板橋区民、喜ぶ。同時に鬱屈する。
さて、洗濯だ洗濯。貴重な晴れ間だ。
遅ればせながら、9月17日から練馬区の石神井公園ふるさと文化館で開催されている「夢の黄金郷」の企画展へ行ってきた。
多少の展示協力をしているので事前にいくつかの資料を拝見する機会があったけれど、整然と展示公開されている会場の様子を見ると圧倒される。
展示は、東京及び近郊に存在した”遊園地”の歴史と姿を紐解く、という趣旨で、その中心に、開催地・練馬区に縁の深い「兎月園」と「としまえん」についての踏み込んだ展示がなされている。
「兎月園」はかつて成増駅南に存在していた”遊園地”で、現在では跡地は宅地化し、今はもう地元の商店街の名称などにしかその痕跡を見ることはできない。
私が存在を知ったのも20数年ほど前で、その後いろいろ調べてみたけれど、資料としては地元の情報誌である「月刊 光が丘」に載った「兎月園」の特集記事以上の情報は得られなかった。それからは長い年月をかけてこつこつと収集を続け、若干の成果物を手にいれることができただけだった。
「兎月園」については、これまで板橋区や練馬区など公の機関によって本格的な調査をなされることはなかった。(練馬区が行った別件の調査の過程で触れられたことはある。)
民間の歴史研究会でも本腰を入れて調査をされたことはなく、せいぜいが古老の聞き書程度が残されるのみだ。
しかしである。今回、漸く、ふるさと文化館の尽力によって長年謎のベールに包まれ、歴史の彼方に霞んでしまっていた「兎月園」の存在がクリアに蘇ることができた。長年その姿を追い求めていた者にとって本当に感慨無量なことだ。
以下、個人研究家としての鬱屈な思いを吐露させていただく。(ただの愚痴・個人的感想ですが)
今回、なぜ長年に渡り謎であった「兎月園」のベールが剥がれたのか。それはひとえに担当学芸員の力による。
「兎月園」の調査にはある”壁”が存在していた。その高い壁を立場と情熱により突破したことが大きな原因である。
日頃なんの組織にも属さず、全くの個人で研究をされている方なら共感いただけると思うけれど、調査研究には様々な壁が立ちふさがる。そこを突破するために現地調査へ出かけたり、図書館や資料館や博物館など私的公的な機関を利用したり、他人に協力を求めたりする。
しかしである。残念ながら他人は親切ではなく、わからないことを教えてくれるのは常識だと思っている私的公的機関も、そんなに親切なものではないのだ。カーストとして、個人研究家は最下位の存在だと認識せざるを得ない。たまに、資料館博物館の受付でブチ切れている人を見かけるが、たいていはそんなカーストの研究家だ。おもちゃ売り場で足をバタバタさせている幼児みたいだ。
研究には”資料”が必要だ。それは写真であったり古文書や文献であったり様々で、研究とは、いわばそんな資料を求める旅でもあり、それらは自然界に存在している物ではない。資料は当然収まるところに収まっているわけで、その文献や現物を探したり、情報を得たりしなくてはならない。現在は、インターネットのおかげでだいぶ効率は良くなったけど、それでも最終的には現物を確認しなくてはならない。空襲だけでは敵地を占領できないのだ。
個人の研究家が資料を持っている個人宅ををいきなり尋ねても警戒されるだけであり、わからないことは教えてくれるはずの資料館博物館でも、とりあえず関係図録や紀要を勧められたり、ある程度のことしか教えてはもらえなかったりする。それ以上の情報を求めても、「わかりません。知りません。把握していません。」とけんもほろろに言われたり。実は資料はあるのだけれど、そう簡単に収蔵庫内まではアクセスさせてくれない。もっとも、研究はそんな困難からスタートするものではありますが。
その点、学芸員や教育機関に籍を置く方々とは根本的にスタート地点が異なる。その差はまさに天と地、月とスッポン、ちょうちんに釣り鐘だ。学生の頃から研究を続け、仕事でも研究をしている人とは知識量はもちろん、業界に張り巡らされたコネクションやバックや信用、もろもろに関して圧倒的な差がある。一般人から見ると「ずっちいなあ」と爪を噛んで拗ねるしかない。
それでも、自分の探求したいことは自分でどうにかするしかないので、なんとかしなくちゃならない。もちろん一般人の立場であっても素晴らしい研究をされる方はいるわけだし、その方法は個人の資質により様々な道があるのでいちいち例をあげることはできないけれど、大事なのは”情熱”を絶やさないことですかね。ただしその情熱の使い方が難しい。一歩間違えるとストーカー化したり資料館博物館の受付で大暴れすることになりかねない。
‥と、まあ根暗なことをうじうじと述べましたが、今回の展示では、特に「兎月園」と「としまえん」の、いままで散見されていた情報や資料をまとめ、さらに新規発見の資料が集められ惜しげもなく公開していて本当に素晴らしい。ここまで調査できて羨ましいとの嫉妬心を超えて感心する。それも担当学芸員の、立場を超えた情熱が結果に結実したのだろうと思う。展示について、どこまでの範囲を調べるのか、その限界の線引きするのはあくまで担当学芸員であり、同じ題材を扱っても、情熱の差は顕著に現れる。
ずいぶんアゲアゲで書いてしまったが、これは今回、自分が見たい知りたい聞きたかった情報が得られたからでもありますね。
展示にはなかったけれど、図録には兎月園送迎のため成増駅前に並ぶ高級車・シボレーの写真や、当時のスキップ村の写真、拡張前の旧川越街道を征く(おそらく)池袋乗合バスなどのレア物写真も掲載されている。これは自分の知る限り、戦前に撮影された成増駅の最古の写真と思う。もう、これが見れただけでも満足である。
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コメント
”M”さま、コメントをありがとうございました。個人情報が書かれておりましたので削除させていただきましたが、メッセージは把握しております。できればメルアドをいただければ幸いでした。
投稿: | 2016年10月 2日 (日) 21時38分
先日は貴重なご教示をいただきありがとうございました。
ブログが検索対象に登録されましたゆえ、改めてご案内申し上げます。
お手数ですが検索サイトにて「都電志村線から50年」をお探しくださいますか。
私は五輪招致反対ゆえ、不愉快に感じられる記事もあるかもしれませんがご容赦いただければ幸いです。
また、鉄道書籍を多数参考としているため、わかりづらい書き方をしているかと存じます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
ブログは自分ひとりで資料にあたって作りました。
それゆえに、本記事の内容には深く考えさせられるものがあります。
受付で怒鳴る人も、知っていても警戒して隠す学芸員にもどこか哀しさを覚えます。
少し前までならばうるさい人物は追い返せばそれで厄介払いだったかもしれませんが、インターネットの時代ですから、意地悪で教えてくれないからとでたらめなことを推定で書いて広まってしまうリスクにも向き合う時代を迎えているように思えます。一度史実と異なる説が広まってしまうと、後からの火消しは容易ではありません。
投稿: Windy 41 | 2016年10月12日 (水) 08時40分