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板橋区民、反省する。3 〜都電志村線廃止50周年〜

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 秋晴れかと思ったら秋雨。寒い‥


先週のこと、”Windy 41”さんという方から当ブログ記事にコメントをいただいた。コメントによれば「都電志村線から50年」というブログを立ち上げたので遊びに来て欲しい、とのお誘いであった。早速訪れると、1966年5月28日をもって志村線(18・41系統)が廃止となって今年で50年の記念(きっかけ)として記事をUPしたとの由であった。

‥ああ、そうだった。日頃、板橋区を趣味にしていると豪語し、とりわけ交通関係にうるさい記事を書いているのにそのことをすっかり忘れていた‥

しかし、である。反省を込めて何か記事にしなくては、と思ったが主要なことはすでにWindy 41さんのブログに書かれているし、いまさらなあ‥とおもいつつ取り敢えず手持ちの資料を探してみたけれど、出てきたのはハセガワ製MODEMOシリーズの模型と昭和30年代の定期券が数枚くらい。。

ここで醜い言い訳をさせていただくが、私は、生まれも育ちも赤塚郷文化圏の人で、同じ板橋区でも広岡郷文化圏については正直知識関心度が薄い。単に勉強不足だろ、と言われればそれまでだが、幼少時代の都電全盛期、赤塚郷から遥か彼方にある都電志村線については見たことも意識したこともなかった。自分の記憶にあるのは墓のある鶯谷から上野に行く時に乗った路線だけ、それも年に数度もないことなので都電の思い出はほとんどないに等しい。

Windy 41さんの作られた「都電志村線から50年」のブログは大変な労作で、参考にした資料も漏らさず明記されており、それに加えご自身の足で取材もされていてご努力が偲ばれる。しかし、あまりにも”都電志村線愛”が強いため、盲目となられている部分があるかなあ、との感想を持った。もちろん、”無知”からくる盲目ではなく、”愛”が根底にあるので、それで許されるし、それでもいいのだ。当ブログなんてその典型だ。

以前、市井の研究者はカースト下位だ、なんて自虐的なことを書いたけど、資料館や役所組織にいる専門委員と市井の研究者の最大の違いは、「仕事として対象を見ている」と「愛のみを根源として対象を見ている」の違いだ。愛は偉大だが時に歪んだり盲目になったりもする。だから、専門委員の目からみたら地域史家なんて、偏執だったりストーカーだったり変な人が多いと思われるのだろう。

と、都電志村線についてのネタがないのでつい余計なことを書きすぎました。

Windy 41さんに敬意を払い、「都電志村線から50年」の記事で触れられている一部の参考資料写真をUPしておきました。一つは志村にある総泉寺が浅草から引っ越してきた直後に撮影されたもので、開削された当時の雰囲気が残る中山道志村坂の写真。ここへ1955年6月に開業した志村坂上ー志村橋間の線路が敷かれた。
あとは、「志村線謎の写真」の項目に関連した部分の住宅地図で、昭和44年度の地図より。取材時期はそれよりちょっと前だろうから、廃止直後の様子がまだわかるかもしれない。

資料調査で国会図書館も何度か訪れておられるようですが、「地図室」には昭和37年度版の板橋区住宅地図があるので、もし未見ならばご参考にされればと思います。

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コメント

今日は肌寒いという予報に反して晴れて暑いです。
お忙しいところ丁寧にご覧いただき、貴重なご感想をありがとうございました。

私もまた、赤塚のことに関してはほとんど不案内です。志村・板橋地区の国際興業バス停はほぼ暗記していますが、東武練馬駅近辺は今でも路線図を見ないと系統がよくわかりません。宮の下回りとか不動通り回りとかややこしいですし。ブログにも書きましたが、戦後練馬に区役所を置いたがために今の区境になっているのであり、もし”石神井区”だったら赤塚は広岡郷とは別の区になっていたかもしれません。板橋区を考える際、その点は留意しておく必要があると思います。

愛のみを根源として…おっしゃる通りかもしれませんが、逆に「こちら側」から見ればプロの方々はあまりにもビジネスライクに進めてしまうため、せっかく貴重なものを持っていてもその真価を見逃してしまいがちな面があると思われます。それゆえに、一度エラーが生じるとそのまま拡散して、間違った”定説”ができあがってしまいます。たとえば、東京都の資料を見れば41系統が昭和29年にはまだ存在していなかったことはすぐわかるのに、公文書館はそのすりあわせさえしようとせずにオートバイが都電の脇を走る写真を「昭和29年」としたままで平気でいます。

ブログ制作は、そこに一石を投じることができればという思いもありました。素人だからこそ資料のすりあわせをじっくり行い、プロの人が見逃しがちな真実に迫ろうとしました。せっかく作るのにストーカー扱いされて嫌な思いはしたくありませんから、なるべく人と対面せずに済む範囲で資料に当たりました。

参考資料のアップもありがとうございました。
定期券はちょっと驚きです。本郷追分のほうは乗り換えが3回あるはずですし、新富町は当時2時間近くかかっていたと想像されます。現在の国際興業バスから有楽町線乗り換えでも1時間では足りません。
当時の人はそれほどの思いをしながら毎日乗っていたのですね。
総泉寺の王子乗合自動車は地形図から想像される通りで感動ものです。

お示しされた地図は昭和44年版ならば既に道路の軌道は描かれていないはずですね。東都自転車(板橋区役所前)、吉川自動車(板橋駅前)は他の資料から解決がつきましたが、仲宿氷川神社付近についてはもう少し詰めが必要と考えておりました。

国会図書館所蔵の住宅地図はノーマークでした。ご教示ありがとうございました。
どうぞ今後ともよろしくご指導お願いいたします。

投稿: Windy 41 | 2016年10月18日 (火) 17時18分

>>Windy 41さま
記事中、失礼なことを書いてしまい申し訳ありませんでした。
権威をもつ機関へ訂正を求めるのは尋常にはいきませんね。窓口に乗り込んでも丁寧な対応をされると思いますが、それは怒らせずにさっさと帰って欲しいからです。決定的な一次資料を印籠のごとく突きつけても無駄なことです。なぜならば、そのことに責任を持つ人がいないからです。豊洲市場の地下空洞を誰が許可したのか責任者がわからない、ということと同じです。例えば、区史編纂時などではそれぞれの時代ごとにチームを組んで調査し、出来上がった原稿は会議で議論を重ねた上で掲載に至るという「手順を踏んで」行われます。決して個人が調べて書いたことがそのまま載るということはありません。しかしですが、調査をされる先生方にも得意不得意はあり、特に交通関係は詳しい専門家が加わるかというとそうではなく、関心の低くさにより見逃されてしまうことはままありますね。
方法としては、何十年に一度見直される機会に決定的な証拠を揃えてしかるべき人に託すしかないかと思います。そのためにはそういう機関にパイプを持つ努力をされたほうが良いでしょう。ネット上で情報を公開するのももちろん有効かもしれませんが、権威ある機関に認めてもらうには匿名ではなく、氏素性を明らかにしなくてはなりません。それか、どこぞの学会に所属し、論文にして発表することです。個人研究家や郷土史家の欠点は、他人からの評価を受けず独善で物事を進めてしまうところにありますので、そのことを常に留意されるのも必要かと思います。

投稿: | 2016年10月18日 (火) 21時20分

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