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2016年10月

板橋区民、ドキドキする。〜2016秋〜

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 今日から10月。ピカチュウを採集しに行った和光樹林公園ではまだ蝉が鳴いていたけど。

芸術の秋。文化財の秋。てなことで昨夜、大山の文化会館大ホールで「区民文化祭前夜祭」が催された。文化祭はこれから2ヶ月間の文化財ウイーク期間中に板橋区内で行われる様々な催しを紹介するステージだ。

板橋区民は、ある板橋区の重鎮の方より、この夜ステージで上映される各文化団体の紹介スライドを”心意気(ボランティア)”で作ってくれと依頼され、渡された日付は入ってるわブレてるはピンボケだわ傾いてるわの素材画像を前に苦心惨憺艱難辛苦(大げさ)して制作した。

総じて文化に対して割かれる予算は低いので(特に板橋区は福祉予算の割合が50%を超える)、このような催しに回される予算は低く、イベントに関わるポスターとか看板などの制作物は、シロウトの手作り感満載なものになってしまう。制作するスライドも、負担がかからないようにするには既存のシステムを使うしかないので、基本はパワーポイントで作った。

板橋区民は20年以上のMac信者なので、普段はほとんどWin機を使うことはないけれど、こういう会場で使われる機器はWin機のほうが接続の相性が良いので不本意ながらWin機で制作することにした。幸い、古いWinノート機は持っていたのでOSをwin7からwin10にまる3日がかりでバージョンアップさせ、パワーポイントを立ち上げた。

そもそも、これまでパワポ自体いじったことがないのでさっぱり使い方がわからない。最初にMac版のパワポで作ってそれをWin版に移植すれば、と思っていたのだがMac版とは操作方法が全く異なっていて、初めからWin機で作らなければならなくなってしまった。

画面も小さく古いノートでメモリも少ない機材を使い、しかも真夏の暑い盛りに遮光カーテンで暗くした部屋で悶々と編集を続け、我ながら稚拙な出来に愕然とし何度も修正を繰り返してようやく形を作った。

さて、出来上がったスライドは上映しなくてはならない。当然ながらそのための人員は割けないので製作者自ら会場で操作することになり、リハも兼ねて午後から会場入りした。
心配したプロジェクターとの接続も問題なく、PCの操作も怠りはなく、開演時間を持った。

午後5時開場。外にはすでに並んでいる方々がいたがなにせ大ホール、まだまだ半分も埋まらない。開始の6時でようやく1階の半分くらいかな、子供達が出るわけでもなし、まっ、こんなもんだろう。それにしても用意されたPA席は会場の前、それもど真ん中の席で居心地が悪い。周りは招待席だが誰もいない‥

第1部は主権者と主賓のあいさつで、最初はもちろん我が赤塚郷出身の坂本板橋区長。2番目の文化連会長挨拶、3番目に板橋区議会議長の挨拶だったけど、どこかで見かけたお顔。と、思ったら我が赤塚郷下赤塚駅近くにお住いの杉田ひろし区議だった。赤塚幼稚園ー下赤塚小ー赤三中出身の地元エリートだ。知らない間に東京23区特別区議会会長にもなっていて驚いた。4番目に登場したのは少し派手めの女性、下村博文衆議院議員の奥様。
以下、都議会議員4名ほか文化連代表etcと紹介が続く。なにせ1番前の一番目立つ席にいるので寝たりスマホを見たりもできず、朝礼だったら倒れてしまっただろう。

所々の挨拶が終わると第二部への準備のため一旦幕が降り、登壇していた主賓たちが招待席へ移動した。すると私の眼の前をすすっ横切り坂本区長へ挨拶に行く女性が。う〜ん、どこかで見覚えが〜と思っていたら、ああ、幸田シャーミンさんか、と気がついた。中年以上の方には懐かしいですね。約30年前の夕方フジテレビのニュースキャスターとして有名で、女性ニュースキャスターの草分けだった方だ。当時はほっそりとした印象だったけれど、熟女となられた今ではだいぶふくよかになられ、すぐにはわからなかった。

幸田シャーミンさんは生まれも育ちも赤塚新町で、祖父母が川越街道に接した中華料理屋を営んでいた。父親はグラントハイツの方で、シャーンミンさんは成増小学校開闢以来の秀才だったと、当時の先生から聞いたことがある。現在、中華料理屋の跡には幸田ビルが建っている。

さて、第二部、いよいよ出番だ。司会者の原稿に合わせてスライドを映し出して行く。機材はデジタルだけれど、操作はタイミングを見計らわねばならずアナログでおこなわなくちゃならないので、ドキドキする。時間は約30分間で30団体ほどを紹介していく。

スライドでは映像や画面の文字が動くなんて複雑なことはしないで、極力シンプルに作ったので問題は起こらなかったが、数時間前からPCを起動していて熱を持ってしまったせいか若干動きがもっさりした部分もあったけど、なんとか責任は果たし終えた。

その後、ステージ上には連盟に加盟する鳴り物や踊りの団体が登場しパフォーマンスをおこなった。もう自分に用はなく、最前列の席から離れようと思ったけれどタイミングを逸し、そのまま席に止まった。正直に告白するが、日本舞踊や阿波踊りなどはそれほど関心がない。
が、しかしである。ど真ん中にいるのでステージを擬視せざるをえず、目を見開いてパフォーマンスをみていると、ん?以外と心が動かされてくる。これは若い時にはなかった感覚だ。

民謡連盟が踊る板橋音頭などは、子供の頃から盆踊りで何億回も見聞きしていてウザ〜などと思っていたが、上手な踊り手がピシッと踊る姿はなかなか良い。とくに最後の近くに煌びやかな傘を使って舞うパフォーマンスは、ああきれいだなぁーと見とれてしまった。
どうもそれなりにジジイな歳になってくると感動の拠り所も変わってくるからなのだろうか。。


んー、でも参加してる方には申し訳ないけど、どうも「よさこい」は未だ馴染めないなあ。なんか自己陶酔な空気がするからかな、すみません。

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板橋区民、4年ぶりに再会する。〜2016年日本橋三越前にて〜

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 秋晴れの日。

板橋区民は、大観衆の中にいた。

板橋区民は、それほどスポーツに興味はなく、人ごみも大嫌いだ。

それなのに、なぜ性懲りもなくあえて大勢の観衆の中に身を投じたのか‥

本日、先夏に行われたリオ・オリンピック/パラリンピックのメダリスト達による、凱旋記念パレードが、銀座〜日本橋間2.5キロのコースで行われた。

4年前のロンドン・オリンピック記念のパレードは、銀座の範囲のみで行われたのでそりゃもう阿鼻叫喚の大騒ぎだった。今年は距離が倍以上増やされたので少しは人も空くかと思ったけれど、体感的には変わらない感じだった。
あとで報道を見ると前回は50万人、今回は80万人、事前予想は100万人超だったので思いの外少なかったようだけれど、いやいや、人人人の大騒ぎだった。

で、何故にパレードに出向いたかというと、感動したかったからである。4年前のあの感動を再び感じたかったのである。もうね、ライヴで体感するあの雰囲気は最高だ。たくさんの観衆が一斉に笑顔で手を振り、口々に「ありがとう!」「おめでとう!」やお気に入りの選手達の名前を叫んでいる。その中にいると、なんだか自分も励まされてるようなそんな不思議な高揚とした気分になるのだ。


やっぱり、スターは偉大だなあ。。


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板橋区民、まつりに行く。〜2016年秋〜

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 秋晴れの良い天気が続きますが暑いんだか寒いんだか。

秋本番。
我が板橋区内も各所で様々なイベントが行われておりますが、なんといっても最大のお祭りは”板橋区民まつり”だ。

地元のまつりに興味のない人にとっては何それ?みたいなもんだが、我が赤塚郷内で過ごしているとどこで何してるんだか、な状態だけれど、会場最寄の大山駅を降りると人人人、いや、板橋区民板橋区民板橋区民でごった返している。多分こんなにたくさんの板橋区民を目にするのはこのまつりの時だけだろう。

我が赤塚郷からも様々な団体がまつりに参加しているが、板橋区民も応援している西洋流火術鉄砲隊保存会の演武は今や名物だろう。今年は銃士が6名とさみしいけど、新規加入の若者が2名加わり花を添えている。
古美術品ではあるけれど、火器である火縄銃を使用するので十分に訓練を積まなければ演武には参加できないので、デヴューは来年春以降だけれど期待の新人である。

今回から、鉄砲隊保存会の他に赤塚城戦国絵巻武者行列改め「いたばし武者行列保存会」が区民まつりに参加することになった。”武蔵千葉氏”の武者をモチーフとした行列で、いままでは赤塚郷内だけで行列を行っていたが、名称をあらため、ついに板橋区の中央にデヴューすることとなった。

まだ中央地域の会員が少ないので行列はチト寂しいけれど、将来はもっと堂々とした行列になるだろう。鉄砲隊に比べると明らかにカメラを持った人の関心は高く、やっぱり日本人は甲冑だよねーなんて思ったりします。

区民まつりの物品会場も出店数がかなり多数なのだが、あまりに板橋区民板橋区民板橋区民と区民で溢れているので、いつも買い食いそびれるのが残念ではありますね。

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板橋区民、反省する。3 〜都電志村線廃止50周年〜

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 秋晴れかと思ったら秋雨。寒い‥


先週のこと、”Windy 41”さんという方から当ブログ記事にコメントをいただいた。コメントによれば「都電志村線から50年」というブログを立ち上げたので遊びに来て欲しい、とのお誘いであった。早速訪れると、1966年5月28日をもって志村線(18・41系統)が廃止となって今年で50年の記念(きっかけ)として記事をUPしたとの由であった。

‥ああ、そうだった。日頃、板橋区を趣味にしていると豪語し、とりわけ交通関係にうるさい記事を書いているのにそのことをすっかり忘れていた‥

しかし、である。反省を込めて何か記事にしなくては、と思ったが主要なことはすでにWindy 41さんのブログに書かれているし、いまさらなあ‥とおもいつつ取り敢えず手持ちの資料を探してみたけれど、出てきたのはハセガワ製MODEMOシリーズの模型と昭和30年代の定期券が数枚くらい。。

ここで醜い言い訳をさせていただくが、私は、生まれも育ちも赤塚郷文化圏の人で、同じ板橋区でも広岡郷文化圏については正直知識関心度が薄い。単に勉強不足だろ、と言われればそれまでだが、幼少時代の都電全盛期、赤塚郷から遥か彼方にある都電志村線については見たことも意識したこともなかった。自分の記憶にあるのは墓のある鶯谷から上野に行く時に乗った路線だけ、それも年に数度もないことなので都電の思い出はほとんどないに等しい。

Windy 41さんの作られた「都電志村線から50年」のブログは大変な労作で、参考にした資料も漏らさず明記されており、それに加えご自身の足で取材もされていてご努力が偲ばれる。しかし、あまりにも”都電志村線愛”が強いため、盲目となられている部分があるかなあ、との感想を持った。もちろん、”無知”からくる盲目ではなく、”愛”が根底にあるので、それで許されるし、それでもいいのだ。当ブログなんてその典型だ。

以前、市井の研究者はカースト下位だ、なんて自虐的なことを書いたけど、資料館や役所組織にいる専門委員と市井の研究者の最大の違いは、「仕事として対象を見ている」と「愛のみを根源として対象を見ている」の違いだ。愛は偉大だが時に歪んだり盲目になったりもする。だから、専門委員の目からみたら地域史家なんて、偏執だったりストーカーだったり変な人が多いと思われるのだろう。

と、都電志村線についてのネタがないのでつい余計なことを書きすぎました。

Windy 41さんに敬意を払い、「都電志村線から50年」の記事で触れられている一部の参考資料写真をUPしておきました。一つは志村にある総泉寺が浅草から引っ越してきた直後に撮影されたもので、開削された当時の雰囲気が残る中山道志村坂の写真。ここへ1955年6月に開業した志村坂上ー志村橋間の線路が敷かれた。
あとは、「志村線謎の写真」の項目に関連した部分の住宅地図で、昭和44年度の地図より。取材時期はそれよりちょっと前だろうから、廃止直後の様子がまだわかるかもしれない。

資料調査で国会図書館も何度か訪れておられるようですが、「地図室」には昭和37年度版の板橋区住宅地図があるので、もし未見ならばご参考にされればと思います。

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板橋区民、お台場をめざす。〜都バスでGo!〜



おはようございます。

ちょっと変な始まりですが、本日は変則ライブでお送りします。

ここ半年くらい旅に出ていない板橋区民は、フラストレーションが溜まり、つい要らぬことまで書いてしまったりする。

そこで、プチ旅に出ることにした。なるべくお金をかけずに遠くへ。うん、都バス一日券、これだ。500円で乗り放題。行き先は‥

よし、お台場だ。板橋区内では捕まえられないレアポケモンをゲットする。
そこで早速出発、赤塚郷からだと最寄りのバス停は南常盤台か。電車は使うが最小限だ。

経路はスマホナビで把握。王子駅行き朝8時32分発。ところが案の定、10分遅れでバスがきた。次のバスにスムーズに繋がらないと時間ナビとしては余り意味がない。


案の定、遅れて王子駅に着いたのでナビ案内の浅草行きバスは出た後、次のバスを待つことに。すぐに来たので乗り換えの二天門まで。
二天門からは10時に錦糸町駅行きに乗る。この路線はスカイツリーを通るが途中降りる停留所をスルーしてしまい、錦糸町駅へ。


錦糸町駅からは10時37分発急行05番日本科学未来館行きに乗る。
11時20分、ようやくパレットタウン(青海駅)に到着。所要時間は約2時間半であった。のぞみなら大阪着いとるぞ!と怒ることもない。プチ旅だからね。

さて昼餉をとってからレアポケモン狩に出るとしよう。出てくれればいいケド。



昼餉をマックでささっと済ませ、いざ勝負。先ずは船着場へ。しかしここはコイルとビビリ玉がよく湧く。たまにニャースも。

開始45分、なんだかドドドっと言う地響きが。顔を上げると群衆が大移動している。これはもしやと合流すると横からどんどん人が集まってくる。民たちは口々にラプラスだ!と声を上げ走る。これが噂のラプラスダッシュか!と流れに巻かれながら走る。数百人の人間が塊になって走る。思わず東京マラソンかよ!と、呟くと砂浜に人の塊が出来ている。あそこだ!と近寄るとiPhoneに振動が。
ラプラスである。本当に出た。ズリの実とハイパーで立ち向かうこと数回。


ラプラス、ゲットである。これが一番のレアポケモンなのである。

ふと周りを見渡せば無事にゲット出来た人々が安堵の笑みを浮かべながら元来た道を戻って行く。すれ違いには遠くからダッシュして来た民たちがまだ押し寄せて来るのだった。


あっと言う間に午後4時になった。超レアポケモンのラプラスもゲットしたし、そろそろ潮時か。
16時19分、最初に降りたパレットタウンのバス停から森下駅行きの急行バスに乗る。帰りは遠回りせず池袋駅をめざすことにした。

都バスを使うには、遅延を考慮すると当たり前だけどメジャーな路線をチョイスしないとだめだ。ナビで計画を立てても上手くいかないですね。上手く行かないことを楽しむ。これが大事なことでした。


‥にしても、赤塚郷まで遠いなぁ‥



 てなわけで森下駅からは大塚駅に乗り春日2丁目で池袋行きに乗り換え。池袋東口には午後6時に到着。帰りは1時間40分でした。けっこう楽しい旅でした。。

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板橋区民、ミーハーだった。

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 そんなことわかっとるわ、いまさらかよっ‥なんて声が聞こえてくる。


ようやく涼しくなったので、実家の押入れ深く放り込んである古いネガを久しぶりに引っ張り出してみた。

中学3年生の時に写真部に入って以来、比較的熱心に写真を撮ってきた。当時のネガはほとんど捨てていないので、ブログのネタにもなるし、今更ながら助かっている。思えばそれからすでに40年もの年月が過ぎ、それらの写真は歴史的な資料にもなりつつある。

と、いっても本人にしかわからない、また、撮影した本人もすでに撮影場所を忘れてしまい役に立たない写真の方がはるかに多く、90%以上がそんな写真だろう。特に10代の頃に撮った写真は技術が未熟でブレやピンボケが目立ち、使えないったらありゃしない。当時の自分の所へ現れ、文句の一つも言いたいところだ。

そんな中から選んだ写真をいくつかUPしていく。まずは有名人シリーズから。


最初の写真、もちろんわかりますね。昭和最大のスーパースター、読売巨人軍・長嶋茂雄だ。撮影場所は板橋区民の聖地、池袋の東武百貨店ぶらんで〜とTOBU屋上のイベントスペース。この数年前に現役選手を引退しているので、40歳くらいで、監督3年目の頃かな。

さて、2枚目は誰だかわかりますか?日曜朝のTBS番組で「喝だ!」なんて叫んでいる人、張本勲氏です。当時まだ現役で30代後半くらの歳ですか、若いですね〜。

この両氏が登場するイベントがいったいどんな趣旨だったのか記憶にないけど、偶然に遭遇したのではなく、無料で有名人の写真が撮れると思い、出掛けた記憶がある。

おもえば子供の頃から野球には関心ないどころか、1台しかないテレビのチャンネル権をナイター好きの父親に取られるので、野球には憎しみすら感じていたけど、世間が騒ぐ有名人には興味があったのだ。でも長島選手の引退試合(デーゲームの方)はテレビで観たことを覚えている。

あれ?考えてみれば、先日、リオオリンピックの銀座パレードへ行ったけど、同じ動機だったような気がする。40年前とまるで変わってないじゃないか。。
さっき、当時の自分に文句を言いたいと書いたが、これじゃ「あんた、40年経っても同じ事やってんのか」と当時の自分に言われてしまうだろう‥


気を取り直して3枚目。

でかでかと看板に書いてあるからわかりますね。歌手の松崎しげるさん。場所は同じくぶらんで〜とTOBUの屋上。実は、この次に行われる榊原郁恵ステージが目的だったので、着いた時はすでに松崎さんのステージが終わり、レコードの販売・握手会の時だった。まだあまり色黒ではなかった感じですね。ちょうど、あの「愛のメモリー」が大ヒットした頃でした。

で、4枚目が「1億円のシンデレラ」榊原郁恵さん。第1回ホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝し、1976年デビュー。ヒット曲「夏のお嬢さん」がまだ出る前、2枚目のシングル「バス通学」の頃で、”ぎゅうぎゅう詰めのバスの中〜♪”と歌っていたフレーズをいまだ覚えている。現在のアイドルファンと変わらず、当時もカメラを手にした若いファンが詰めかけていた。いまのように”おじさん”はいなかったような気がする。

今はもう、都心のデパートへわざわざ行くことはほとんどないけど、未だに屋上でこのような歌手やタレントのイベントが開かれることがあるのだろうか?ある時、人が集まりすぎて事故が起こり自粛されるようになった、と聞いたような気もしますが。若手時代の”とんねるず”も東武の屋上でイベントをやったと言ってましたね。
現在の池袋では、サンシャインの噴水広場で行われるのが有名かな。池袋東口はアニメの新聖地なので、声優のイベントが多いそうですが。

古いネガを発掘しているとき、すっぱい臭いを撒き散らすネガがあった。これは、「ビネガー・シンドローム」と呼ばれている現象で、経年劣化してゆくなかで発生する酢酸臭からそう名付けられている。
1950年以降に使われていたトリアセテートセルロース製のフィルムが経年劣化により自然と化学反応を起こし、酢酸を放出しながらゆがみや収縮などの大きなダメージをフィルム自身に与えてしまう現象だ。

この現象が起こるとそのままでは救済方法はなく、酷いものはフィルム表面がベタベタになり、タバコのように丸まってきて厳しい状態だ。

しかし、中には当時現像したままのようなきれいな状態のネガもあるので、ダメージを受けているのは主に現像時の水洗い不足により定着液成分が残っていたために劣化が進んだのだと思われる。フィルム現像は高校生の頃から自分で行っているので、知識がないため水洗を適当にしている場合が多かった。

う〜む、このままでは画像を残すことはできない。費用をなるべくかけずに救うにはスキャナーでデジタル化するしかない。ニコンのフィルムスキャナーは持っているけど、スキャンに1コマ数分かかるので膨大な時間がかかる。撮影した写真は、しょうもないカットも多いのでその選別も大変だ。

しかし、このフィルムを現像した頃はまさかネガから画像をデジタル化するなんて思いもしなかったなあ‥って、そもそもデジタルなんて概念もなかったけど。そうそう、カシオから発売された手のひらサイズの電卓が出たのはこのころだった。液晶表示=デジタル、という認識だったかな。

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板橋区民、有楽町で逢いました。

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 本格的に寒いと感じる日もありますね。。

前回の続きで、こんな写真も出てきた。

双子のデュオ「ザ・リリーズ」。代表曲は1975年リリースの2ndシングル「好きよキャプテン」

キャンディーズ、ピンクレディの陰に隠れ爆発的に売れた印象はないけど、若い男子には人気があったような気がする。
言い訳するが私はあまりファンではなく、写真部の友人に誘われたので道々した覚えがある。

撮影時はヒットから2年が経過し、その年は新曲も2曲しか発売されなかった頃だ。場所は有楽町の高架下の商店街、「有楽フードセンター」の一角にあったスペース。現在の「銀座インズ」ですね。

他に何か書くことはないかと考えたけど、リリーズには思い入れがないもんで‥


こんなに短い記事では申し訳ないので、時代は1981年と少し進むけど、有楽町の「日劇」と「朝日新聞東京本社」の建物が閉鎖された直後の写真もUP。


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ちなみに、日劇(日本劇場)が1933年竣工、朝日新聞社屋が1927年の竣工だ。

日劇には東宝の映画館もあったけど、それを含め中に入ったことはなかった。ただその存在はあまりにも有名で、建物的にも好きだった。
日劇が無くなってから35年、と聞くと”まだそんなもんだっけか”と思うけど、その後に出来た有楽町センタービル(マリオン)ができて32年と聞くと”もうそんなになるのか”と感慨がある。

旧・日劇ビルは、戦前の空気を纏う独特の雰囲気を持っていた。

芸能界では「日劇の舞台に立てたら一流」とも言われる存在だったけれど、ビルの周りには終戦直後から営業していたであろう”靴磨き”が何人もいたり、年の瀬には救世軍の”社会鍋”もいたり、傷痍軍人の演奏もあったり、また、戦時中は”風船爆弾の工場”として接収されていたりと、とにかく「ザ・昭和」的な色合いが濃かった。

日劇は、1981年2月15日に全ての営業を停止し、22日に完全閉館した。掲出の写真はその1週間後くらいに撮影したと思う。多分、ニュースなどで大々的に報じられていたので、野次馬根性で出かけたのだろう。

一通りビルを回って撮影していると、ある落書きが目に入った。名残を惜しんだ人が書きのこしたんだろうと思い、とりあえず写真を撮っておいた。それが下の写真だ。

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だいぶ見辛い写真で、書き込まれた文字もとても達筆なので解読し難たいが、書き起こしてみる。


落書きを許してください
こわされゆく庶民の憩い場
我々生きる人間に喜びと悲しみと
いろいろな人生に重なる人間の世界に
いろいろな教訓を与えてくれた
私も職業柄日劇と関係ある公務員ですけど
日劇が消え去った心境をのべると
すると有楽町を歩く人々
すべてがエキストラに見え、昼間のうち
そういう感がいを感じないけど
夜になるとひとしお日劇というものが
なくなり私自身もさびしくなり
と◯うも早くこの空間を庶民の憩い場
やすらぎのにあう物を
心より祈っています。
ぽっかりと私の心に中に
穴が開いたような気がします。


う〜ん、どうも酔った勢いで書いたのかどうしても読めない字もあり、うまい文章でもないけれど、寂しい、という感情は伝わってくる。文中に、”私は職業柄日劇と関係ある公務員”とあるけど、閉館は施設の老朽化と東京都の再開発事業により、とあるのでもともと敷地は東京都の土地だったのだろうか?
落書きの下の方、剥がれた張り紙の隙間には、昭和56年2月28日付?の「赤羽から100円区間」の国鉄切符が挟まれていた。


‥しかし、この公務員氏、まさか35年も経ってから自分の残した落書きがインターネットで公開されようとは、思いもしなかっただろうなあ。。

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