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シン・伝説の人〜練馬のアンリ・カルティエ=ブレッソン〜

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 雨の日と晴れの日の温度の差が激しく、しんどいですね。


久しぶりに、”伝説の人”シリーズを。


ここのところ自分が昔撮った写真を続けてUPしておりますが、本当はあまりにヘタクソな画を晒すことで恥ずかしい思いをしている。なので「歴史写真」というカテゴリーで語っているわけなんですよ。

そこで「これが本物のスナップショットだ。」という写真を撮れる方を紹介したい。
実は、その方はすでにこの世にはおられない。鬼籍に入ってしまわれてからもう十数年が経つ。

お名前は大木貞吉さん、という。
ご出身は練馬北町、といえばあの北町一の大地主な一族を思い浮かばれるだろうけれど、大木一族は江戸時代初期から地域に根ざしていたので、同じ大木家でも数百年の歳月により血の薄い濃いがある。

なかでも大木貞吉さんは、名主の大木金兵衛家に非常に近い家柄に生まれた。戦時中を小学校低学年で過ごし、その時に小児麻痺を患い歩行が不便となり、以来松葉つえが手放せないお身体となった。
カメラとの出会いは中学三年の時、長い距離の通学はできなかったので近所の都立北野高校へ進学し写真クラブに在籍した。

その後は家業の不動産管理会社を継ぎ仕事の合間に写真撮影を楽しんでいた。本格的に写真に取り組むようになったのは昭和62年(1987)にアマチュアカメラマンのクラブに入ってからで、そこから数年で力量を上げ、いつしか”コンテスト荒し”と呼ばれるようになり、平成4年(1992)にはカメラ雑誌「日本カメラ」で年度賞第1位を受賞した。後に聞いた話だが、写真雑誌からコンテストに応募するのをやめてくれと言われていたそうだ。(そのかわり特集コーナーを組まれたりした。)

翌平成5年、大木さんはそれまでの集大成として新宿の京王プラザホテルにあるニコンサロンで写真展を開くことにした。ニコンサロンでアマチュアカメラマンが単独写真展を行なえるのは最高峰の名誉なことだ。
で、板橋区民はその時、読売新聞に載った写真展の記事を読み、おお、地元(練馬区ですが)の方がニコンサロンで写真展か、すげえ。と思い、すぐに会場へ出向いたのだ。

通い慣れた西口ヨドバシカメラ本店を越えてニコンサロンへ行くと、大木さんは受付におられた。初対面だったが新聞に掲載されたお顔なのですぐにわかった。なかなかがっちりとした体型の方だが、そのがっちりしたお体を両腕の松葉つえで支えていた。

大木さんが得意としたものは「スナップ写真」で、写真の分野としては「風景写真」とか「鉄道写真」とかいろいろカテゴリーに分かれ、それぞれ道を極めるのは大変だけれど、スナップ写真は主に撮影対象が”人間”となるのでとりわけしんどい分野だ。撮影後にトラブルになる覚悟も引き受けなくてはならないし。

写真展は「人間模様」と題され、浅草や巣鴨、雑司が谷など(練馬や板橋で撮った写真もある)下町で撮影された写真で構成されている。見ず知らずの他人を撮影対象にし、ほとんど気がつかれずにシャッターを切るのはすごいことで、さらにシャッターチャンスや構図も一瞬にして掴んで”作品”にまで昇華するのは至難の技である。しかも大木さんは両腕で松葉つえをつきながらそれを行うのである。

表題にあるアンリ・カルティエ=ブレッソンは、フランス人の写真家で、ロバート・キャパと共に写真家集団マグナムを創設した、スナップ写真界の大御所だ。「決定的瞬間」という言葉を作ったといわれている。

展示された素晴らしい写真の数々を拝見した後、自分が徳丸出身者である等地元話をひとしきりし、自費出版された写真集を購入させていただいて帰途に着いた。そこからハガキや手紙のやり取りが始まり、再度ニコンサロンで行われた写真展にもお邪魔するようになった。

そのころすでに板橋区民は”板橋区を趣味とする”と宣言していたので、大木さんからもいろいろ昔話を伺っていた。
御維新のころ、上野で敗れた彰義隊が飯能方面に敗走し、途中、旧川越街道の下練馬宿の名主・大木本家に寄って休息した際、武器類を置いていったそうで、年に一度庭一面にそれらの武器類を並べて虫干ししていたことや、大河内傳次郎の映画を屋内で撮影した話などは大木貞吉さんから聞いた話だ。

たまたま北町で不動屋さんと話す機会があり、大木貞吉さんのことを伺ってみると、「あの人は恐ろしいのよ。借りにきた人の頭のてっぺんからつま先までギロリと睨み回し、あんたには貸さない。と言い捨てたりするの。」なんてことを聞いたりしたが、趣味を通して知り合ったからか自分にはとても親切に話をしてくれる方だった。もっとも心底そんな強面の性格なら、人間を相手にするスナップ写真なんて撮れるわけがないだ。

ある時、どうしたものか大木さんから長い手紙をいただいた。手紙には大木さんの幼い頃の思い出が綴られており、なぜお身体が不自由になったかなど相当にプライベートな内容が含まれていた。当時の事情もあるけれど結構ショッキングなことで、ブログ上で書くのは憚れるのである。


最後にお姿をみかけたのは、西台駅近くをバイクで走行している時で、高島通りで松葉つえをつきながら奥様に支えられ、ライカかミノルタCLEのレンジファインダーカメラを構えておられる所に偶然通りかかった。一言二言お声をかけ、そのままバイクで辞したが、それからしばらくして亡くなられたことを奥様からの電話で知ることになった。

今でもたまに大木さんの写真集を眺めることがあるけれど、つくづく人間の対象を捉える技術力の高さにため息が出るばかりなのである。

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