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板橋区民、受け取る。

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 ♬かきねのかきねの曲がり角〜♬

‥なんて歌い出したくなるような季節ですね。

前回、どんどん新ネタを公開します!なんて威勢のいいこと書きましたが、やっぱりネタをじっくりと育てつつ‥に変節しようかなあ。。

と、何をもったいぶってやがるんだとの声を感じながら始めます。


板橋区民は、板橋区(とその周辺)に関するいろいろな物を集めたり調べたりすることを使命としている。

最近、長野県の某所より、一冊のアルバムを入手した。
背面には「中山道 日本橋 板橋 1」と表題が描かれている。推測するに、長野県に住んでいたであろう歴史愛好家の方が、中山道を日本橋から辿り、途中の宿場の史跡を写真に収め解説を加え仕立てたアルバムと思われる。

制作年代は特定できないが、昭和50年に我が赤塚郷に引っ越した乗蓮寺が載っており、昭和47年撮影と時期が明記された写真もあるので、昭和40年代後半頃に纏められたのだろうか。たぶん、このアルバムを作られた方はおそらくは鬼籍に入られ持ち物は処分され、それが業者の手に渡ったのかもしれない。

最初のページには、直筆で書いた日本橋の解説が載り、東京オリンピックのどさくさで橋の上に高速が跨り無様な様をさらしている姿を嘆き、昭和35年に撮影したカラープリントの写真(当時としては珍しい)と高速に塞がれた昭和46年時の写真が貼られていた。

アルバムは日本橋から神田を通り本郷、白山、巣鴨へと続く。白山の項では大圓寺が紹介され、高島秋帆先生のお墓も解説されているのがありがたかった。

さて、西巣鴨の庚申塚から先はいよいよ板橋区内へ、東光寺の宇喜多秀家の墓から始まる。宇喜多秀家は戦国時代の豊臣方の武将で、関ヶ原で負けて八丈島に流された。前田利家の娘を正室としていたので、以降、子孫は幕末に至るまで前田家の援助を受け続け、維新により前田家の下屋敷があった板橋へ帰還し開拓に従事するが生活に馴染めず、数年後に八丈島へ戻ってしまった。(8家75人いたので本土に残った一族もいる。)

ずいぶん前に宇喜多家のことを調べたことがあり、今でも親族会があり池袋に事務所があったと記憶していたけど、現在ググっても情報が出て来ない。

東光寺から板橋宿を北へ進む。板橋区の文化財に指定されている物がふんだんに紹介されているが、庚申塔や石仏や寺社の建物の他にも中山道の通りの様子などのスナップ写真が入っているのが素晴らしい。しかも、相当撮り慣れておられるのかセンスが良いのか、どの写真も構図が上手い。”ただシャッターを押す”だけでは”人に見てもらう”写真は撮れないのである。


今回は紹介程度に留めますが、それにしてもどんなご縁があったのか、大切にされていたであろうアルバムが板橋区民の手元にやってきたのは感慨深い。入手したのは1冊(1巻?)だけだが、他のアルバムの行方はどうなったんだろう‥


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