板橋区民のカメラは見た。〜1978年・後楽園球場〜
注)「1978年・後楽園球場」のタイトルを見て飛んできたあなた、残念ですが「キャンディーズ解散コンサート」の記事ではございませんのであしからず。
板橋区民は、野球が好きではない。だが、ミーハーである。
(以上テンプレフレーズ)
高校生の頃、後楽園球場(現・東京ドーム)でボールボーイのアルバイトをしていた同級生がいた。当時、巨人の王貞治選手がホームランの世界一を達成し、日本全体が大いに盛り上がっていた。
そのことを知ったミーハー板橋区民は、同級生にモノクロフィルムを入れたコンパクトカメラを渡し、「お願いっ、ベンチ裏の写真を撮ってきて!」と頼んだ。気のいい同級生は「おお、いいよっ!」と気楽に引き受けてくれた。
今回はその時の写真を公開してみる。オールド巨人ファンには懐かしいんじゃないかな。
まずはこの写真から。
誰だかわかりますか?
”背番号11番・SIPIN”、そう、JHON WHITE SIPIN選手ですね。なぜ一連の写真を撮ったのが1978年だと判明したのかはこの写真のおかげだ。この年、シピン選手は大洋から巨人に移籍してきた。大洋時代の長髪といかつい髭から、当時の特撮番組「快傑ライオン丸」にちなんで「ライオン丸」の愛称で親しまれていたが、紳士を求められた巨人からダメ出しされたのか、髪も髭もバッサリ切った姿に。
お次は与那嶺二軍監督と立ち話する29番・河埜和正・内外野手、前年にベストナイン賞を貰っている。この写真を撮ってくれた同級生は河埜選手と仲が良かったそうだ。
さて46番・小俣進投手。1976年〜1979年まで巨人軍在籍通算5勝。
喝!の張本勲外野手。この時38歳、そろそろ引退も見えた年齢だが前年にはベストナイン賞を貰っている。
ようやく板橋区民でも知っている、8番・高田選手。当時女性人気は一番だったと思う。さだまさし、いや、「グレープ」が「高田の背番号も知らないくせに♪〜」と歌っていたのもこの頃だ。
インタビューを受ける18番・堀内恒夫投手。アニメ、巨人の星にも登場する古株の投手で、この年もゴールデングラブ賞を貰っている。他にも数々の賞を受賞した大エース200勝投手であり、長嶋監督の後を引き継ぎ巨人の監督にもなった。
お次は初々しいルーキー姿の46番・角三男(盈男)投手、現在でも解説者として目にする機会がありますね。ボールボーイの向けるカメラにもポーズをとったりして愛想の良い性格が出ています。
さて、お待ちかねスーパースターの登場だ。
背番号1・王貞治内野手。
前年、米大リーグのハンク・アーロンが持っていたホームラン記録を抜き、日本中が大フィーバーした。むろんミーハーな板橋区民も騒ぎに乗っかり、当時のスポーツ紙はまだ保管してあるはずだ。
1978年は長嶋巨人軍としては成績が低迷していた時期で優勝はヤクルトにさらわれ、11月には西武との交渉期限が切れた江川卓と入団契約を強行、江川事件の幕開けとなった年だった。
でも、なんといってもこの人ですね。永遠のスーパースター、ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄監督。
もうね、纏ってるものが物が違う。長嶋・王の現役時代をリアルタイムで経験できたのは後世に自慢できる出来事だ。(リアル野球観戦はしたことないけど。)
もうね、歩いているだけで絵になる。
後ろ姿もカッコイイ。一度監督をやめて復活した時、春のキャンプでいつ長嶋監督が着ているウインドブレーカーを脱ぎ背中の番号と”NAGASHIMA”の文字を見せるのかをテレビカメラやマスコミが大騒ぎで追っかけていた時期があった。
いよいよウインドブレーカーを脱いだ瞬間、回りから「おぉー」っと大きな嘆息が漏れたっけ。それだけでニュースになる人だった。現在は病を得てテレビでお見かけする機会も少なく、それは寂しいことだ。
年末も近いこの時期、野球はオフシーズンでこの写真のころは、毎日のようにテレビに野球選手が出ていた。今はあまり見かける機会もなく、本当のファン以外は今年の首位打者とか最多本塁打だとか最多勝利投手なんて知らないんじゃないかなあ。サッカーにしてもプロ化当初はあれだけ盛り上がったのに、地上波ではスポーツニュース以外ほとんど見かけないし。
先日の豊後高田市ではないが、昭和は本当に遠くになりにけり、という感が強い。。
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