづけていくのは大変なことだと思う。あのディズニーランドでさえ毎年莫大な費用をかけて客をあきさない仕掛けをするのだから。



‥などと社会評論家の如く批評してみました。

しかし、町中至る所に観光客への注意書きが貼られているのは気になった。よっぽどマナーの悪い客に悩まされてきたのだろうけど、いまの状況ではうるささを感じるなあ。。

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板橋区民のカメラは見た。〜1978年・後楽園球場〜

注)「1978年・後楽園球場」のタイトルを見て飛んできたあなた、残念ですが「キャンディーズ解散コンサート」の記事ではございませんのであしからず。


板橋区民は、野球が好きではない。だが、ミーハーである。
(以上テンプレフレーズ)

高校生の頃、後楽園球場(現・東京ドーム)でボールボーイのアルバイトをしていた同級生がいた。当時、巨人の王貞治選手がホームランの世界一を達成し、日本全体が大いに盛り上がっていた。

そのことを知ったミーハー板橋区民は、同級生にモノクロフィルムを入れたコンパクトカメラを渡し、「お願いっ、ベンチ裏の写真を撮ってきて!」と頼んだ。気のいい同級生は「おお、いいよっ!」と気楽に引き受けてくれた。

今回はその時の写真を公開してみる。オールド巨人ファンには懐かしいんじゃないかな。

まずはこの写真から。

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誰だかわかりますか?
”背番号11番・SIPIN”、そう、JHON WHITE SIPIN選手ですね。なぜ一連の写真を撮ったのが1978年だと判明したのかはこの写真のおかげだ。この年、シピン選手は大洋から巨人に移籍してきた。大洋時代の長髪といかつい髭から、当時の特撮番組「快傑ライオン丸」にちなんで「ライオン丸」の愛称で親しまれていたが、紳士を求められた巨人からダメ出しされたのか、髪も髭もバッサリ切った姿に。
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お次は与那嶺二軍監督と立ち話する29番・河埜和正・内外野手、前年にベストナイン賞を貰っている。この写真を撮ってくれた同級生は河埜選手と仲が良かったそうだ。

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さて46番・小俣進投手。1976年〜1979年まで巨人軍在籍通算5勝。

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喝!の張本勲外野手。この時38歳、そろそろ引退も見えた年齢だが前年にはベストナイン賞を貰っている。

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ようやく板橋区民でも知っている、8番・高田選手。当時女性人気は一番だったと思う。さだまさし、いや、「グレープ」が「高田の背番号も知らないくせに♪〜」と歌っていたのもこの頃だ。

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インタビューを受ける18番・堀内恒夫投手。アニメ、巨人の星にも登場する古株の投手で、この年もゴールデングラブ賞を貰っている。他にも数々の賞を受賞した大エース200勝投手であり、長嶋監督の後を引き継ぎ巨人の監督にもなった。

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お次は初々しいルーキー姿の46番・角三男(盈男)投手、現在でも解説者として目にする機会がありますね。ボールボーイの向けるカメラにもポーズをとったりして愛想の良い性格が出ています。


さて、お待ちかねスーパースターの登場だ。

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背番号1・王貞治内野手。
前年、米大リーグのハンク・アーロンが持っていたホームラン記録を抜き、日本中が大フィーバーした。むろんミーハーな板橋区民も騒ぎに乗っかり、当時のスポーツ紙はまだ保管してあるはずだ。

1978年は長嶋巨人軍としては成績が低迷していた時期で優勝はヤクルトにさらわれ、11月には西武との交渉期限が切れた江川卓と入団契約を強行、江川事件の幕開けとなった年だった。

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でも、なんといってもこの人ですね。永遠のスーパースター、ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄監督。

もうね、纏ってるものが物が違う。長嶋・王の現役時代をリアルタイムで経験できたのは後世に自慢できる出来事だ。(リアル野球観戦はしたことないけど。)

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もうね、歩いているだけで絵になる。

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後ろ姿もカッコイイ。一度監督をやめて復活した時、春のキャンプでいつ長嶋監督が着ているウインドブレーカーを脱ぎ背中の番号と”NAGASHIMA”の文字を見せるのかをテレビカメラやマスコミが大騒ぎで追っかけていた時期があった。
いよいよウインドブレーカーを脱いだ瞬間、回りから「おぉー」っと大きな嘆息が漏れたっけ。それだけでニュースになる人だった。現在は病を得てテレビでお見かけする機会も少なく、それは寂しいことだ。

年末も近いこの時期、野球はオフシーズンでこの写真のころは、毎日のようにテレビに野球選手が出ていた。今はあまり見かける機会もなく、本当のファン以外は今年の首位打者とか最多本塁打だとか最多勝利投手なんて知らないんじゃないかなあ。サッカーにしてもプロ化当初はあれだけ盛り上がったのに、地上波ではスポーツニュース以外ほとんど見かけないし。

先日の豊後高田市ではないが、昭和は本当に遠くになりにけり、という感が強い。。

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板橋区民、年末に嘆く。

2004

 2016年もあと10日かあ‥

もういくつ寝るとお正月。年の瀬も近づいてきましたが、気になるニュースがありました。なんでも、除夜の鐘が近隣住民の苦情により取りやめになるというケースが、多発しているという。

大晦日の夜は子供でも夜更かしが許され、除夜の鐘を聞きながら年越しそばを食べるのが習わしなのだと日本人には染みついており、そういう状況ではない人たちも、まあまあ大晦日だから、と我慢するというかそんなものだとスルーするのかと思っていたのだが時代が変わったらしい。

ちょっと前は、保育園がうるさいと建設予定地の近隣住民が反対運動するというニュースがありましたっけ。日照権だの騒音問題だのは常に存在する問題ではありますが。

板橋区民にも、騒音問題について考えさせられる、というか一言いいたいことがある。

それは、当ブログで過去に記事にしたこともあるけれど、我が板橋区の誇る「西洋流火術鉄砲隊保存会」の活動についてである。

保存会は2002年に板橋区立郷土資料館で企画され、その背景には赤塚支所による赤塚地区における観光の目玉が欲しいとの思惑があり、基本的には保存会の設立趣旨に賛同したヴォランティアによる運営として始まったものだ。

実際に保存会として形を成すには紆余曲折があり、衣裳装備などはほとんど手作りであった。主役である銃については、西洋流とは本来ゲベール銃が使われるのだが、高島流の火打石式ゲベール銃は日本に数丁しか現存せず、管打式以降のものは現代銃に構造が近く、銃刀法に抵触する恐れがあるので自主規制として古式銃である火縄銃を用いて演武を行うものとすることになった。厳しい警察の取り締まりや火薬使用申請の苦労をしながら、わざわざ空砲を発砲するのは、当時の迫力を現代に再現するという使命があるからだ。

演武を披露する場所は、かつて高島流砲術が世に知られるきっかけとなった”武州徳丸ヶ原”であった、高島平地区で行われるのは必然だった。会場として廃校になった高島第七小学校校庭で毎年10月下旬に開催される高島平まつりに参加することが決まり、まつりの目玉イヴェントの一つとなった。

そして2004年の初披露以来10年間、明治維新という歴史の大変革のきっかけを作った「徳丸原調練」を現代に再現するということを、その”聖地”である高島平で続けてきたのだが‥、2013年を最後に現在では行なわれていないのである。

なぜか。

それは、高島平まつりから追い出されてしまったからだ。

理由は、

<音がうるさい。>

と高島平の住人から苦情をいわれたからである。

苦情を持ち込まれた高島平まつりの実行委員も、困まり果てた末での苦渋の判断であり、「西洋流火術鉄砲隊保存会」としても理解しての撤退だったが、高島秋帆先生と高島流を信奉する私個人としては忸怩たる思いがある。

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板橋区民の保管棚には、長年にわたり収集してきた高島秋帆先生の書画が積み上がっている。他の場所にもこの棚の倍以上の量を所蔵しており、秋帆先生の軸の収集としては個人では日本有数と自負している。
そんな信奉者からすると、高島流が世に広まった歴史的な場を”追い出される”というのは今でも納得がいかないのだ。

<音がうるさい。>

これは理解している。確かに銃の発砲音は大音響だ。しかし、演武時間は約20分、発砲は一銃士各5発だ。年に一度、それも高島平まつりで約10年続いていた演武。高島平の住人の方々の間には認知されていたものと思っていた。
しかし、年に一度、約170年前に、現在の高島平という土地で行われた、教科書の歴史年表に載るほどの出来事を再現するという文化的な行為は否定されてしまった。これは保存会の存在意義も否定されたも同然だ。

‥などと”愛が深いゆえに盲目となった”言葉を書き連ねてしまった。

まあ確かに空砲による砲術演武をしているなんて知らない人が、いきなり「ドッカーーーーン」なんて発砲音を食らったらびっくりするだろう。病に臥せっている方や精神的に音に敏感な方などには迷惑な話だ。しかし、迷惑だから空砲演武をやめてくれと集団抗議行動があり、数百人の署名を突きつけられたことはない。直接苦情をねじ込んできた方は、数人だったという。

日本は民主主義の国だ。民主主義は多数決で物事を決めるが少数意見も尊重しなくてはならない。数人の苦情のために歴史再現演武は、所縁の地から排除されてしまったのである。

ただし、だ。

「素晴らしい!」「感動した!」「これが幕末維新のスタート合図になった歴史史実なんですね!」「毎年続けてください!」などという感謝やお褒めの言葉をわざわざかけてくる人は一人もいなかったし、演武を再開してください!との声もないことも事実ではありますが。

まっ、そんなにヒネクレなくても、演武中の拍手やざわめきで支持は十分伝わっているのではと思いますけどね。


と言うようなことを、除夜の鐘が取りやめになるというニュースを聞いて書き連ねてしまった。高島平まつりの会場が、もし赤塚公園であったなら、西洋流演武も排除の憂き目にあわなかったのかもしれない。

そうそう、排除されたのは鉄砲隊だけではなく、同時に高島平の勇み太鼓と、大東文化大学応援団とチアガールも”鳴り物がうるさい”との理由で出演できなくなってしまった。チアガール達の溌剌としたチアーを毎年楽しみにしていたオジさん方もいたろうに、残念な時代ではある。

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2016年も年末だし、今年収集したお宝ベスト3でも選ぶか。

 新年まであと一週間を切りました。皆さん、走ってますか?

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以前から気になっていた映画「この世界の片隅に」がイオンシネマ板橋でかかっていたので鑑賞してきた。
この作品は11月の公開当初、全国63館の単館上映でスタートしたが評判が口コミで広がり、とうとう東武練馬でも観られるようになった。5番スクリーンという小さい小屋だったが、ほぼ満席だった。

この世界の〜はコミック原作のアニメ映画で、内容を短く説明すると「戦時中、広島市から呉に嫁いだ主人公の終戦直後までの日常」を描いたもので、似たようなテーマの作品は、テレビや映画など過去たくさん公開されてきた。

しかしである。絵面はほのぼの系にもかかわらず、実写やアニメなど、自分が今まで見てきた作品の中でもトップクラスにリアルに当時の様子を描いて(実際の戦時中を知らないが)いると思った。特に空襲シーンが秀逸(このような言い方はおかしいが)で、高射砲の破片がバラバラ落ちてきたりエゲツないアメ公の時限爆弾とか描写が細かい。終戦の日の町中に隣国の旗(連合国側じゃない)がさっそく掲げられたりなどなかなか攻めている。

映画は正月期間中上映しているようなので、興味のある方にオススメ致します。


さて本題といきましょう。

ありがたいことに、2016年は近年になくお宝が手に入った年であった。中でもNo.-1に輝くのはこの逸品。

Photo

板橋競馬場開催初日勝馬投票券-明治41年(1908)

もうね、手に入った時の感激は今も忘れない。存在を知った時から20有余年、手元にやってくることを願い続けてきた。
実はこの画像、ちょっと手を加えてあることを告白する。現物の券面には、前の持ち主があろうことか赤ボールペンで”間違った開催年”の書き込みをしているのだ。消そうと思っても砂消しや液体の消去剤を使用すると印刷してある地紋まで消してしまう恐れがあるので、せめて画像上で修復を施している。板橋競馬場の馬券は、横浜の「馬の博物館」に3点所蔵されているのが確認されているがいずれも初日以降のものだ。

それではNo.-2。

北豊島郡練馬村向山に昭和2年(1927)正式開業した直後、昭和4年(1929)に撮影された豊島園の動画映像

この動画は大正時代から昭和初期に個人でも入手できた動画撮影機・フランス製のパテベビーで撮影されたフィルムで、オークションで競り合いの末に手に入れた。このとき同時に、関東大震災を撮影したフィルムなど様々なものも出品されていたが、中の一つ、アメリカの無声映画が、無声映画時代の有名女優の幻の未発見フィルムだったことがわかり、ニュースになっていた。

そしてNo.-3。

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東武鉄道B型補充券・池袋駅発行大山駅行き-昭和22年(1947)

収集を始めた当初から東上線の切符を集めていたが、戦時中や終戦直後の切符は入手が困難で、特に青地紋の切符は使用期間が短く希少品だ。
先月、オークションにフライング東上号の座席指定券というマニア延髄の逸品が出品され、6万円以上の値段で落札された。あまりにも高額の競り合いで指をくわえて眺めるだけでしたが、板橋区内の駅じゃないしべつにいいさ、と強がって見送った。それにしても残念。。

2017年も、素晴らしいお宝が板橋区民の元にやって来ますように。。

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⭐️板橋区民、2016年最後の挨拶をする。⭐️

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 天気は良いですが風が吹きまくってますな。干している布団が吹っ飛ん‥いい歳こいてクダラナイっす。


年の瀬を迎え、ネットサーフィンをする方が増えたのか、ブログの過去記事について何人かの方からコメントをいただいた。
その中で、上野動物園に20数年勤務をされ、その後、葛西臨海公園の水族館でペンギンの飼育を行い、退職した現在もペンギンの研究を続けられている方=Fさんより「ペンギンミステリー」で示した疑問についての回答をいただいた。

記事については検索いただくとありがたいですが簡素にまとめると、常盤台住宅に亡くなるまで住んでいた人形研究家で日本画家の西澤笛畒が、浅草に住んでいた大正4年、日本で初めて生きているペンギンが浅草花屋敷で公開されたその姿をスケッチした。で、その軸装された絵を手に入れたがそこでいろいろな疑問が生じた。‥といった内容だ。

西澤笛畒さんは業界では著名な方で画壇の交友も広い。掲示の写真は笛畒さん宛に届いた私所蔵の手紙で、それぞれ「川合玉堂」「前田青邨」「西山翠嶂」からのもの。西山翠嶂(すいしょう)は日本画家で第1回帝展審査員となり昭和32年には文化勲章を受賞している。


さて本題の疑問点だけれど、一つは日本で初めてペンギンが公開されたのは上野動物園と花屋敷、どちらが最初であったのかだったが、これは今年秋に「ペンギンは大正4年6月9日に上野動物園で展示されたが18日に死亡し、その後、そのペンギンと同時に日本に来たお友達のペンギンが20日から花屋敷で公開された。」と言うことが当時の新聞記事により確認できたことで解決した。

もう一つは、笛畒さんの絵には”南極ペンギン”と讃に書かれておりペンギンの顔も白いし、このペンギンは記録にあるアデリーペンギン(顔が黒い)ではなく「アゴヒゲペンギン」ではないのか?という疑問だった。

その回答を、Fさんより寄せていただいた。それは、

掛け軸のペンギンの顔が白いのは「幼鳥」(生まれてまだ一度も換羽をしていない個体)だからです。羽が乾いていれば、
かなり白く見えます。

と非常に明快なご回答で、納得がいくと同時に無知のまま大声で記事に書いてしまったことが恥ずかしくなった。当時の花屋敷の広告も添付いただき、そこには”南極から来たペンギン”と書かれており、おそらく笛畒さんはそれを「南極ペンギン」と書いてしまったのだろうとのことだった。

さらに、来日したのは大人のペンギンと子供のペンギンで、上野動物園は成体である方のペンギンを選んだのではないか、との考察もいただいた。
これは、笛畒さんの描いたペンギンは大きく、上野のペンギンは小くてシロウト目には別の種類に見えてしまうけれど、幼鳥時のペンギンは成体より体が大きい場合が多く、顔が白いことと合わせると幼鳥と結論できるのだそうである。なるほどね〜

こんな拙いブログの記事に目を留めていただき、感想や情報を提供していただくことは本当にありがたいことです。まだ今年も一日残っておりますが、一足早くの店じまい、来年もどうぞ「板橋ハ晴天ナリ。」をよろしくご愛読くださいませ。皆様が穏やかな新年をお迎えできますように。

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