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2016年9月

板橋区民、反省する。2

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 9月に入りました。ここから師走までが速いですね。。


前回、徳丸4丁目一帯に広がる京宗と字で呼称された高台についての記事を書いた。
あんまりローカルな話なのでつっこまれないだろうとほとんど記憶のみで気楽に書いたら、常連の方よりいくつかの厳しいご指摘をいただいた。

あてにならない記憶とグーグルマップのみで安易に流しました。申し訳ありません。

と、反省を述べたあとは検証をしなくてはならない。


昭和40年代始めころまでの徳丸は、まだ明治や江戸時代の雰囲気を感じ取ることができた。そのころの徳丸村の中心地は安楽寺周辺で徳丸本村と呼ばれていた。そこから前谷津川へ向かって谷となり、川を挟んで南側(東武練馬駅方向)は高台となる。だから、昔からの住民は、現在の徳丸3・4と5丁目の一部は高台、または山という感覚を持っている。

その東の端は板橋イオン下から始まる不動通りで、ここもかつては川であり、また、下赤塚駅近くの小高い線路下あたりを源泉とする小川が赤一中の下あたりを流れ、その川は前谷津川に注いていたので西側(新大宮バイパス付近)も谷になっており、このことも徳丸4丁目は高台、または山という認識を持つ理由かと思います。

掲出の写真は、キャプションに「京宗より下赤塚を写す。」とあり、前回のパノラマ写真を撮影した近くで後ろを振り向いて撮影したものと推測します。
その場所から写した下赤塚というのは、現在の赤塚一丁目方面を指します。昔の赤塚村の中心地は赤三中で、そこにはかつて赤塚村役場がありました。だからそれより南側にあたる一帯は下赤塚と呼ばれていたんですね。下赤塚駅とその周りだけが下赤塚ではなく、一帯全てが下赤塚なんです。

なんか当たり前のことを力説しているようですが。

で、掲出の写真とパノラマ写真の撮影地ですが‥正直、わからないっす。憶測としては、西徳通りの西のどん詰まりの場所近辺の比較的高台からかな、と思います。現在では住宅が立て込み見通しがきかず、京宗の高台も大きなマンションが立ち並び比較写真を撮るのが難しい現状にあります。

コメント欄で質問をされている”写真の右側の斜面に並んだ家の空に「タワー」の様な物”は、共同の水道タンクではないでしょうか。昔はよく高台の住宅地で見かけたような気がします。私の住んでいた住宅街には共同の井戸があり、電動ポンプで地下水をくみ上げ組合の各家庭に供給していました。しかし、停電のたびに断水し、唯一都水道が通っていた徳石公園まで生活用水の水汲みをしにいかなくてはなりませんでした。

そのタワーの左の位置(前回掲出のパノラマ写真参照)に、平屋の古めかしい建物群がありますが、これはおそらく戦前に東武鉄道が造成した徳丸住宅(東武鉄道65周年の社史に掲載)もしくは住宅営団の分譲地かと思われます。戦時中、造兵廠に勤める家族用に作られた住宅地です。現在のグーグルマップで見ても区画はハッキリとわかります。

参考に、終戦直後に撮影された空中写真からパノラマ撮影地を推測した画像を以下に貼ります。

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昨日、所用があり板橋区役所へ行きましたが、その時、偶然に板橋区内の発掘調査を長年担当していた文化財学芸員の秋山先生とすれ違ったので、赤一中そばのゴルフ場跡地から検出された空堀についてあらためて尋ねました。すると、あの空堀は道路の側溝の可能性もあるとのこと、道路と言っても中世時代〜戦国時代のもので、その当時の重要道路には側溝が掘られていたそうだ。川越街道ならまだわかるけど、あんな武蔵野のはずれにそんな道路なんてねえ?と不服を申し上げると、もちろん、砦やなにがしかの建造物があった可能性も考えられるとのことでした。

それともう一つ、徳丸5丁目の徳丸石川遺跡D地点で発掘された”畝堀”についてたずねると、

「あそこはね、すごいんだ。がっちり造られた堀で、確実に何かの建造物があったはずだ。遺構は人為的に埋められていて、その土中からは縄文土器片がザクザク出てきた。遺跡埋蔵地の土で埋めたんだろうねえ。」とのこと。

この畝堀からは戦国時代の遺物も出土したので、そのころの城郭の一部であるようだ。写真は「図説 板橋区史」に掲載されているので、興味のある方は図書館でご覧下さい。


以上、反省を込めて追記しましたのでご勘弁ください。

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板橋区民、評価を受ける。2016初秋

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 夏も過ぎたし、山間の鄙びた硫黄泉に行きたいなあ‥


先月、練馬の石神井ふるさと文化館で行った講座の成績表が送られてきた。
この歳になっても悟りを開けず、アンケート結果を見るのは怖い。まじめな人ほどちゃんと書かなきゃと思い、勢いこちらがガックリくるような厳しい感想を書かれることもあるので恐ろしい。あっ、決して賞賛だけ欲しいという意味ではありませんがどちらかと言うと好評であって欲しい、褒めてもらいたい。と、小心者は願うばかりである。


アンケートの基本結果は以下のとおり。
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この結果をふまえ、総括をいたしてみる。


当日、キャンセルをされた方が10名以上おられたのは残念でした。酷暑の時期なので仕方がないですね。
参加者は60代以上が約70パーセントを占め男性が7割と昨年と変わらない。小学生が2人来ていたけど、どのくらい理解してくれたかなあ。

ご高齢な方の中には、戦時中実際に飛行場の中に入ったことのある方もおられ、兵隊より手紙を託されたという逸話を寄せていただいたり、二式戦のエンジン音はすごかったいまだ耳に残っていると記す方もおられた。

タイトルと内容に興味を持って酷暑の中わざわざ足を運んでいただいたのだから、関心を持っておられるのは当然のことで、成増飛行場を知らない方にとっておそらく初めてみる写真に驚かれるのも当たり前だろう。

厳しい意見としては「マイクの使い方が悪い」ことで、これは昨年も指摘されたことだ。ご高齢の方も多いので気をつけねばならないのだけれど、自分で話しているとよくわからないのでなかなか難しい。ヒトカラで訓練を積むしかないのだろうか。

「雑談が多い」「個人的な話が多い」。これは昨年の反省点でもあり極力少なくしたつもりではありますが‥言い訳をいわせていただければ、年表を読み上げるだけの進行ではつまらないので、裏話的なものや私自身の感想を入れたつもりなんですがそうですかまだ多いですか‥

「雑談の中にこそ真実が隠されている」

そう深読みしていただいても結構なんですが‥。

個人的に直接意見をいただいたものもあるのですが、話したことを誤解して受け取る方もおられるようで、マイクの使い方とともにこれも難しいですね。

例えば、「成増とは兄弟飛行場で、防空244戦隊が根拠地としていた調布飛行場は、過去にりっぱな戦隊史や写真集が上梓されていますが、これは調布飛行場が<東京府>が事業主体で建設したので東京都公文書館に計画から完成までの公文書が残されていることや、芸術的センスを持った新聞社のカメラマンが常駐していたなど成増に比べると恵まれている」といったことを話したのですが、「兄弟飛行場の調布飛行場の記録が残っているから成増は必要ないと話していたがそれはおかしいだろう」と、なんでそうなるの?と言った理解をされてしまうという始末。


いずれにせよ、いただいたご意見はその方が感じたことなので、そう感じさせた自分の能力が足なかったと反省すべきですね。。

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板橋区民、コレクターの本懐を遂げる。

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 いい加減晴れて欲しいなぁ‥

「ついに」「とうとう」「ようやく」。そう、ようや〜っと、この時が来た。。

<コレクターとは、言い換えれば忍耐の人でもある>

存在を知ってから20年余。手にする機会は、ほぼないであろうと思っていた幻の逸品が、板橋区民の手元にやってきた。それは、自らの努力というより、収集の神さまが気まぐれに微笑んでくれたのであろうか。。

その幻の逸品とは、「板橋競馬場勝馬投票券」である。

”東京ジョッケー倶楽部”が運営する板橋競馬場は、明治40年(1907年)に行政の認可を受け、翌明治41年3月から営業を開始したが、たった3シーズン、わずか1年も経たずに廃止となった幻の競馬場だ。

板橋競馬場については、このブログを立ち上げたころ何度か記事にしたことがある。また、最近更新されたウィキペディアの記事が割と正確に書いてあるので、詳しくはそちらを参考にしていただきたい。(手抜き)

いまから2年前、板橋の郷土資料館で「板橋と馬」というお題の特別展が行われた。実はその時、板橋競馬場の勝馬投票券が展示されたことがある。所蔵は横浜にある「馬の博物館」で、この博物館は、洋式競馬発祥を記念した根岸競馬記念公苑内に、1977年、日本中央競馬会によって開設され、現在、公益財団法人馬事文化財団が運営している。

特別展で展示された勝馬投票券(めんどくさいので以下馬券)は全部で3枚、それぞれ明治41年3月29日(開催2日目)11レース、同4月4日(開催3日目)10レース、同4月5日(開催4日目)10レースの馬券で、2日目が白地に赤でAの印字とその上に重なるように3の文字がパンチ穴で開けられた券、残り2日は掲出の馬券に似ているが地紋が上半分騎乗姿下半分が騎手帽、騎乗と騎手帽が4分割と言うように、おそらく偽造防止のためにそれぞれ地紋のデザインを変えてある。

今回、板橋区民が入手したのは初日七鞍目馬壹番、”初日”とあるので明治41年3月28日に行われたレースで、第7レースの馬番1番、単勝券だ。

”初日”。う〜んいい響きだ。英語で書くと、「FIRST DAY」。なんだか「馬の博物館」に勝った気持ちだ。

いやだがしかし、3月28日と書いてあるわけではないので、第2回開催の7月11日、12、18、19の4日間のうちの初日なのか、それとも第3回開催の12月22日、23、24の3日間のうちの初日の可能性もある。もっとも、第3回開催は馬券禁止令が出たせいで入場券も数枚しか売れず可能性はないだろう。

それでも、馬券の地紋が馬の博物館所蔵のものと似ているので、第1回開催時の馬券と仮定して話を進めると、さて気になるのは馬番1番とはどんな馬で誰が騎手で馬主はどういう人物なんだろう、レース結果は?などなど知りたいことがたくさんある。

そこで、国立国会図書館へGO!桜田門外の堀には板橋区内ではあまり出ないミニリュウが出現するようだし、ついでにゲットするか。(まだポケモンGOやってるんかい!)

昔、板橋競馬場の記事を書いた時には当時の新聞のマイクロからコピーした記事を参照したけれど、レース結果は欄外に印刷されており、文字が潰れたり切れたりしていてほとんど読み取れる状態ではなかった。そこで、国会図書館に所蔵されている「馬匹世界」という当時の競馬雑誌を参照することにした。

備え付けの端末で検索すると、あちゃー、所蔵は京都の関西館となっているじゃん!と、よく見るとデジタルデータ化されていて東京でも閲覧できるようになっていた。

さてさて、レース結果はどうなんだろう‥


初日、第七競馬

濠洲産馬(八頭立)第二競争、距離一哩、賞、第一着六百円、第二着金百五拾円、第三着金七拾五円

着順      馬名       持主     騎手     斤量
第一着   ヲリムピア    ヨウド氏     川崎      1.32

第二着   ジャンダーク   濱村氏    奥山     1.37         
  
第三着   アズマ       檜山氏    佐竹     1.35

ジャンダークが獨り舞臺の人気なりしが發馬の際にはジャンダーク最も出遅れたるも四分の一邊より段々奮進し決勝點間近き所にては並行突進したるも僅か馬主首丈けの差にてヲリムピアが勝ちを得たるは大穴二百十四円であつた。


当時、競馬は濠洲産馬と日本産馬は別々に分けてレースが行われた。それだけ、体格(馬格?)に差があったのだろう。
と、いうことは馬壹番の馬は濠洲産馬となるが、残念ながら3着までの馬名と持ち主と騎手、そして着順と獲得賞金しか情報が書かれていないので馬番1番がどのような由来の馬なのかはわからなかった。
当時、すでに一般紙でも事前レース予想などがされていたので、新聞を丁寧に調べれば、あるいは解明できるのかもしれない。


今はまだ幻の馬券を入手できた興奮であまり頭が回らないけど、発券されてから108年。いままで何人の手を経て板橋区民の元にやってきたのだろうか‥その厖大な月日を思うとめまいを覚えるなあ。。

おっと、書き忘れるところでしたが、3枚目の写真は、これも当ブログ初期に記事にした「伊賀式飛行機」の公開飛行実験の様子の写真(絵葉書)で、明治42年の翌々年、明治44年2月に、閉鎖された板橋競馬場内にて行われた。後ろになにやら建物らしきものが写っているが、これが競馬場関係の建物かどうかはわからないけれど、板橋競馬場の様子がわかる貴重な写真だ。


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板橋区民、練馬区最古の映像を提供する。〜豊島園・1929年〜

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 ちょっと晴れ間が出ましたね。いそいで洗濯しなくっちゃ。

本日から、練馬区にある石神井ふるさと文化館で企画展示室特別展「夢の黄金郷(エル・ドラド)遊園地」-思い出のメリーゴーランド- が始まった。

企画の趣旨は以下のとおり。

「遊園地は、花壇や温室、ボート遊びなどが集まった屋外行楽施設からはじまります。大正期以降、遊園地は鉄道沿線の開発と関わりながら、日帰りで楽しめる行楽地として各地に誕生しました。ウォーターシュートやメリーゴーランドなどの機械遊具が取り入れられていくと、遊園地は、次第に子どもが主役の場所となっていきました。本特別展では、区内の遊園地「としまえん」や、練馬区旭町にかつて存在した遊園地「兎月園(とげつえん)」を中心に、遊園地の歴史をたどります。あわせて、特別展の事前事業として公募を行った区内の遊園地の古い写真についても、会場内でスライド上映します。」


大正後期から戦時中にかけて存在した「兎月園」は、最寄りが成増駅なので板橋区だと思っていたが、実は道を隔てて現在は練馬区旭町にあるので、練馬区のものなのだ。一足先に展示品を拝見させていただいたが、未発表の資料がいろいろ発掘されていて実に見応えがあった。

石神井ふるさと文化館では、日ごろ板橋区民が成増陸軍飛行場の公開講座でお世話になっているので、恩返しに何か協力したい(いっちょ噛みたい/爪痕を残したい)と思っていた。そこで、板橋区民が秘蔵していた「豊島園」の映像を提供することにした。

秘蔵していたのは、大正時代半ばにフランスで規格化された9.5ミリのパテフィルムを使う個人映画・家庭内上映向けの映像機器・パテベビーで撮影されたフィルムで、映画ニュースとして昭和4年(1929年)に、正式開業から2年後、プールが新造された年に収録された映像だ。この機会に専門業者に依頼して、デジタル映像データ化してもらった。

”としまえん”の歴史についてはウイキペディアに詳しいのでそちらを参照いただくとして(また手抜きかよ)、園内には、昭和7年3月に「不二映画撮影所」の撮影スタジオが設けられたが1年で解散、その後、紆余曲折を経て大泉に東映東京撮影所の前身が作られることになる。だから、いまのところ板橋区民が本日から公開した「豊島園」で撮影された映像が最古のもとなる(かもしれない)のだ。

練馬区は戦前板橋区だったから板橋区最古の映像だ。と言いたいところではあるけど、この映像が撮影されたのはまだ”北豊島郡上練馬村向山”時代だったので、そうは書けない。板橋区になったのは昭和7年からですね。

板橋区内で撮影された最古の映像は、今のところ当ブログで記事にした昭和26年公開の大映版「自由学校」で、我が赤塚郷で撮影されている。当然、それ以前の時代の映像もあると思うけど、まだお目にかかったことはない。


提供した「豊島園」の映像は全部で2分間、賑わう園内と目玉の遊戯施設だった”ウオーターシューター”やボート場、水泳場の様子が映っている。男はカンカン帽を被り、女性は以外と日本髪に着物姿が多い。これは豊島園が”晴れの場所”という意識が強かったんでしょうね。時代が感じられます。

豊島園は開園してから90年もの歴史ある娯楽施設だけれど、現在、水面下では閉園の話が進んでいるようで、近い将来には練馬区の防災公園になるらしい。その暁には、ぜひ練馬城の復元を。なんてね。


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板橋区民、喜ぶ。同時に鬱屈する。

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 さて、洗濯だ洗濯。貴重な晴れ間だ。


遅ればせながら、9月17日から練馬区の石神井公園ふるさと文化館で開催されている「夢の黄金郷」の企画展へ行ってきた。
多少の展示協力をしているので事前にいくつかの資料を拝見する機会があったけれど、整然と展示公開されている会場の様子を見ると圧倒される。

展示は、東京及び近郊に存在した”遊園地”の歴史と姿を紐解く、という趣旨で、その中心に、開催地・練馬区に縁の深い「兎月園」と「としまえん」についての踏み込んだ展示がなされている。

「兎月園」はかつて成増駅南に存在していた”遊園地”で、現在では跡地は宅地化し、今はもう地元の商店街の名称などにしかその痕跡を見ることはできない。

私が存在を知ったのも20数年ほど前で、その後いろいろ調べてみたけれど、資料としては地元の情報誌である「月刊 光が丘」に載った「兎月園」の特集記事以上の情報は得られなかった。それからは長い年月をかけてこつこつと収集を続け、若干の成果物を手にいれることができただけだった。

「兎月園」については、これまで板橋区や練馬区など公の機関によって本格的な調査をなされることはなかった。(練馬区が行った別件の調査の過程で触れられたことはある。)
民間の歴史研究会でも本腰を入れて調査をされたことはなく、せいぜいが古老の聞き書程度が残されるのみだ。

しかしである。今回、漸く、ふるさと文化館の尽力によって長年謎のベールに包まれ、歴史の彼方に霞んでしまっていた「兎月園」の存在がクリアに蘇ることができた。長年その姿を追い求めていた者にとって本当に感慨無量なことだ。

以下、個人研究家としての鬱屈な思いを吐露させていただく。(ただの愚痴・個人的感想ですが)

今回、なぜ長年に渡り謎であった「兎月園」のベールが剥がれたのか。それはひとえに担当学芸員の力による。
「兎月園」の調査にはある”壁”が存在していた。その高い壁を立場と情熱により突破したことが大きな原因である。

日頃なんの組織にも属さず、全くの個人で研究をされている方なら共感いただけると思うけれど、調査研究には様々な壁が立ちふさがる。そこを突破するために現地調査へ出かけたり、図書館や資料館や博物館など私的公的な機関を利用したり、他人に協力を求めたりする。

しかしである。残念ながら他人は親切ではなく、わからないことを教えてくれるのは常識だと思っている私的公的機関も、そんなに親切なものではないのだ。カーストとして、個人研究家は最下位の存在だと認識せざるを得ない。たまに、資料館博物館の受付でブチ切れている人を見かけるが、たいていはそんなカーストの研究家だ。おもちゃ売り場で足をバタバタさせている幼児みたいだ。

研究には”資料”が必要だ。それは写真であったり古文書や文献であったり様々で、研究とは、いわばそんな資料を求める旅でもあり、それらは自然界に存在している物ではない。資料は当然収まるところに収まっているわけで、その文献や現物を探したり、情報を得たりしなくてはならない。現在は、インターネットのおかげでだいぶ効率は良くなったけど、それでも最終的には現物を確認しなくてはならない。空襲だけでは敵地を占領できないのだ。

個人の研究家が資料を持っている個人宅ををいきなり尋ねても警戒されるだけであり、わからないことは教えてくれるはずの資料館博物館でも、とりあえず関係図録や紀要を勧められたり、ある程度のことしか教えてはもらえなかったりする。それ以上の情報を求めても、「わかりません。知りません。把握していません。」とけんもほろろに言われたり。実は資料はあるのだけれど、そう簡単に収蔵庫内まではアクセスさせてくれない。もっとも、研究はそんな困難からスタートするものではありますが。

その点、学芸員や教育機関に籍を置く方々とは根本的にスタート地点が異なる。その差はまさに天と地、月とスッポン、ちょうちんに釣り鐘だ。学生の頃から研究を続け、仕事でも研究をしている人とは知識量はもちろん、業界に張り巡らされたコネクションやバックや信用、もろもろに関して圧倒的な差がある。一般人から見ると「ずっちいなあ」と爪を噛んで拗ねるしかない。

それでも、自分の探求したいことは自分でどうにかするしかないので、なんとかしなくちゃならない。もちろん一般人の立場であっても素晴らしい研究をされる方はいるわけだし、その方法は個人の資質により様々な道があるのでいちいち例をあげることはできないけれど、大事なのは”情熱”を絶やさないことですかね。ただしその情熱の使い方が難しい。一歩間違えるとストーカー化したり資料館博物館の受付で大暴れすることになりかねない。

‥と、まあ根暗なことをうじうじと述べましたが、今回の展示では、特に「兎月園」と「としまえん」の、いままで散見されていた情報や資料をまとめ、さらに新規発見の資料が集められ惜しげもなく公開していて本当に素晴らしい。ここまで調査できて羨ましいとの嫉妬心を超えて感心する。それも担当学芸員の、立場を超えた情熱が結果に結実したのだろうと思う。展示について、どこまでの範囲を調べるのか、その限界の線引きするのはあくまで担当学芸員であり、同じ題材を扱っても、情熱の差は顕著に現れる。

ずいぶんアゲアゲで書いてしまったが、これは今回、自分が見たい知りたい聞きたかった情報が得られたからでもありますね。

展示にはなかったけれど、図録には兎月園送迎のため成増駅前に並ぶ高級車・シボレーの写真や、当時のスキップ村の写真、拡張前の旧川越街道を征く(おそらく)池袋乗合バスなどのレア物写真も掲載されている。これは自分の知る限り、戦前に撮影された成増駅の最古の写真と思う。もう、これが見れただけでも満足である。

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