板橋区民、反省する。2
9月に入りました。ここから師走までが速いですね。。
前回、徳丸4丁目一帯に広がる京宗と字で呼称された高台についての記事を書いた。
あんまりローカルな話なのでつっこまれないだろうとほとんど記憶のみで気楽に書いたら、常連の方よりいくつかの厳しいご指摘をいただいた。
あてにならない記憶とグーグルマップのみで安易に流しました。申し訳ありません。
と、反省を述べたあとは検証をしなくてはならない。
昭和40年代始めころまでの徳丸は、まだ明治や江戸時代の雰囲気を感じ取ることができた。そのころの徳丸村の中心地は安楽寺周辺で徳丸本村と呼ばれていた。そこから前谷津川へ向かって谷となり、川を挟んで南側(東武練馬駅方向)は高台となる。だから、昔からの住民は、現在の徳丸3・4と5丁目の一部は高台、または山という感覚を持っている。
その東の端は板橋イオン下から始まる不動通りで、ここもかつては川であり、また、下赤塚駅近くの小高い線路下あたりを源泉とする小川が赤一中の下あたりを流れ、その川は前谷津川に注いていたので西側(新大宮バイパス付近)も谷になっており、このことも徳丸4丁目は高台、または山という認識を持つ理由かと思います。
掲出の写真は、キャプションに「京宗より下赤塚を写す。」とあり、前回のパノラマ写真を撮影した近くで後ろを振り向いて撮影したものと推測します。
その場所から写した下赤塚というのは、現在の赤塚一丁目方面を指します。昔の赤塚村の中心地は赤三中で、そこにはかつて赤塚村役場がありました。だからそれより南側にあたる一帯は下赤塚と呼ばれていたんですね。下赤塚駅とその周りだけが下赤塚ではなく、一帯全てが下赤塚なんです。
なんか当たり前のことを力説しているようですが。
で、掲出の写真とパノラマ写真の撮影地ですが‥正直、わからないっす。憶測としては、西徳通りの西のどん詰まりの場所近辺の比較的高台からかな、と思います。現在では住宅が立て込み見通しがきかず、京宗の高台も大きなマンションが立ち並び比較写真を撮るのが難しい現状にあります。
コメント欄で質問をされている”写真の右側の斜面に並んだ家の空に「タワー」の様な物”は、共同の水道タンクではないでしょうか。昔はよく高台の住宅地で見かけたような気がします。私の住んでいた住宅街には共同の井戸があり、電動ポンプで地下水をくみ上げ組合の各家庭に供給していました。しかし、停電のたびに断水し、唯一都水道が通っていた徳石公園まで生活用水の水汲みをしにいかなくてはなりませんでした。
そのタワーの左の位置(前回掲出のパノラマ写真参照)に、平屋の古めかしい建物群がありますが、これはおそらく戦前に東武鉄道が造成した徳丸住宅(東武鉄道65周年の社史に掲載)もしくは住宅営団の分譲地かと思われます。戦時中、造兵廠に勤める家族用に作られた住宅地です。現在のグーグルマップで見ても区画はハッキリとわかります。
参考に、終戦直後に撮影された空中写真からパノラマ撮影地を推測した画像を以下に貼ります。
昨日、所用があり板橋区役所へ行きましたが、その時、偶然に板橋区内の発掘調査を長年担当していた文化財学芸員の秋山先生とすれ違ったので、赤一中そばのゴルフ場跡地から検出された空堀についてあらためて尋ねました。すると、あの空堀は道路の側溝の可能性もあるとのこと、道路と言っても中世時代〜戦国時代のもので、その当時の重要道路には側溝が掘られていたそうだ。川越街道ならまだわかるけど、あんな武蔵野のはずれにそんな道路なんてねえ?と不服を申し上げると、もちろん、砦やなにがしかの建造物があった可能性も考えられるとのことでした。
それともう一つ、徳丸5丁目の徳丸石川遺跡D地点で発掘された”畝堀”についてたずねると、
「あそこはね、すごいんだ。がっちり造られた堀で、確実に何かの建造物があったはずだ。遺構は人為的に埋められていて、その土中からは縄文土器片がザクザク出てきた。遺跡埋蔵地の土で埋めたんだろうねえ。」とのこと。
この畝堀からは戦国時代の遺物も出土したので、そのころの城郭の一部であるようだ。写真は「図説 板橋区史」に掲載されているので、興味のある方は図書館でご覧下さい。
以上、反省を込めて追記しましたのでご勘弁ください。
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