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2016年11月

板橋区民も驚く。〜2016いたばし農業まつり〜

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 穏やかな秋晴れの日曜日。


気がついたら11月も半ば、ずいぶん前回記事との間が開いてしまいました。
更新をさぼってはおりましたが、秋の怒涛のヴォランティア活動等に時間を取られ‥なんて言い訳はしません。その間、新ネタをいろいろ仕込みましたので、どんどん紹介していきますね。(予定)

とりあえず本日はウオーミングアップ、ってなことで昨日今日と我が赤塚郷で行われている「いたばし農業まつり」の速報を。


今年は夏からの天候不順が影響し、特に野菜類の価格が異常に高いですね。庶民の味方、みらべるでさえキャベツ一個が400円という高値が続いている。もう、モヤシとかカイワレとか玉ねぎで凌ぐ他はない状況だ。

そんな時の「農業まつり」。会場では新鮮な野菜が安く販売されてることは承知なので、リュックを持って販売開始30分前に赤塚小学校へ出向いた。

「いかん、出遅れた。」

皆、考えることは同じだった。まつり開始は10時からなので会場自体は空いているが販売所の前にはすでに長蛇の列が‥。
これは無理だと思い、他県からの出店も廻るがいずこも長蛇の列、列、列。こんなことはいままでなかったと思う。今年の異常さをまざまざと知ったのであった。

早々に購入をあきらめ、空のリュックを担いで列を横目に引き上げる時、戦時末期や終戦直後の風景ってこんな感じだったのだろうかと、ふと、思い至った。あれから70年以上も経つのに野菜の販売所に群がる庶民の姿。空のリュックの軽さがさらにそんな想像を掻き立てる。

会場を後にしようとした時、苗木販売会場の隅に人だかりを発見、最初は気がつかなかったけれど近づいてみるとなんだこれは!こっちもたくさんの板橋区民がひしめいているではないか!?なんだ?ラプラスでも出るのか?と思ったが、こちらは10時から始まる苗木の無料配給に集まった人々であった。


‥かくして、私の「いたばし農業まつり」は開場前に終わったのでした。。

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板橋区民、受け取る。

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 ♬かきねのかきねの曲がり角〜♬

‥なんて歌い出したくなるような季節ですね。

前回、どんどん新ネタを公開します!なんて威勢のいいこと書きましたが、やっぱりネタをじっくりと育てつつ‥に変節しようかなあ。。

と、何をもったいぶってやがるんだとの声を感じながら始めます。


板橋区民は、板橋区(とその周辺)に関するいろいろな物を集めたり調べたりすることを使命としている。

最近、長野県の某所より、一冊のアルバムを入手した。
背面には「中山道 日本橋 板橋 1」と表題が描かれている。推測するに、長野県に住んでいたであろう歴史愛好家の方が、中山道を日本橋から辿り、途中の宿場の史跡を写真に収め解説を加え仕立てたアルバムと思われる。

制作年代は特定できないが、昭和50年に我が赤塚郷に引っ越した乗蓮寺が載っており、昭和47年撮影と時期が明記された写真もあるので、昭和40年代後半頃に纏められたのだろうか。たぶん、このアルバムを作られた方はおそらくは鬼籍に入られ持ち物は処分され、それが業者の手に渡ったのかもしれない。

最初のページには、直筆で書いた日本橋の解説が載り、東京オリンピックのどさくさで橋の上に高速が跨り無様な様をさらしている姿を嘆き、昭和35年に撮影したカラープリントの写真(当時としては珍しい)と高速に塞がれた昭和46年時の写真が貼られていた。

アルバムは日本橋から神田を通り本郷、白山、巣鴨へと続く。白山の項では大圓寺が紹介され、高島秋帆先生のお墓も解説されているのがありがたかった。

さて、西巣鴨の庚申塚から先はいよいよ板橋区内へ、東光寺の宇喜多秀家の墓から始まる。宇喜多秀家は戦国時代の豊臣方の武将で、関ヶ原で負けて八丈島に流された。前田利家の娘を正室としていたので、以降、子孫は幕末に至るまで前田家の援助を受け続け、維新により前田家の下屋敷があった板橋へ帰還し開拓に従事するが生活に馴染めず、数年後に八丈島へ戻ってしまった。(8家75人いたので本土に残った一族もいる。)

ずいぶん前に宇喜多家のことを調べたことがあり、今でも親族会があり池袋に事務所があったと記憶していたけど、現在ググっても情報が出て来ない。

東光寺から板橋宿を北へ進む。板橋区の文化財に指定されている物がふんだんに紹介されているが、庚申塔や石仏や寺社の建物の他にも中山道の通りの様子などのスナップ写真が入っているのが素晴らしい。しかも、相当撮り慣れておられるのかセンスが良いのか、どの写真も構図が上手い。”ただシャッターを押す”だけでは”人に見てもらう”写真は撮れないのである。


今回は紹介程度に留めますが、それにしてもどんなご縁があったのか、大切にされていたであろうアルバムが板橋区民の手元にやってきたのは感慨深い。入手したのは1冊(1巻?)だけだが、他のアルバムの行方はどうなったんだろう‥


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板橋区民、解析する。

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 日差しは暖かいですが風が強いと寒いっす。


久しぶりに成増飛行場について書きます。

これまでも、米軍が撮影した偵察写真はいくつか紹介してきたけれど、印刷された物だったり、解像度の良くない物ばかりだったが、密着プリントに近い解像度のオリジナル写真が手に入った。
冒頭の全体画像は、ブログの容量規制のために解像度を下げているけど、実物は70年以上前のプリントにしては実に鮮明だ。

今回の写真はとても興味深い。

パッと見、記載が少なく、ん?と感じるが、戦時中のことをある程度興味を持って調べている方ならピンと来るはずだ。それは、この偵察写真が兵器の配置を分析したものと推察されるからだ。

中でも注目していただきたいのは、右上の部分、<7H/AA>と矢印されたポイント。ここは、先日の”かがりやま”の記事で取り上げた場所に隣接し、新大宮バイパスを挟んだ赤一中の西側対面にあたる部分で、以下に拡大画像を紹介する。

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もう正解は地図上に書いてあるけど、赤塚にあった高射砲の陣形を確認できる画像なのだ。

前から、赤塚高射砲陣地の場所については国土地理院の地図閲覧サイトで確認していたけれど、ブログなど個人使用できなかったので記事にはしていなかった。
高射砲陣地は、砲を6門半円状に並べた陣形で、他サイトで紹介されている様々なパターンの配置の中の一つに当てはまるタイプで、高射砲本体は以下のように設置されている。

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板橋地域に展開していたのは、谷口正三郎大佐率いる高射砲第116連隊(他に常盤台の平和公園に前野町高射砲陣地があったー陣形は赤塚と同じ。)である。上の画像は九九式八糎高射砲の例で、この砲では高度1万メートルを飛行するB29には届かないため、昭和18年正式採用の三式十二糎高射砲が設置されていた可能性もあるが、終戦までに140門ほどしか製造されなかったので、板橋に設置された砲は九九式かもしれない。

偵察写真に書き込まれた略記号の意味ですが、「AA」は軍事辞典によると対空砲を表す略号で、飛行場に書き込まれている対空砲のポイントも他の資料と一致している。ただ、冒頭に書いてある、”7H”などの記号が何を表すのはまだわからない。「DISPERSAL」は”拡散”の意味で、飛行場の外側に描かれた破線の道には飛行機を隠匿する壕が点在するので”退避路”のような意味に使われているのだろうか。「FIRING BUTT」はそのまま”射撃場”の意味ですね。

さて、もう一点、「RADER S/L」とありますが、板橋区の発行する”平和祈念マップ”によると、この地点は高射砲第116連隊の駐屯所になっている。英語の読みからするとレーダーが設置されている場所と読み取れるけれど、高射砲部隊とレーダーは密接なので、両方とも間違いではないのだろう。S/Lは「S帯(2G~4GHz)」「L帯(1G~2GHz)」を表すのだろうか?下に矢印のポイント部を拡大してみる。

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画像を横切る白線は川越街道で、レーダーは現在のアコレ(元NTTの建物)の裏手にあたる場所に展開していたようですね。残念ながら、拡大しても配置の様子まではわからない。米軍側はなぜ分析できたのだろうか?この偵察写真は、文字を書き込んでからさらに複写してプリントされたもののようなので、オリジナル写真はもっと鮮明なのかもしれない。


‥それにしても、写真から判断するに、B-29偵察機は1万メートル以下の高度(1万メートルだと東京全体および周辺部まで写る)で飛んでいるようなのに、赤塚高射砲陣地に設置された砲はすべて砲門が真ん中を向き、臨戦態勢になっていないような気がしますね。米軍側にはナイスな写真でも我が軍としては何ともはや‥な感じですなあ。。

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板橋区民、ささやかに愉しむ。

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 雪だ。赤塚郷に、雪が舞っている。

11月の降雪としては実に54年ぶりのことらしいけど、誰もリアルには覚えていないだろう。

板橋区民は基本、引きこもりである。とくに用事もなく外へ出るのは面倒くさい。ネット時代になってからは図書館にすらあまり行かなくなった。メタボ対策のために走る歩くあるいは自転車、と思うことはあるけど結局は面倒くさい。

‥ところがどうだ。

ネット時代の寵児、「ポケモンGo」が我がスマホへダウンロードされて以来、外出があまり苦ではなくなってきたのだ。

まだトレーニングレベルは27ちょっとと、常用者の平均(TL30基準)よりは少ないかもしれないが、たまに”巣”とか”聖地”と呼ばれる場所へ出向くくらいの熱意は持っている。昨日から配信された「メタモン」も、さっそくゲットして連れ歩いている。

元来ものぐさなので、Goプラスも買ってしまいポチポチしていたが、それすらも面倒になり、最近では無印良品で購入した小型石鹼ケースにプラスを放り込み、輪ゴムで縛って自動化対策をして持ち歩いている。Goプラスはスマホと連動させると自動でポケストを回したりモンスターを捕まえ(赤玉1回だけだけど)てくれる便利道具で、何よりもアプリを立ち上げずにゲームが出来るのでだいぶ節電になるのと、卵孵化の距離カウントもしてくれるのだ。

なんだかすっかり企業の商売に乗せられているが、子供まで楽しめるようにすべてが低料金で設定されているのがうまい所だ。

先日、ネットのニュースである医療ジャーナリストが、”なぜポケモンGoにはまる中高年が多いのか”という考察をした記事が載っており、「自分の周りでハマっている医師達を観察すると、コツコツした作業をいとわない人間がはまりやすい傾向にある。」と述べていた。それは自分にも当てはまり、子供の頃からなにかの収集に嵌り続けて現在に至っているので相性が良いのだ。

昨日の勤労感謝の日は、都内でいまもっともポケモントレーナーで熱いエリアといわれる江東区へ出向き、木場公園でピカチュウ狩りをしてきた。なんんとか300匹捕まえて金メダルをめざしたい。園内は朝から人でごったがえし、同じ目的の中高年であふれていた。巣鴨が「おばあちゃんの原宿」ならば、今の錦糸町駅前や猿江恩賜公園や木場公園はさながら「中高年の原宿」だろう。

スマホゲーム=若者、という図式はポケモンGoにはあまりあてはまらない。それは、他のゲームにくらべてポケモンGoが”ゆるい”ゲームだからで、若者にとっては退屈極まりないのだ。

ポケモンGoは、基本ポケモンを集め図鑑を埋めるのが主だが、それだけではなく”バトル機能”がある。反応が遅くなる中高年にはしんどい機能で敬遠しがちだが、配信初日からダウンロードし8月9月は暑くてそんなに活動できなかったが、「聖地」へ遠征するようになってそれなりに強いポケモンが揃うようになってからは、”腕試し”がしたくなってきた。

我がトレーナーネームに「itabashikumin」と名付けてしまったが故、バトルフィールドはもっぱら練馬区内で、各所にあるジムを更地にして回るのが趣味になってきた。戦っているうちにナショナリズムが高揚し、「なにが来年は練馬区独立70周年だ。」「まるで板橋区が不法に練馬を占領していたみたいじゃないか。」「戦争に負けて板橋区が練馬区から撤退したわけじゃないだろうに」なんてフレーズが浮かんでくる。(注;練馬区民には悪気はありません!)
最後に、道場破りが看板を持ち去るが如く、更地にしたジムにCP10のピカチュウを置くのがささやかな愉しみなのである。(すぐ帰ってくるけど。)

‥にしても、強化のためにバッグやリュックを増量させたりアイテム課金がそれなりに必要になってきた。うまく搾取されているなあーと思いつつ、一度沈んだ沼(気持ちの良い温泉?)からなかなか這い上がれないのは確かなようで。。

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板橋区民、再び解析する for 練馬区

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 実は、板橋区民は気が小さい。

前回の記事で、練馬区内を(ささやかに)荒らし回っていると告白してから、どうも寝覚めが悪い。
なので、先日の成増飛行場偵察写真を使って練馬区部分をもう少し解析してみる。

この偵察写真は、成増飛行場および周辺に展開する対空兵器の位置を観察したものではないか、という流れで赤塚にあった高射砲陣地についての分析をしましたが、飛行場周辺にはもう一箇所、高射砲陣地が存在していた。それが「春日町高射砲陣地」だ。

春日町の陣地跡の畑には、20年ほど前までコンクリート製台座の一部が残っていた。存在を知って撮影に行ったのだけれど、残念ながらその時はすでに撤去されてしまっていて場所もよくわからなかった。
偵察写真には米軍が分析したマークは載っていなかったが、拡大して観察するとギリギリそうらしいと思われる物体が写っているのを見つけた。それが下の画像部分である。

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‥本当ギリギリで確信がもてない。そこで、国土地理院の空中写真閲覧サイトを覗くことにした。

ん?いつもすっとばしていた利用規定をきちんと読み直すと、ダウンロードできる画像については出典を明確にすれば利用可と書いてあるではないか。

なんだ、もっと早く気がつけよ、自分。

てなことで国土地理院画像より春日町高射砲陣地の戦時中の1944年撮影と終戦後の1948年の画像を並べてみる。

S19S23

ハッキリクッキリ写ってますね。高射砲の並びは赤塚と同じで、6門が設置されている。

場所は、現在の豊島園北西の春日町南地区区民館近くの住宅地と確認できた。下に1936年撮影の画像と2013年の画像を貼っておきますね。(もし間違っていたら訂正願います。)

S112013

駐屯していた部隊は、成増に本部があった第116高射砲部隊と思われます。


‥さて、なんだかすっきりしたし、天気の良いうちに練馬区のポケモンジムを潰しに行きますかな。

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