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2016年8月

板橋区民、嬉しい間違いメールを受け取る。

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 暑い。いや、熱い。

世間はお盆休みに入りましたか、オリンピックもだいぶ熱いようですがテレビでは連日の感動の押しつけ合戦がなんとも‥。ヒステリックな24時間テレビ状態ですね。


夏といえば戦争の季節。もはや当時を過ごした方も少なく、社会の一線から退いて時間が経つので歴史化の進行はすすむばかり。。

そんな夏のある朝、ふいに堀山隊長からのメールが届いた。

堀山隊長は、光が丘にお住いで、成増陸軍飛行場を根拠地とする飛行第47戦隊の指揮下で結成された、元・沖縄特攻第194振武隊の隊長で、航空士官学校出の少尉殿である。御年は93歳となられた。

メールには「近況報告」と題されていたが、内容がどうも私宛ではない。はたしてしばらく後に、まちがって送信したとの追伸が届いた。

成増飛行場の戦友会である「成増会」は3年前に完全解散し、以降、元の関係者の方々とはお会いする機会がなくなってしまった。終活というのか、年賀状等のやりとりも辞退されたいとの挨拶をいただくと、もはや連絡をするのも憚れるようになってしまうのだ。

今回、間違いメールでも、堀山隊長がまだまだ元気で活動をされていることがわかり、本当にうれしかった。昨年の夏、府中の大國魂神社で講演をするとの連絡をいただいたのが最後で、気になっていたのだ。

堀山隊長によると、昨年12月に靖国神社で特攻の講演を2時間行い、その時のことが雑誌「歴史群像」8月号に掲載されているとの由だった。

こちらからの返信として、先月から所沢の航空発祥記念館で、中島飛行機の特別展示が行われているとの情報と、常設展示室には、堀山隊長が寄贈した夏の飛行服と飛行帽がまだきちんと展示されていることをお伝えした。


戦時中のことをリアルタイムで経験し、現在でも人前に立ってその話をできる方は、現在どのくらいおられるのだろうか?
堀山隊長には、無理をせずお過ごしいただきたいのだが、もはやその貴重な方となってしまい、ますます依頼が絶えないようなのである。。


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板橋区民、再び練馬区民の前に立つ。

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 現在、我が赤塚郷は上陸した台風9号で大荒れです。災害警報が出ていますのでご注意を。

避難準備 発令
成増一丁目
赤塚四丁目、赤塚五丁目、赤塚八丁目
大門
三園一丁目
四葉二丁目
徳丸三丁目、徳丸七丁目、徳丸八丁目

避難所開設<赤塚第三中学校、紅梅小学校>

昨日(21日)、板橋区民は昨年に引き続き練馬区石神井ふるさと文化館の壇上に立った。
昨年の講演でご好評をいただき、会場定員が100名のため締め切りで入れなかった方々よりリクエストがあったので、今年もふたたび恥を忍んでの登壇となった。

前回は終戦から70年の紀念年だったので、各所にて戦争関係の展示などもあり需要があったのだろうと思っていたのだが、今年も呼ばれたのはありがたいことでした。
戦争の話は、毎年毎年繰り返し伝えた方が良いのだけれど、伝統芸能のように歌や踊りなどのパフォーマンスがあるわけでもなく、聞く方も「また同じ話かよ」ということであきられてしまうもので、継承はなかなか難しい。

開演時間の10分前にこっそり会場の後ろから入り、席を見回すと、うん?見た方がいるぞと思いそばによると、おお、なんと47戦隊で連絡役を務めていた高橋幹夫さんがおられるではないか!齢93歳を越えられ、この酷暑の中お誘いするのは忍びないのでご連絡はしなかったのだが、わざわざ来ていただけたようだ。

最後にお会いしたのは3年前だったか、その時と全く変わらずお元気な様子で安心しました。高橋さんは10代の頃から軍属として大陸に渡り現地で航空整備員となり開戦直前には、ビルマへ向かう飛行第64戦隊、あの軍神加藤隼戦隊長の乗機に”触った”ことがあるという逸話の持ち主だ。

その後内地に戻り47戦隊の整備員となったけれど、性格が良かったのか奥田戦隊長に可愛がられ、戦隊本部との連絡役を務めておられた。いつも戦隊長の写真を持ち歩いていて、この日も戦隊長の写真を持参して参加されていた。

今回は関係者の方々がお持ちであった写真を中心に年表に沿って紹介を行ったのだが、やはり後半時間が押してしまい、昭和20年2月以降の話がダイジェストのようになってしまった。昨年の反省がまったく生かされず不本意なことで、せっかく来ていただいた方々には申し訳ないとしか言いようがありません。いただいたアンケートの中にも「雑談が多く、もっと内容が聞きたかった」などと正直な感想を書かれる方もいて落ち込むばかり。どうもスミマセン。

時間が押してしまい質問の時間もとれなかったので、聞きたいことがある方は終わってから来てくださいということで締めたけれど、その後、小学生がやってきて夏休みの自由研究で成増飛行場を調べてると言う。手元を見ると光が丘図書館で調べた資料をごっそり持っているではないか。素晴らしい。あまり若いので将来までも興味を持っていてくれているかが心配だけれど、彼の肩をがっちりつかみ「頑張れよ。」と激賞、つくづく、君たちが希望なんだよ、と思いながら会場を後にした。


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板橋区民、中世時代を夢想してみる。

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 またまた台風が不穏な動きを見せていますね。

先日、遠回りの経路を通じて、我が故郷・徳丸の古写真の提供をリクエストされた。当ブログの過去画像を見て頼んできたのだが、別に遠回りしなくてもコメント欄に書き込んでくれればいいのに、と思う次第だ。

依頼主は徳丸地区の青健の会長氏で、地元の古老を呼んで地域の子供達に昔の様子を語るという催しをするので、古い写真を貸してほしいとのことだった。

青健とは、板橋区内18地区に置かれた「青少年健全育成地区委員会」という組織で、わかりやすく言うと学校のPTAの上部組織で板橋区教育委員会の下部組織、といった感じだ。各地区で「青少年の地域活動」「スポーツ野外活動」「地域社会環境浄化活動」「委員研修・指導者養成」などの活動をしている。

もちろん協力するのにやぶさかではないが、会長氏にお会いすると小学中学同窓で一学年下の方であった。地域の要職を務めて活動する方が自分より年下というのはショックだけれど、彼の住んでいる場所に幾人かの同窓生が今も住んでいて何十年ぶりに消息を聞いたけれど、中には数年前に亡くなっている同級生もいてこれもショックであった。

さて、そんなことで貸し出す写真を選んでいると、あまりにジモピーな写真でブログに載せてもほとんどわからないだろうと思い、今まで使わなかったものもいくつかあるので、これを機会に公開してみる。

掲出の写真は、現在の新大宮バイパスあたりから東方向へむけ、徳丸4・5丁目の高台を写したもの。撮影時期は昭和38年10月。おそらく知っている人はほとんどいないと思うけれど、字名では「京宗(きょうむね)」と呼ばれていた地域だ。右端に赤一中の校舎が少し映るが、このあたりは「京塚」と呼ばれ、東武練馬駅からそこらあたりまで、まだ東上線のなかった時代に、線路地に沿って十基ほどの塚が点在していたらしい。大正時代の初めに徳丸一丁目へ移住してきた人類学者の石田収蔵が、明治30年代にここら辺をフィールドワークした際に残した手帳には、この塚のスケッチが残っている。

この「京宗」という字がどういう由来で付いたのかは全くわかっておらず、地域史を調べている方にも見当もつかないらしい。
小学生時代、図工の授業で写生というイベントがあり、ある時、「京宗」を望む四葉の丘へ行ったことがあった。今の西徳通りが新大宮バイパスと突き当るところだったような記憶があるが、当時、なんでこんな畑と林しかない所に連れてくるんだ、描く物ないじゃん、などと芸術センス皆無の自分は適当に山と林と野原を緑で塗りたくって終いにし、あとはバッタ採りに専念していたっけ。

以前、赤一中の東側にゴルフの練習場があった。そこを取り壊し、マンションを建設することになった時、中世時代に構築されたらしい空堀の跡が発見された。それよりも前には、徳丸五丁目の石川橋公園の近くで、「障子堀」という後北条氏の頃に流行った形式で造られた堀跡が見つかっている。

実は、赤一中の北側一帯は1847年の古文書に「かがり山」との記載が残り、隣接した地域には「物見」と呼ばれる場所もあったらしい。しかるに「かがり山」とは篝火を焚いた場所で、砦などが築かれていたのではと考えられ、空堀の発見はそれを裏付けるのではないか、との期待もあったけれど決め手には至らなかったようだ。

実にロマン溢れる出来事だけれど、いかんせん武蔵の国のあまりにもローカルな場所なので記録が皆無で謎は謎のままである。近くの場所に点在していたといわれる「京塚」は、「経塚」とも呼ばれ供養のための経典が埋められていたとする説もあり、それが白子原や江古田原の合戦に関係があるのか‥。はてさて武蔵千葉氏か豊島氏か太田道灌か後北条氏か扇谷上杉家かわからないけれど、「京宗」地域は中世〜室町〜戦国時代の赤塚郷の歴史を探る鍵(ロマン)を握っているかもしれない場所なのである。

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