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板橋区民、中世時代を夢想してみる。

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 またまた台風が不穏な動きを見せていますね。

先日、遠回りの経路を通じて、我が故郷・徳丸の古写真の提供をリクエストされた。当ブログの過去画像を見て頼んできたのだが、別に遠回りしなくてもコメント欄に書き込んでくれればいいのに、と思う次第だ。

依頼主は徳丸地区の青健の会長氏で、地元の古老を呼んで地域の子供達に昔の様子を語るという催しをするので、古い写真を貸してほしいとのことだった。

青健とは、板橋区内18地区に置かれた「青少年健全育成地区委員会」という組織で、わかりやすく言うと学校のPTAの上部組織で板橋区教育委員会の下部組織、といった感じだ。各地区で「青少年の地域活動」「スポーツ野外活動」「地域社会環境浄化活動」「委員研修・指導者養成」などの活動をしている。

もちろん協力するのにやぶさかではないが、会長氏にお会いすると小学中学同窓で一学年下の方であった。地域の要職を務めて活動する方が自分より年下というのはショックだけれど、彼の住んでいる場所に幾人かの同窓生が今も住んでいて何十年ぶりに消息を聞いたけれど、中には数年前に亡くなっている同級生もいてこれもショックであった。

さて、そんなことで貸し出す写真を選んでいると、あまりにジモピーな写真でブログに載せてもほとんどわからないだろうと思い、今まで使わなかったものもいくつかあるので、これを機会に公開してみる。

掲出の写真は、現在の新大宮バイパスあたりから東方向へむけ、徳丸4・5丁目の高台を写したもの。撮影時期は昭和38年10月。おそらく知っている人はほとんどいないと思うけれど、字名では「京宗(きょうむね)」と呼ばれていた地域だ。右端に赤一中の校舎が少し映るが、このあたりは「京塚」と呼ばれ、東武練馬駅からそこらあたりまで、まだ東上線のなかった時代に、線路地に沿って十基ほどの塚が点在していたらしい。大正時代の初めに徳丸一丁目へ移住してきた人類学者の石田収蔵が、明治30年代にここら辺をフィールドワークした際に残した手帳には、この塚のスケッチが残っている。

この「京宗」という字がどういう由来で付いたのかは全くわかっておらず、地域史を調べている方にも見当もつかないらしい。
小学生時代、図工の授業で写生というイベントがあり、ある時、「京宗」を望む四葉の丘へ行ったことがあった。今の西徳通りが新大宮バイパスと突き当るところだったような記憶があるが、当時、なんでこんな畑と林しかない所に連れてくるんだ、描く物ないじゃん、などと芸術センス皆無の自分は適当に山と林と野原を緑で塗りたくって終いにし、あとはバッタ採りに専念していたっけ。

以前、赤一中の東側にゴルフの練習場があった。そこを取り壊し、マンションを建設することになった時、中世時代に構築されたらしい空堀の跡が発見された。それよりも前には、徳丸五丁目の石川橋公園の近くで、「障子堀」という後北条氏の頃に流行った形式で造られた堀跡が見つかっている。

実は、赤一中の北側一帯は1847年の古文書に「かがり山」との記載が残り、隣接した地域には「物見」と呼ばれる場所もあったらしい。しかるに「かがり山」とは篝火を焚いた場所で、砦などが築かれていたのではと考えられ、空堀の発見はそれを裏付けるのではないか、との期待もあったけれど決め手には至らなかったようだ。

実にロマン溢れる出来事だけれど、いかんせん武蔵の国のあまりにもローカルな場所なので記録が皆無で謎は謎のままである。近くの場所に点在していたといわれる「京塚」は、「経塚」とも呼ばれ供養のための経典が埋められていたとする説もあり、それが白子原や江古田原の合戦に関係があるのか‥。はてさて武蔵千葉氏か豊島氏か太田道灌か後北条氏か扇谷上杉家かわからないけれど、「京宗」地域は中世〜室町〜戦国時代の赤塚郷の歴史を探る鍵(ロマン)を握っているかもしれない場所なのである。

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コメント

またお邪魔します。
青健とは、中学校のPTA役員を拝命していた時に、多少関わった事がありました。「なあなあ」で行っていたPTAとは異なり、地域の青少年育成に向き合う姿に感心し、自分の行いを恥じて自己嫌悪になりそうでした。

西徳通りを西方向に進むと、小金湯付近から民家が少なくなり、「なめ爺さん出没地点」の恐怖心で、その先の雑木林から先に進むのは大変な勇気が必要でした。

赤一中の東側にあったゴルフ練習場は「徳丸ゴルフセンター」だったかな。今、大型マンションの「マナーズフォート」が、まだ原っぱだった頃に向かいにあった練習場でしたね。父親と一緒に初めてゴルフクラブを振り回した練習場でありました。

さて、お貼りになったパノラマ風景写真ですが、今一、位置の確認が出来ないのです。
>「現在の新大宮バイパスあたりから東方向へむけ、徳丸4・5丁目の高台を写したもの~」とありますが、「右端に赤一中の校舎が少し映るが~」とすると、赤一中と新大宮バイパスは隣接しているので、距離感が異なる気がします。
また、赤一中の周囲に高台は無く、5丁目から松月院通り方向だと、赤一中の位置関係が異なりそうです。
それから、写真の右側の斜面に並んだ家の空に「タワー」の様な物が写っていますが何でしょう?

しかし、オークさんのおかげで、郷土の色々な事を知る事が出来、何時もこのHPを楽しみにしています。今後も何かとお邪魔すると思いますが、なにとぞよろしくお願いします。

投稿: ひでぼう | 2016年9月 2日 (金) 22時19分

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