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2016年6月

板橋区民、硫化水素臭に憩う。

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 梅雨のシーズンが到来しました。今年は関東に水を供給するダムが水不足で困っているようです。


しつこいようだが、板橋区民は温泉が好きだ。特に”硫化水素臭の強い白濁したアルミニウム硫黄泉”を最上のものとしている。これはタモリ氏も同じことを言っていた。(たしかブラタモリで。)

今週初めから所用で宇都宮近辺を訪れていたので、かねてから気になっていた「喜連川早乙女温泉・きつれが わそうとめおんせん」へ寄ってみた。赤塚郷から一番近い”硫黄泉”は箱根にあり、その次に近いのがこの早乙女温泉だ。まあ、近いといっても栃木県さくら市なので気楽に行ける距離でもない。

早乙女温泉は、ニッカウイスキー栃木工場に近い、低い山(丘?)と田んぼに囲まれた場所にある。他にも周辺には温泉が点在しているけれど、硫黄泉が湧いているのは早乙女だけだ。

温泉の駐車場で車を降りると、すでに濃厚な硫化水素の臭が漂ってくる。入湯料は1050円とちょっと高めの設定だ。そそくさと受付を済まし、浴場へ向かう。期待に胸を膨らませドアをあけるとおお、白濁しながらもエメラルドグリーンに輝く湯船(はあと)が目の前に広がるではないか。まるでクリームソーダのようなお湯だ。

まずは体を洗おうと真っ黒に変色したカランでお湯を出すとなんとこれも温泉だ。これじゃあ頭は洗えないぜ。
いざ温泉に入ると、あれ、これは石油の香りか?外では硫化水素の臭がしたけれど、掛け流れるお湯からは石油系の香りがしてくる。

このような色の温泉は過去に2回経験したことがあり、一つは弘前の新屋温泉だが系統はアルカリ性単純温泉で、もう一つは長野県千曲市の戸倉観世温泉、こちらは単純硫黄泉だ。早乙女温泉は硫黄ナトリウム・カルシウム塩化物泉で濃度はとても高い。ホントに濃厚だ。

平日の午後は客も少なく、ほぼ貸切状態でのびのびと温泉に浸ることができた。湯温もワタシ好みのぬる湯で、開け放たれた大きな窓からは心地よい風が入ってくる。実に実にコンフタブルな状態で幸福感に包まれた時を過ごすことができた。こんな心地よさは今年初めてだ。

それにしても、田んぼの広がる平地になぜこんな温泉が湧き出るのか不思議だ。鬼怒川温泉や那須からもだいぶ離れている場所なのだが。。
喜連川早乙女温泉は間違いなくマイ・ベスト温泉上位認定である。

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とうぶねりま民からの伝言。

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 梅雨の晴れ間ですね。っていうかホントに梅雨入りしたんすか?


今回は、毎度おなじみ1979年シリーズから。

昭和時代を知っている人間ならばこの写真をみてすぐにわかると思いますが、これはかつて鉄道駅で目にした「伝言板」あるいは「忘れ物掲示板」だ。

今はもう個人でモバイル通信機器を所持しているのが当たり前の時代なのでお役御免となり、まさしく昭和の遺物ですね。(今でも忘れ物掲示板はあるけど)
わからない方に説明すると、これは駅での待ち合わせの時などに利用された個人間の連絡用黒板だ。

写真の伝言板は、撮影時のネガから判断すると東武練馬駅に設置されていたものと思うが、なんともアホな書き込みしかなく、地元民としては情けなくなりますな。おそらくは駅を利用していた今はなきK野高校生かS村高校生が書いたもの(D東大生ではありませんように‥)と思われる。

まあでも公共の場に置かれた伝言板なんてたいていはこんなもんで、相合傘とか卑猥なマークが描かれるのが関の山だったと記憶する。

さて、ここに書かれた伝言を読むと、ちょっと懐かしい文言があったりする。たとえば、

「3:00にTVの前行くからまってなさい!」

これなんかは、ああそうだったよなとおもわず頷く。

池袋駅での待ち合わせ場所といえば”いけふくろう”が有名だけれど、東上線民にとっては西口東武デパートエスカレーター裏の”マルチスクリーン”が現在でも鉄板の待ち合わせ場所だ。当時は「36面テレビ」などと呼んでおり(人によるけど)、36台のブラウン管モニターが並んでいた。最近行ってないので違うかもしれないが今は液晶の大型モニターが数台設置されているのかな?だから昔に比べるとあまりインパクトはない。

続いて見ていくと「あしたは楽しい一日なのら」との書き込みは、当時少年サンデーで連載されていた楳図かずお先生の「まことちゃん」からきているのか?川崎麻世さんはわかりますね。

それにしても、個人情報保護が叫ばれる平成の世では、アナログな伝言板などはもっての他かもしれないが、大災害が起こり通信手段が途絶えた時に備え、昭和の頃にはこんな手段があったと覚えておいたほうが良いのかもしれない。

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板橋区民、下町で寛ぐ。

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 暑い。いや、熱い。

とうとうこのフレーズを書く季節が到来したような感じですね。


さて、板橋区民は温泉が好きだ。でも銭湯(除くスーパー銭湯)にはあまり行くことはない。だから、銭湯巡りをしたことはない。

先日、都内城北方面へ出かける機会があり、それならば前から気になっていた場所に寄ってみるか、と思った。
それが、墨田区石原にある銭湯「御谷湯(みこくゆ)」だった。

銭湯=公衆浴場には「一般公衆浴場」と「その他公衆浴場」とがある。サウナ専用浴場や大多数のスーパ-銭湯などは「その他公衆浴場」だ。
「一般公衆浴場」は、営業施設の距離規制や入浴料の上限などが制定されている一方で、水道料金の減免固定や資産税の減免、低金利融資や利子補填など好条件での貸付け助成金の交付などさまざまな特典によって保護もされている。

「御谷湯」は東京都内にある銭湯の中で”スリートップ”と呼ばれるレジェンド級の公衆浴場のひとつで、他の二つは武蔵小山の「清水湯」と練馬区桜台にある「久松湯」。いずれも天然温泉なのに入浴料は460円!しかも内部の設備も素晴らしい公衆浴場なのである。


用事を終え、さっそく営業開始時間の午後3時30分にあわせて「御谷湯」へ。下町の住宅街の中にあるので、すでに一番風呂を目指す常連客が列を作っている。

もともと「御谷湯」は昭和22年に開湯した老舗銭湯だけれど、昨年リニューアルし、以来銭湯フリークの評判を呼んでいる。惜しむらくはアクセスがいささか悪く、位置的にはJR総武線の両国駅と錦糸町駅の間(どちらかというと錦糸町の方が近いかな)にあり、都営新宿線の菊川駅を入れてもいずれも1キロ以上歩くことになる。ただしバス停からは2分くらいだ。

一階で下足と受付を済ましエレベーターに乗り浴場へ。風呂は4階と5階にあり、男湯女湯として入れ替わる方式だ。訪問した日は4階が男湯で、体温と同じくらいの湯温の不感温温泉がある。

まだリニューアルして1年なのでさすがに浴室はピカピカできれいだ。カランも現代風なのだが水と湯の出る蛇口が分かれている昔の銭湯タイプだった。料金が安い分、ホディソープもシャンプーも無いのがちょっと難点かな。

板橋区民は”先洗いタイプ”なのでカランで頭や体を洗ってからいざ浴場へ。ここの温泉は黒湯だけれど透明度は60センチくらい、和光の極楽湯は日によるけれど濃い日は透明度1センチくらいなのでそれに比べればだいぶ薄い。
露天ではないけど外側には薬湯があるのでまずそちらへ。4人入るといっぱいになるくらい狭い浴槽だが、窓からは目の前に東京スカイツリーがど〜〜〜んとそびえ立つ抜群の眺望だ。(木の格子越しですが)5階の半露天風呂からはもっと眺めが良いそうだ。

地域のランドマークを眺めながら湯に浸かるのは礼文島の温泉から利尻富士をながめながら入った時以来だったかな。ただこの日は水色の薬湯で、なんだかブルーレットの中に浸かっているような気分でイマイチでした‥

入湯した時は一番風呂を目指す人でごったがえしていたけど、常連客には早く出る人もいて30分くらいするとちょうどいいくらいに空いてきた。しかし地元柄なのか全身倶利伽羅紋々の方もいたりしてなんだか昭和気分がする。東京都の公衆浴場はタトゥー禁止がデフォなのかと思っていたがそうでもないようだ。よくあるお断りの張り紙もないし。
昭和40年代に実家の改装で半年ほど地元の黄金湯(今でもある)に通っていたが、当時もよく紋々な方を見かけたものだ。

1時間ほどゆっくり入浴を楽しみ「御谷湯」を後にした。ふと建物脇を見ると「水琴窟」が設けてあったのに気がついた。公衆浴場を作る条件ではないであろうこんな設備を作っちゃうところが”下町の粋”ってやつなんだろうなあ。。


「御谷湯」HP http://mikokuyu.com/aboutus

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板橋区民、一世代前の大山に立つ。

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 雨だったり晴れだったり忙しいですね。


今回は1979年に撮影した大山ハッピーロードの写真から。


いままで東武練馬シリーズを公開してきましたが、こんどは大山だ。
なんで1979年なんだ?と思う方がおられるかもしれないけれど、それまでオリンパス派であった板橋区民がニコン信者に転向し、スナップ写真の練習を盛んにしていた時代だったからで、そのネガを捨てなかったから写真が残っているのだ。他に、同時期に高島平団地や池袋、新宿、原宿などで撮影してましたがそれらはまたの機会にでも。

ここ何年(何十年)も写真雑誌を見てないけれど、写真雑誌には必ずコンクールコーナーがあり、カテゴリーとして「スナップ写真」という部門があった。個人情報のうるさい現在ではどうなっているのかわからないけれど、いちいち許可をとらなければ街角で写真を撮れないかのような時代になるのは息苦しいことだと思う。

撮影地の大山ハッピーロードは戦後に誕生した商店街で、それまでは旧川越街道沿いの一地域に過ぎず、東上線の大山駅が開業してから(1931年・昭和6年)本格的に商店が増えはじめ、大東亜戦争後に闇市として一気に商店街の原型ができたという。

ハッピーロードにアーケイドができたのは1978年で、それまでは”大山美観街”という名前だった。(この辺おおざっぱですがすみません。)
板橋区民は水道タンクの近くに親戚の家があったので子供の頃から大山駅を利用していたけれど、アーケイドのなかった時代をさっぱり思い出せない。覚えているのは今のクレープ屋の隣?に「元禄寿司」という当時めずらしかった回転寿司があったことだ。不確かな記憶だけれど、たしか東京で初めてか最古級の回転寿司屋だったと思う。

大山ハッピーロードは現在でも都内有数の商店街で、マスコミの取材も多い。そして区内でももっとも写真に撮られたことが多い場所だろう。板橋区にも相当数の古写真が残っていたりする。

しか〜しである。

アーケイドの無かった時代の写真を見ても、自分には懐かしい感情が浮かばない。それは実感としてその写真の風景を捉えられないからだ。

その点、掲出の写真は自分が撮影したのもであるし、アーケードが出来た翌年に撮影したものであり、1990年代に大幅に改修され店も変わったけれど、現在にも通ずる風景なので、懐かしさを共感できる人は多いかもしれない。
にしても40年近く前なので、ここに写る幼児はいまや40代、母親世代は後期高齢者だし、お年寄りの方は100歳を超えるお歳になっていことを考えると感慨深い。


現在、大山ハッピーロードは補助26号線計画が本格的に進み始め、分断されようとしている。もともとアーケイドはこの計画を阻止するために当時の方々の奔走により建設されたものなのだが、時代も世代も変わったということなのだろうか、もしも新道路が建設され、分断されたアーケードの維持をどうするのかも大きな問題であり、将来的に撤去ということになれば、掲出の写真に懐かしさを共感する人もいなくなるのかなあ‥

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板橋区民、一世代前の大山に立つ。(縦位置特集)

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 蒸しムシしますね。。

引き続きまして1979年@大山第二弾、ということで。


最初の写真は大山ハッピーロードの北側、現在の遊座商店街で、当時は「板橋区民館通り」の看板がありました。ずっと文化会館だと思ってましたが、違う名称なんですね。

わかりにくい配置になりましたが、次の写真は最初の写真の左となりにカメラを振って撮った写真で、ゲーセンが写ってますね。ここで3枚目の写真へ、これはたぶん現在の大山駅北口を出たところにあるパチンコ屋だと思いますが、ここもゲーセンでした。両方ともインベーダーゲームをメインにしたゲーセンです。

さて、2枚目と3枚目の写真、同じゲーセンでも違いがありますがわかりますか?

答えは2枚目の「TVゲーム インベーダー」がパチもんで、3枚目の「インベーダーハウス リカ」が正規店なんですね。正規店はインベーダーハウスと名乗ってました。

あの一世を風靡したTVゲーム「スペースインベーダー」は、株式会社タイトーが1978年(昭和53年)6月に発売したアーケードゲームです。
この写真は発売翌年の6月に撮影したもので、ようやく大山に専門店が出来た頃。インベーダーゲームは爆発的な人気を博したため、初期のころはコピーマシンが氾濫し、こうしたパチもの機を置くゲーセンもばんばん増殖していたのだ。だから3枚目の店は看板に”タイトー製”とでかでかと書き、正規品を置く店だとアピールしているのです。

もちろん撮影当時はそんな業界事情なんぞ知りませんでしたが。

薄い記憶を辿ると、ブラウン管に映し出すTVゲーム機が登場したのが昭和40年代の後半で、最初はピンポンだかテニスと銘打った球を弾き返すだけの単純なゲーム機しかなくて、そのうちブロック崩し的なものへ変化し、インベーダーをきっかけに大革命が起きて、「ギャラガ」とか「平安京エイリアン」とか「パックマン」など世界的にもヒットしたゲーム機が普及していったような感じですかね。とにかく身近に「新しいもの」がどんどん増えていった時代でした。(ウオークマンとかビデオデッキとか)

いまでは写真といえばデジカメですが、はじめてデジカメの概念を知ったのも1980年代初頭のこと(ソニーが開発したマビカ)でしたか、当時、文系脳の工学部生だった板橋区民は、教授がスライドで”未来のカメラ”について講義しても実感として全く理解できず、おとぎ話を聞いてるようでした。パソコンもフォトショも概念にないんだからしかたありませんが。

考えてみれば板橋区民世代は戦争の実体験こそありませんが、アナログ時代からデジタル時代への劇的移り変わりをリアルタイムで経験し(その過程でさんざん無駄な投資を強いられましたが)、それはそれで未来の人たちから羨ましがられるのかもしれません。1979年当時、携帯電話やネットやパソコンがこんなに生活になくてはならないほどのものになるなんて、一般の人間には想像すらできませんでしたからねえ。。

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シン・伝説の人〜練馬のアンリ・カルティエ=ブレッソン〜

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 雨の日と晴れの日の温度の差が激しく、しんどいですね。


久しぶりに、”伝説の人”シリーズを。


ここのところ自分が昔撮った写真を続けてUPしておりますが、本当はあまりにヘタクソな画を晒すことで恥ずかしい思いをしている。なので「歴史写真」というカテゴリーで語っているわけなんですよ。

そこで「これが本物のスナップショットだ。」という写真を撮れる方を紹介したい。
実は、その方はすでにこの世にはおられない。鬼籍に入ってしまわれてからもう十数年が経つ。

お名前は大木貞吉さん、という。
ご出身は練馬北町、といえばあの北町一の大地主な一族を思い浮かばれるだろうけれど、大木一族は江戸時代初期から地域に根ざしていたので、同じ大木家でも数百年の歳月により血の薄い濃いがある。

なかでも大木貞吉さんは、名主の大木金兵衛家に非常に近い家柄に生まれた。戦時中を小学校低学年で過ごし、その時に小児麻痺を患い歩行が不便となり、以来松葉つえが手放せないお身体となった。
カメラとの出会いは中学三年の時、長い距離の通学はできなかったので近所の都立北野高校へ進学し写真クラブに在籍した。

その後は家業の不動産管理会社を継ぎ仕事の合間に写真撮影を楽しんでいた。本格的に写真に取り組むようになったのは昭和62年(1987)にアマチュアカメラマンのクラブに入ってからで、そこから数年で力量を上げ、いつしか”コンテスト荒し”と呼ばれるようになり、平成4年(1992)にはカメラ雑誌「日本カメラ」で年度賞第1位を受賞した。後に聞いた話だが、写真雑誌からコンテストに応募するのをやめてくれと言われていたそうだ。(そのかわり特集コーナーを組まれたりした。)

翌平成5年、大木さんはそれまでの集大成として新宿の京王プラザホテルにあるニコンサロンで写真展を開くことにした。ニコンサロンでアマチュアカメラマンが単独写真展を行なえるのは最高峰の名誉なことだ。
で、板橋区民はその時、読売新聞に載った写真展の記事を読み、おお、地元(練馬区ですが)の方がニコンサロンで写真展か、すげえ。と思い、すぐに会場へ出向いたのだ。

通い慣れた西口ヨドバシカメラ本店を越えてニコンサロンへ行くと、大木さんは受付におられた。初対面だったが新聞に掲載されたお顔なのですぐにわかった。なかなかがっちりとした体型の方だが、そのがっちりしたお体を両腕の松葉つえで支えていた。

大木さんが得意としたものは「スナップ写真」で、写真の分野としては「風景写真」とか「鉄道写真」とかいろいろカテゴリーに分かれ、それぞれ道を極めるのは大変だけれど、スナップ写真は主に撮影対象が”人間”となるのでとりわけしんどい分野だ。撮影後にトラブルになる覚悟も引き受けなくてはならないし。

写真展は「人間模様」と題され、浅草や巣鴨、雑司が谷など(練馬や板橋で撮った写真もある)下町で撮影された写真で構成されている。見ず知らずの他人を撮影対象にし、ほとんど気がつかれずにシャッターを切るのはすごいことで、さらにシャッターチャンスや構図も一瞬にして掴んで”作品”にまで昇華するのは至難の技である。しかも大木さんは両腕で松葉つえをつきながらそれを行うのである。

表題にあるアンリ・カルティエ=ブレッソンは、フランス人の写真家で、ロバート・キャパと共に写真家集団マグナムを創設した、スナップ写真界の大御所だ。「決定的瞬間」という言葉を作ったといわれている。

展示された素晴らしい写真の数々を拝見した後、自分が徳丸出身者である等地元話をひとしきりし、自費出版された写真集を購入させていただいて帰途に着いた。そこからハガキや手紙のやり取りが始まり、再度ニコンサロンで行われた写真展にもお邪魔するようになった。

そのころすでに板橋区民は”板橋区を趣味とする”と宣言していたので、大木さんからもいろいろ昔話を伺っていた。
御維新のころ、上野で敗れた彰義隊が飯能方面に敗走し、途中、旧川越街道の下練馬宿の名主・大木本家に寄って休息した際、武器類を置いていったそうで、年に一度庭一面にそれらの武器類を並べて虫干ししていたことや、大河内傳次郎の映画を屋内で撮影した話などは大木貞吉さんから聞いた話だ。

たまたま北町で不動屋さんと話す機会があり、大木貞吉さんのことを伺ってみると、「あの人は恐ろしいのよ。借りにきた人の頭のてっぺんからつま先までギロリと睨み回し、あんたには貸さない。と言い捨てたりするの。」なんてことを聞いたりしたが、趣味を通して知り合ったからか自分にはとても親切に話をしてくれる方だった。もっとも心底そんな強面の性格なら、人間を相手にするスナップ写真なんて撮れるわけがないだ。

ある時、どうしたものか大木さんから長い手紙をいただいた。手紙には大木さんの幼い頃の思い出が綴られており、なぜお身体が不自由になったかなど相当にプライベートな内容が含まれていた。当時の事情もあるけれど結構ショッキングなことで、ブログ上で書くのは憚れるのである。


最後にお姿をみかけたのは、西台駅近くをバイクで走行している時で、高島通りで松葉つえをつきながら奥様に支えられ、ライカかミノルタCLEのレンジファインダーカメラを構えておられる所に偶然通りかかった。一言二言お声をかけ、そのままバイクで辞したが、それからしばらくして亡くなられたことを奥様からの電話で知ることになった。

今でもたまに大木さんの写真集を眺めることがあるけれど、つくづく人間の対象を捉える技術力の高さにため息が出るばかりなのである。

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